甲賀源吾 (1838〜1869)
 遠州掛川藩出身。寡黙な人間であったようである。
 当初昌平坂学問所に通ったがこれに満足せずに洋学を志し、矢田掘景蔵の塾で航海術を学び、次いで荒井郁之助の塾で数学を学んだ。
 戊辰戦争時には榎本艦隊の江戸脱走に参加し、五稜郭に向かった。江刺沖で旗艦「開陽」が沈没すると「開陽」に代わって「回天」が旗艦となり、甲賀源吾は榎本艦隊の軍艦奉行に就任した荒井郁之助の推薦で、一躍「回天」艦長に抜擢された。
 明治二(1869)年三月二十日、宮古湾海戦に出撃。この際、切り込みに依る甲鉄奪取を企画し、尻込みする首脳陣に対して「回天一隻でもやってのける」と主張したと云う(「燃えよ剣」では恰も土方が考案したように語られているが、これは司馬センセイの創作らしい)。
 海戦に当たっては官軍艦隊が暴風雨を避けて宮古湾に立ち寄る事を予測したり、首尾良く甲鉄に近付く等優れた艦長としての手腕を見せた。しかし回天の舵に故障が合ったのか肝心の接舷に失敗してしまう。甲賀艦長は不利を挽回すべく艦上から指揮を取り、艦首砲に榴散弾を詰めて発射する等精力的に指揮を取ったが、甲鉄のガトリング砲に依る射撃を腕に一発、足に一発受けて負傷した。それでも屈せずに指揮を取り続けたが、遂に三発目の銃弾をこめかみに受けて戦死した。