山内六三郎
 後に堤雲と号する。
 御家人山内豊城の三男で、当初順天堂で医学を学び、後に小十人役・砲兵指図役勤方に取り立てられた。

 大政奉還後は開陽乗組士官兼英語翻訳方として榎本艦隊に参加し、「英語力を駆使して当時横浜に係留されていた甲鉄の『速射砲』を持ち出して来たよーん」と云う自叙伝(『山内堤雲翁自伝』)を残して居る。
 開陽の引き上げが始まった際、小銃弾にしては大き過ぎ、大砲の弾にしては小さ過ぎる直径15o/長さ35oの銃弾が見つかり、それがガトリング砲の砲弾と分かってその出所を巡って物議を醸したが、後にこの自叙伝が発見されて全ての謎が解明されるのであった。

 開陽沈没後は総裁付。

 維新後は和歌山小参事浜口梧陵の推薦で英語学校「共立社」の通訳になったり、弟徳之助と共に北海道開拓使に仕えて煤田開採事務係事務長(炭田開発の責任者)になったりと、テクノクラートとして活躍している。