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秋田藩
 秋田藩は元来蝦夷地警備を分担する藩の一つであり、幕末に至って蝦夷にロシア軍艦が出没するようになると、しばしば出動を命令された。その為、海防意識は高くなったが、藩の軍事制度は旧態依然たる物で、海軍の設置も困難であった。

該当無し 該当無し 該当無し 高雄 該当無し
該当無し 該当無し 陽春 該当無し 該当無し

 

高雄
所属: 秋田藩→榎本艦隊  
艦長: 田島圭蔵(薩摩藩士)→古川節蔵(幕臣)
(副長:井上干城(薩摩藩士))
艦種: 砲艦
材質: 木製
機関: 蒸気内車
マスト: 3本
備砲: 5門
定員: 30名
全長:  
全幅:  
排水量: 400t
出力: 350馬力
速力: 20ノット
解説:
 原名アシュロット。アメリカで建造され、同国のブレーキ商会を経由して七万両で秋田藩に売却される。別名「第二回天」(若しくは「二番回天」)
 秋田藩は早くから尊王派として戊辰戦争を戦って居り、その作戦計画の一角として、薩摩藩士田島圭蔵の指揮の元同じ尊王派の松前藩に補給に寄港した。ところが、松前藩は既に榎本艦隊によって制圧されており、何も知らずに立ち寄った高雄はあっさり拿捕されてしまった。そして乗組員は釈放されたが、艦長田島及び副長井上は一ヶ月ほど幽閉され、高雄は以後榎本艦隊に属する事となった。
 宮古湾海戦に出撃するが、途中暴風雨に遭い機関を損傷。宮古湾での戦闘には参加せず、戦闘後は遂に機関が直らず脱落。敵の手に渡るよりはと暗礁に乗り上げて自沈し、乗組員を退去させた後に火を放った。翌日、新政府艦隊の旗艦「甲鉄」と軍艦「春日」が現場に到着し、数発の威嚇射撃を行ったが反応が無かったので臨検隊を派遣した。すると艦内はもぬけの殻で、損傷も激しく実用に耐えない事が判明した為、甲鉄座乗の海軍参謀増田虎之助の指示で焼却された。
 一方、艦長以下乗組員96名及びフランス海軍士官コラッシュらは盛岡藩内に上陸、盛岡藩に保護を求めた。既に官軍に降伏したとは云え、元々佐幕色の強かった盛岡藩では、高雄乗組員を手厚く遇した。また彼らが逗留した普代村の村人も久々の客を大いに歓待し、14,5歳の村娘がこぞって給仕に出た。その後、乗組員らは東京に護送されて榎本艦隊に関する情報等を訊問され、明治三年に漸く解放された。
 ちなみに、普代村では後々まで高雄乗組員の残した梅毒に苦しめられたと云われている。

 

陽春
所属: 秋田藩→明治政府 陽春
艦長: 谷村小吉(薩摩)→石井貞之進(佐賀)
艦種:  
材質: 木製
機関: 蒸気内車
マスト:
備砲: 6門
定員:  
全長: 55m
全幅: 10m
排水量: 530t
出力: 100馬力
速力:  
解説:
 1864年アメリカで建造、原名カガノカミ号。アメリカ商人ウォールスの所有する輸送船。
 慶応四(1868)年閏四月、官軍の委託を受けたて東征軍兵士を積載して横浜を出発したが、局外中立宣言違反であるとしてアメリカ海軍の砲艦「イロコイ」によって抑留されてしまう。その後、六万七千五百両にて秋田藩に売却され、榎本艦隊に箱館を占領され、退却してくる箱館知事清水谷公考(しみずだに きんなる)一行を収容して東京に送り届けた。
 後、明治政府に徴発され函館戦争に参加した。先ず、陸兵を品川から輸送、矢不来、弁天台場砲撃を行った。
 なお「陽春」とは春の盛りの、陽気天地に満ちる季節の事である。

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