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明治政府
 明治維新後成立した明治政府は、早速日本の主権者として相応しい海軍の創設に乗り出した。その基盤は薩摩・長州の艦であり、それに土佐・佐賀・広島等の後期に入ってから尊王派に寝返った諸藩の軍艦を接収して成立した。そしてそれに加えて徳川幕府艦隊の半数を接収して漸く海軍としての体裁を整えたが、徳川幕府の遺臣達による「榎本艦隊」 はこの成立したばかりの海軍よりも装備・人材共に圧倒的に強力だった。この形勢が逆転したのは、明治政府が大胆な外交手腕によって甲鉄艦を購入して以降である。以後、この強力な軍艦によって榎本艦隊を駆逐した明治政府は海軍国家としての道を歩み始めて行くのである。

該当無し 甲鉄艦 摂津 該当無し 該当無し
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甲鉄艦
所属: 明治政府 甲鉄艦
艦長:  
艦種: バーク級装甲衝角艦
材質: 鋼鉄装甲
機関: 蒸気内車(レシプロ二軸)
マスト:
備砲: 7門

艦首砲塔:300斤ガラナード砲 1門
後部砲塔:27ポンド・アームストロング砲 2門
6ポンド・アームストロング砲 1門
4ポンド・アームストロング砲 1門
1インチ・ガトリング砲 1門

定員:  
全長: 55.7m
全幅: 9.6m
排水量: 1358t
出力: 1200馬力
速力: 9ノット
解説:
 フランスでの艦名は「スフィンクス」、アメリカではストーンウォール・ジャクソン号。
 南北戦争中の1864年、南軍がフランスのボルドーにあるロシュフォール造船所に発注して建造された。しかしながら、この艦が完成する頃にはフランスと南軍が仲違いしてしまっており、同艦は非常に数奇な運命を辿る事になる。先ず、この艦は当時プロイセンと第二次シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争を戦っていたデンマークに輸出されたが、デンマークに届く前に戦争は終結し、デンマークはこの艦をキャンセルする。仕方無くフランスに戻る途中、南軍により奪取されてスペインに遁走。其処で「ストーンウォール・ジャクソン」号と名付けられ、南米に回航されたがそこで終戦を迎えた。
 こうしてジャクソン号を入手したアメリカであったが、当時のアメリカは南北戦争の終結を受けて軍縮の真っ最中であったので、これを丁度アメリカに軍艦買い付けに来ていた幕臣・小野友五郎に40万ドルで売却した。幕府は30万ドルを先払いとし、残金は鑑が到着してから支払う事にした。慶応四(1868)年四月、アメリカ海軍の手により横浜に到着したが、アメリカ公使は局外中立を宣言して当時江戸を占領していた明治政府への引渡しを拒否した。
 戊辰戦争終結後、アメリカが漸く明治政府を公認してジャクソン号の引き渡しに応じたので、明治政府は残金を支払ってジャクソン号を購入して便宜的に「甲鉄」と名付け(何しろ他に装甲艦が無いので、「甲鉄」と云えば通じてしまったのだ)、艦隊に編入した。こうした紆余曲折を経て、甲鉄は明治二(1869)年三月に江戸を出発、函館攻略に向かった。
 この船は当時最新の鋼鉄装甲艦で、舷側装甲は70〜120 mmの厚さを誇っている。これは重装甲で相手に突撃し、艦首の300斤ガラナード(グレネード=榴弾)砲で敵の足を止め、衝角で相手の艦底を破ると云う突撃戦法に特化している為である。また、甲板にはガトリング砲が備えられ、函館攻略の途中宮古湾で切込みを掛けて来た榎本艦隊の回天の陸戦部隊を撃破した。この時、同艦にはイギリス軍人が多数乗船していたらしい。勿論、国際法違反なので深く秘密とされたらしいが……。
 甲鉄は函館戦争で明治政府艦隊の旗艦として活躍した。その際、松前城から砲弾一発を受けたが、負傷者0と言う凄まじい防御力を見せた。1873年東艦と改称、1890年廃艦。

 

摂津
所属: 明治政府
艦長:  
艦種: シップリック級砲艦
材質:  
機関:  
マスト:
備砲: 8門

16pクルップ砲4門
その他4門

定員:  
全長: 49.2m
全幅: 9.6m
排水量: 920t
出力: 300馬力
速力:  
解説:
 アメリカ製、慶応四(1868)年六月維新政府が購入。七月には官軍参謀山田市之允を司令官とする軍艦第一丁卯(長州)、輸送艦の千別丸(柳川)・大鵬丸(福岡)・錫懐丸(加賀)・万年丸(広島)等六隻の艦隊を率いて北越戦線に向かった。此処では、陸兵の上陸を支援した後、新潟港に襲来。沿岸に砲台を築いた米沢藩大砲隊と砲撃戦を行う中で被弾し、射程外に撤退した。砲弾は艦の左舷から右舷を貫通し、八丈島出身の水夫菊四郎が戦死したが、艦自体の破損は軽微だった。そこで菊四郎を水葬にし、艦を修理して翌日砲撃を再開した。
 実は購入時には既に老朽化しており、明治五年七月には機関を撤去して帆走練習艦となった。明治十三年には航行が困難となり、係留練習艦となった。明治十九年除籍。

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