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人材

 朝廷は江戸時代のほぼ全期間という長い間、政治活動を禁じられてきた。その為、上級公家には人材が払底していたが、長い間貧乏な暮しをして来た下級公家には燃える情熱と才能を持った者が多く出た。但し、彼らの多くは用心棒兼参謀の様な志士を雇っており、彼らの事績の何処までが彼らの才能による物かは断定出来ない。

姉小路 公知
有栖川 幟仁親王

有栖川宮 熾仁親王
岩倉 具視
正親町三条 実愛
大原 重徳
九条 尚忠
近衛 忠X
近衛 忠房
西園寺 公望
沢 宣嘉
三条 実美
三条西 季知
四条 隆謌
鷹司 輔X
鷹司 政通
中川宮 朝彦親王
中山 忠光
中山 忠能
二条 斉敬
錦小路 頼徳
仁和寺宮 嘉彰親王
野宮 定功 
東久世 通禧
壬生 基修
六条 有容

姉公路 公知 (あねこうじ きんとも)
 若く、剛胆な中級貴族。1839年に左近衛権少将姉公路公前の長男として生まれる。色黒・短躯で「黒豆」とあだ名されたが、才知と豪胆さを備えている。
 条約勅許問題以来、尊王攘夷思想を以て朝廷に参加し、若手尊王派公家の代表人物となった。しかし、文久三(1863)年に朝廷内に新設された「国事参政」に就任し、国防に直接参加することが出来るようになった時、彼の悲劇は始まってしまう。即ち、摂津方面の防衛を任された彼は、幕臣勝海舟に説得されて軍艦で防衛体制を巡察。防衛体制の不備を痛感する余り、攘夷思想を捨て開国思想を持ったのである。この事は尊王攘夷派にとっては重大な裏切り行為であり、彼は同年五月二十日に何者かによって暗殺された猿ヶ辻の変。犯人は長州藩の者とも、薩摩藩士田中新兵衛であるとも言われている。何れにせよ、その死に際に見せた勇気は公家には希なものであり、彼が生きながらえていれば必ず明治政府の重鎮になったであろうと云われている。

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有栖川宮 幟仁親王 (ありすがわのみや おりひとしんのう)
 家領千石。文化九(1811)年生。尊王攘夷派。禁門の変後、朝廷を追放された。

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有栖川宮 熾仁親王 (ありすがわのみや たるひとしんのう)
 幟仁親王の嫡子。第14代将軍徳川家茂に降嫁した皇女和宮の許嫁。恋人を奪われた恨みからか、過激な尊王攘夷派となる。禁門の変後、朝廷を追放されたが、王政復古と共に復帰。更に江戸攻撃を行う東征軍総督に就任、復讐を果たした。
 明治維新以降は西郷隆盛と並んで日本にただ二人の陸軍大将に就任。西南戦争に際しては討伐軍総司令官を努める等陸軍の象徴的存在として活躍した。

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岩倉 具視 (いわくら ともみ)岩倉具視
 公家堀河康親の次男として生まれる。幼い頃より知略と剛胆をもって知られ、それを見込まれて岩倉家の養子となる。岩倉家は下級の公家で、第六代の尚具が宝暦事件に巻き込まれて処分される等、具視の性格に影響を与えたと思われる。
 学生時代に塾で講義そっちのけで将棋を指していたり、家で賭場を開かせて場所代を徴収したり、その性格を伝えるエピソードには事欠かない。
 岩倉は朝廷内でも広い見識を以て知られる前関白鷹司政道の歌道の弟子となった。鷹司は岩倉の才能を見抜き、岩倉を孝明天皇の侍従に推挙した。侍従となった岩倉は日米通商条約勅許に反対し、八十八人の反対派公家を引き連れて参朝し、勅許を撤回させるという活躍を示した。岩倉は引き続き安政の大獄でも京都所司代酒井忠義を説得し、公家達に及ぶ被害を最小限に留めた。
 桜田門外の変後、態度を軟化させた幕府と妥協し、和宮降嫁の為に活躍したが、その為に尊王派に恨まれて所領の洛北岩倉村に隠居させられた。以後暫くの間、岩倉は幕府の犬と見られ、孤独な生活を送る。
 しかし慶応元(1865)年、京都の志士集団「図子党」の松尾相永と藤井九成の二人が岩倉を気の毒に思って世情をもたらすと、岩倉は公武合体から倒幕に思想を変更、彼ら「図子党」の協力を得て岩倉村に潜伏したまま策謀を巡らせた。その見識は深く、噂を聞いて岩倉を訪れた志士や公家達は皆こぞって同志となった。そして、勢力を拡大した岩倉は薩摩藩と接触、以後、両者の同盟は幕末朝廷を縦横に操る事になる。
 また岩倉には堀河紀子と云う実妹が居た。彼女は元女官であり、朝廷内には彼女のシンパが多く、岩倉もそのコネを大いに活用して暗躍したと言われている。
 そして、事態は動き出す。慶応二(1866)年十二月、強力な保守思想・公武合体思想で朝廷と幕府の強力な架け橋となっていた孝明天皇が崩御した。この崩御によって明治天皇が即位、これをきっかけに朝廷内部では公武合体派は勢力を失い、尊王派が勢力を伸ばした。そのタイミングが良かったので、孝明天皇の死は岩倉による毒殺ではないかと疑われる程であった。
 岩倉は朝廷を仕切り、慶応三(1867)年十月に倒幕の密勅を下した。幕府は大政奉還で対抗するが、12月には小御所会議で徳川慶喜と公武合体派公家の勢力を奪った。特に、小御所会議では持ち前の弁舌で徳川家を弁護する前土佐藩主山内容堂に対して、ふと容堂が漏らした「幼冲の天子」と言う言葉を切っ掛けに反論。「英明な今上を幼冲とは何事か!」と遣り込め、その弁舌を封殺した。
 その功績で左大臣に昇進し、三条実美と共に新政権のリーダーとなった。
 明治政府では近代化と立憲君主制の動きを示す官僚達に対して、天皇を中心とした政府を志向し続け、華族制度等の樹立に尽力した。

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正親町三条 実愛 (おおぎまちさんじょう さんなる)
 家領200石。文政三(1820)年生。大納言、議奏を務める。尊王攘夷派公家だが穏健な思想の持ち主であり、会津藩とも交流があった。

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大原 重徳 (おおはら しげのり)
 左衛門督、御切米30石3人扶知。享和元(1800)年に権中納言大原重伊の五男として生まれた。尊王攘夷派の長老格で、孝明天皇の覚えも目出度い寵臣。公家にしては剛毅果断で、「鵺卿(ぬえきょう)」と渾名された。
 文久元年には幕府に改革を迫る勅使として薩摩藩公島津久光と共に出府、「もし幕府が改革を受け入れなければ切腹する」と云って帯刀のまま(勅使は脇差を取って対面するのが慣例であった)家茂に対面し、名声を馳せた。
 その後、尊皇攘夷派の退潮に従って不遇を託ったが、慶応二(1866)年八月三十日、第二次長州征伐の失敗に乗じて中御門経之ら二十二名の廷臣と連れ立って四か条の改革案を奏上し、長州の朝敵待遇の解除と謹慎中の尊王派公家の赦免を願い出た。これらの意見は孝明天皇によって却下され、彼らも謹慎処分に処せられたが、間も無く復帰。以後、勢いを増す尊王派公家の先鋒として活躍した。

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九条 尚忠 (くじょう ひさただ)
 寛政十(1789)年生まれ。藤原家から別れ、代々摂政を努める「五摂家」の一つ、九条家の幕末に於ける当主。九条家は公家の中でも鷹司家に次ぐ裕福さを誇り、鷹司家と並んで内裏の正面に広大な屋敷を有していた。
 安政三(1856)年に関白に就任。強固な佐幕派であり、安政五(1858)年に幕府が通称条約勅許を求めて来た際には実に一万両の賄賂を得て、条約許可を与えようとした。しかし、堂上八十八人の公家が一斉に参朝すると言う抗議行動によって勅許案は却下されてしまった。
 その後も京都所司代酒井忠義と計って和宮降嫁等の佐幕路線を推し進めたが、文久二(1868)年四月に島津久光が藩兵1000名を率いて上京すると、酒井は所司代屋敷を捨てて二条城に引き篭もってしまい、朝廷は公武合体派の掌握するところとなった。進退の極まった九条は関白位を近衛忠Xに譲る事となった。
 更に同年七月二十一日、安政の大獄や和宮降嫁で活躍した家臣・島田左近が、薩摩藩士田中新兵衛により暗殺される。それでも屈せずに左大臣として活動するが、王政復古クーデターにより解任された。明治四年死去。

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近衛 忠X (このえ ただひろ)
 文化五(1808)年生まれ。藤原家から別れ、代々摂政を努める「五摂家」の一つ、近衛家の幕末に於ける当主。
 貴族らしいのっぺりした顔立ちながら、目鼻立ちがくっきりしており意志の強さを感じさせる容貌であったと云う。薩摩藩と縁が深かった為、「薩州関白」とあだ名された。
 近衛家は江戸期を通じて儒学(朱子学)の家元を務め、幕府との関係が強く、佐幕的傾向が強かった。また、古来薩摩藩島津氏と関係が深く、戦国時代の当主近衛前久が天皇の不興を買って京都を追放されると、島津氏がこれを薩摩に迎えると云う出来事も有った程である。その縁で、江戸時代を通して島津氏とは度々婚姻関係を結んでいる。
 幕末には、薩摩藩の依頼を受けて公武合体派として活躍。天璋院が十三代将軍家定に嫁ぐ際には、近衛家に一旦養子入りしてから嫁いでいる。その後、一時安政の大獄で失脚するも、薩摩藩公島津久光が藩兵1000名を率いて上京すると、その威勢を背景に、幕府寄りの九条尚忠を糾弾して関白位を奪った。そして島津久光を勅使の護衛に推薦する等活躍したが、頼みの綱の久光が帰国すると、京都では長井雅楽を失脚させて尊王派が政権を握った長州藩や、土佐勤王党が若き藩主山内範豊を通じて政権を握った土佐藩が新たに台頭。彼らの起こす天誅騒動に公家達は恐れをなして尊王派支持に転じたので、孤立した近衛は文久三(1869)年に辞職した。後任は「長州関白」の異名を取る尊王攘夷派公家鷹司輔Xである。明治三十一(1898)年死去。
 昭和初期の政治家として有名な近衛文麿は彼の三代後の当主で、曾孫に当たる。

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近衛 忠房 (このえ ただふさ)
 天保九(1838)年生まれ。尊王攘夷派の台頭によって関白位を追われた近衛忠Xの長子。公武合体思想を持ち、国事掛に所属して政務を議論したが、過激な尊王攘夷思想に対しては批判的であった。その為、父親が引退すると巻き返しに奔走し、八月十八日の政変に協力した。
 その後も薩摩藩の代弁者として動き、長州藩赦免運動等に活躍した。
 明治六(1872)年、家督を継がないまま死去。家督は息子の篤麿が忠Xの養子に入って相続したが、明治政府の宮廷では重用されず、文化的活動に専念した。

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西園寺 公望 (さいおんじ きんもち)
 家領597石。嘉永二(1849)年生。若手の尊王攘夷派で、岩倉の子分的存在。才気があり、岩倉も武家ばかりが幅を利かせる尊皇派内の貴族閥の代表として期待していた。幕末の争乱では余り活躍しなかったが、鳥羽伏見の戦いの前夜、公家衆が秘密の会合を持って今後の方策を練った際、多くの公家が朝廷の山陰地方への逃走を訴えたのに対し、ただ一人「そんな事をしたら我が軍の士気に関わる」と主張して会議を方向付け、岩倉から「小僧、良く云った!」と賞賛された(西園寺自身は、「小僧とはまた失礼な」と書き残しているが)
 公家らしからぬ合理的な思想を持ち、洋服で宮中に参内して保守派公家の怒りを買う等、西洋文化、就中民主主義にかぶれた一風変わった貴族として名を馳せた。
 大正時代には、山県有朋無き後の最後の「維新の元勲」として国政を影で操り、英米との協調外交を行った。

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沢 宣嘉 (さわ のぶよし)
 御切米30石3人扶持。文化九(1811)年生。過激な尊王攘夷派で、国事御用書記を務めた。筋骨隆々たる体格で、鶏一羽を平らげて一升酒を飲み干す豪傑であった。また学問や剣術にも通じており、なかなかの才幹の持主であったらしい。
 七卿落ちで京都を追われた後、但馬で生野義挙に参加。但し三日で逃げ出して長州藩に匿われた。
 戊辰戦争時には九州鎮撫総督に就任。維新後は功績によって正三位・外務卿に任ぜられて外交に携わったが、不平士族との関係を指摘されて辞任した。

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三条 実美 (さんじょう さねとみ)
 上級貴族。父実万(さねつむ)は「今天神(菅原道真)」と呼ばれた秀才で、早くから尊王攘夷の志を持って政治活動を行っていたが、安政の大獄によって隠居させられ、さらに毒殺された。
 実美は父の遺志を継いで若くして過激な尊王攘夷派として活躍し、国事御用掛を務めた。特に長州藩と友好関係にあった。
 しかし、8.18の政変によって都を追われると長州に逃げ込み、第一次長州征伐に依って長州藩が佐幕化すると、更に太宰府まで逃れた。こうして彼は幕末の半分を京都の外を逃げ回って過ごしていたのだが、気が付いたら仲間は皆死んでいて自分が一番偉くなっていたので、新政府が成立すると一気に左大臣に就任した。性格は誠実で、気が弱い。女性の様な容姿で、在京の志士達の間では「白豆」等とあだ名されていた。

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三条西 季知 (さんじょうにし すえとも)
 家領502石。文化八(1810)年生。正二位権中納言、過激な尊王攘夷派。七卿落ちで京都を追われた。
 維新後は侍従・御歌掛長を務め、明治天皇に歌道を指導した。
 明治三年、職務を御歌掛高崎正風に譲って隠居。明治十三年、七十歳で死去。

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四条 隆謌 (しじょう たかうた)
 家領180石。文政十一(1828)年生。従四位下侍従。安政勤王八十八廷臣に参加する等、古参の尊王攘夷派であったが、七卿落ちで京都を追われた。
 戊辰戦争に際しては、奥羽総督として奥州戦線を転戦。戦功で陸軍少将に昇進し、維新後は大坂鎮台司令長官・名古屋鎮台司令長官・仙台鎮台司令長官等を歴任した。
 明治十四年二月、中将に昇進。元老院議員等を務め、明治三十一年死去。

鷹司 輔X (たかつかさ すけひろ)
 鷹司政通の長子。出家した政通の意志を継いで朝政に参加。尊王攘夷活動に邁進したが、既に内紛が多く政治力を失っていた水戸藩に代わって新進の長州藩と協力。文久二年には尊王攘夷派の隆盛を受け、近衛忠Xの後を継いで関白位に就任した。関白時代には、完全に長州藩の影響下に有った事から、近衛忠Xの「薩州関白」に対して「長州関白」等とあだ名されてしまった。
 八月十八日の政変で佐幕派が勝利を収めると、関白位を二条斉敬に譲って引退した。

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鷹司 政通 (たかつかさ まさみち)
 藤原家から別れ、代々摂政を努める「五摂家」の一つ、鷹司家の幕末に於ける当主。鷹司家は公家の中でも別格の裕福さを誇り、九条家と並んで内裏の正面に広大な屋敷を有していた。その規模は五千坪に及び、家臣も五十名を数えた。
 文政六(1823)年に関白に就任し、孝明天皇の践祚と共に摂政となり、朝議を統括した。安政三(1856)年には関白の座を九条忠尚に譲ったが、その後も「太閤」として朝廷に隠然たる実力を誇った。その威風の前には孝明天皇でも遠慮をしてしまい、「太閤には面と向かって物が言えぬ」と嘆かれる程であった。
 殊に、開明的大名・天下のご意見番として名高い水戸斉昭の娘を妻としていた為、内外の事情に精通し、日米和親条約締結の時には攘夷論で凝り固まった朝廷内で唯一人開国論を唱えていた。しかし通商条約に際しては、橋本左内の説得により勅許に反対。これは、一旦は条約に反対して見せて、もったいぶった挙句勅許を与え、その代わりに一橋慶喜の将軍就任を求めると云う作戦であった。しかし、その為に時の大老堀田正睦は失脚。堀田に代わって大老となった井伊が起こした「安政の大獄」による格好の目標とされ、免職の上出家させられると云う最も重い罰を受けた。以後、政局を遠ざかり、慶応四(1868)年に明治維新を前に死去。

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中川宮 朝彦親王 (なかがわのみや あさひこしんのう)
 青蓮院門跡。寺領千三百三十二石。先代仁孝天皇の猶子で、「獅子王の宮」との異名を取る豪放な性格の公家。
 公武合体・開国派として朝議に参加したが、安政の大獄で失脚。後許されて国事御用係に就任。孝明天皇の信任が厚く、文久三(1863)年から慶応三(1867)年の間の激動の時代に朝廷を運営し、8.18の政変等に活躍した。
 配下には武家公家有馬範顕を擁し、身辺警護を万全とする一方、会津藩より能吏として知られる倉沢右兵衛を招き、財政の建て直しを行った。但し、この財政建て直しは中川宮が浪費癖を改めなかったので失敗し、倉沢は憤然辞任してしまうのだが……。
 慶応三年十二月、岩倉具視の王政復古クーデターに敗れ、引退する。
 新選組との関係は、非常に良好である。特に近藤勇の提出した佐幕色の強い建白書が気に入り、倉沢の後任として近藤を配下に欲しいと云った事も有った程である。

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中山 忠光 (なかがわ ただみつ)
 忠能の七男で、母は平戸藩主の娘・愛子。忠能の長男・忠愛の養子に入ったので、公式には嫡孫に当たる。
 変名は「森俊斎(秀斎とも)」。容姿端麗で、人を惹き付ける魅力に富む。相撲が好きで、よく殿中で相撲を取っていたと言う。また性格には多少不安定な所があったとか。
 過激な尊王攘夷派で、父親の忠能の穏健な思想に反発。長州藩の後ろ盾の元、国事寄人として活躍した。天誅組に参加したが敗北後逃走、長州藩に逃れた。しかし、尊王攘夷思想が余りに過激であったので長州藩でも持て余し、支藩の長府藩に移動。長府藩の保守派によって暗殺された。
 維新後、各国藩主の論功行賞が行われ、藩主達は伯爵位を授けられた。しかし、戊辰戦争等で諸隊を派遣して力を尽くした筈の長府藩主毛利元敏の地位は子爵止まりであった。これには、明治天皇の叔父である中山忠光の暗殺が尾を引いていると云われている。

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中山 忠能 (なかがわ ただよし)
 家領二百石。文化六(1808)年正生、正二位大納言。大概の公家と同じく非常に貧乏で、天皇家に嫁いだ慶子が懐妊したと分かっても産所を建てる余裕が無く、市中の商人より金子150両を15年賦で借用しなければならないほどであった。
 過激な尊王攘夷派で、幕府の条約勅許申請に反対する等早くから積極的な活動を行い、議奏に任ぜられた。しかし、幕府の威厳を高める和宮降下に際しては主導的な立場に立ち、尊皇派に攻撃されて議奏を追われてしまった。
 禁門の変に際しては長州を助けた為、一時朝廷を追われたが、娘・新宰相慶子が生んだ明治天皇が即位したので外祖父として朝廷に復帰した。以後、大久保利通や岩倉具視と協同して「倒幕の密勅」を下す等尊皇討幕運動に活躍した。

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二条 斉敬 (にじょう なりたか)
 五摂家の一つ二条家の当主。二条家は今出川門外に二条殿と云う屋敷を持っている。
 佐幕派の重鎮で、眉尻と目尻の下がったふくよかな顔立ちながら志操は堅固で、尊王派からは「無能で頑固な老人」と憎まれた。
 八月十八日の政変の際に活躍し、鷹司輔Xから関白位を譲り受け、従一位に叙任された。明治天皇即位後は、天皇が幼少であったのでそのまま摂政に就任。しかし、王政復古に際して失脚した。
 会津藩が朝廷に持つ最も高位のパイプであり、新選組隊士とは殆ど縁が無いといって良いが、時に重要な任務を托されるかもしれない。そう云う意味で、名前だけは覚えて置いた方がいい貴族である。
 なお、王政復古の大号令で摂政・関白位は廃止されるので、彼が最後の関白である。

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錦小路 頼徳 (にしきこうじ よりたか)
 御切米30石3人扶持。天保六(1835)年生。従四位下右馬頭、過激な尊王攘夷派。七卿落ちで京都を追われた後、九州太宰府で病死した。

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仁和寺宮 嘉彰親王 (にんなじのみや よしあき)
 伏見宮邦家親王の長子で、北白川宮能久親王の実兄。幼少時に仁和寺門主に養子に出されたが、王政復古に伴って還俗。軍防総督、会津征討越後口総督等の要職を歴任した。越後口総督としては新発田藩領への上陸作戦を指揮。特に部下の内でも村田経芳重用し、大いに戦功を挙げた。その功績は大きく、大久保利通は彼を「壮烈ノ宮」と賞賛した。
 維新後は「ヨーロッパの王族にならって日本の皇族も軍務に付くべし」と云うノブレス・オブリッジの輸入を主張し、彼自身、佐賀の乱に際しては征討総督として、西南戦争では陸軍少将・「新撰旅団」旅団長として出陣する等率先垂範に務めた。これらの功績で明治十四年には世襲親王家に昇格し、明治十五年には仁和寺の寺領にちなんで「小松宮」と改めた。
 その後、陸軍大将に昇進して近衛師団長・参謀総長等を歴任。日清戦争が勃発すると、征清大総督として旅順に出陣した。また積極的な外遊や社会活動への貢献(日本赤十字総裁等)を行い、現代の皇族の基本的な活動スタイルを定めた。但し晩年は人間嫌いに陥っていたと云う説も有ることを付記しておく。
 明治三十六年病没。

 ちなみに実家の伏見宮家は公家としては異例の武張った家柄で、北白川宮も戊辰戦争時には東武皇帝、明治政府では陸軍軍人と度々実戦に参加している。 

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野宮 定功 (ののみや さだいさ)
 武家伝奏の一人、佐幕派。幕府と朝廷間の融和に務めた。
 会津藩が朝廷に持つパイプの一つで、新選組隊士も護衛その他の任務において会う事があるかも知れない。 明治十四(1881)年死去。

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東久世 通禧 (ひがしくぜ みちよし)
 御切米30石3人扶持。天保四(1833)年生。左近衛権少将正四位下、過激な尊王攘夷派。七卿落ちで政界の表舞台から転落したが、太宰府で坂本龍馬に面会。坂本を「偉人也」と評し、彼が推進する薩長同盟に同意を与えた。
 明治維新により復帰。戊辰戦争に際しては外国事務総督として東京に赴任し、軍艦「甲鉄」の引取りに尽力した。
 維新後、岩倉の欧州使節団に参加して見聞を広め、帰国後は枢密院顧問官等を勤めた。

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壬生 基修 (みぶ もとおさ)
 過激な尊王攘夷派。七卿落ちで京都を追われた。維新後、朝廷に復帰。新潟口総督に就任し、新潟平定後は新潟知事となった。
 戦後は中央政治に復帰し、元老院議員等を歴任した。

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六条 有容 (ろくじょう ありおさ)
 議奏の一人、佐幕派。文化十一(1814)年生まれ。幕末初期には、幕府の強引な開国に反対して朝廷に押し掛けた安政勤王八十八廷臣に加わる等尊王派であったが、後に公武合体派に転ず。文久三(1863)年十二月二十七日に議奏に就任。会津藩が朝廷に持つパイプの一つとなった。慶応三(1867)年四月十六日解任。
 維新後は佐幕派であった事が祟ってか、父親が従二位まで進んだのに従三位止まりであった。明治三十三(1890)年死去。

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