4-1. 補講

4-1-1. 受け身の排除

受け身――受動態――は無駄なのでやめましょう。まず、行為に対する責任の所在つまり主語を隠します。「知事は失政に対する責任を厳しく追及されなければならない。」では、いったい誰が知事に責任を追及するのかがわかりません。次に、文の迫力もなくなります。「グラウンドではバッティング練習が行われています。」よりも「グラウンドでは選手がバッティング練習を行っています。」の方が、ずっと文に迫力があるのです。また、文がひねくれていて理解しにくいという問題もあります。「社員の労働意欲を高めるためには、なされた努力*が正しく評価されるシステムが構築される必要がある。」なんて文を平気で書く人は、きっと心もひねくれているのでしょう。

受け身に関連して、助動詞<る・らる――受け身・尊敬・自発・可能の意味をもつ多義語――>を用いた婉曲表現もやめましょう。とくに、「思われる(自発)」「考えられる(可能)」という臆病な表現はやめるべきです。これらは客観的に意見を述べようとする場合に使われる使う表現ですが、実際は単に発言に対する責任を回避しているだけです。なので、このような臆病な表現はやめて、前者は「だ/です」または「思う/思います」で、後者は「考える/考えます」で、言い切ることが大事だと思われますです。

このように、受け身は(文末だけにではなく)文中にも紛れ込むので注意が必要です。ちなみにこの部分は、「社員が行った努力」にあらためるべきです。そして全体では、「社員が行った努力を会社が正しく評価するシステムを構築する(必要がある)」にすべきです。こうして受け身を排除した方が、文が理解しやすくなっていることがお分かりでしょう。

4-1-2. 指示語から代示へ

指示語というものは、安易に使うと問題があります。先行する文章内に指示するものがそのままの形で存在する場合はまだ安全ですが、そのままの形で存在しない場合――複数の考えを組み合わせてパラフレーズしないとダメな場合、つまり言い換えによる造語が必要な場合――は危険です。

  1. ぼくは昨日を買った。これは・・・・・・
  2. ぼくは昨日本を買った。そしてその日のうちに読んだ。これは、ぼくにとって初めてだった。

つまり例文1であればまだ安全だが、例文2であれば危険だことです。なぜなら、例文1は「これ=本(既出語)」ですが、例文2は「これ=買った本をその日のうちに読んだこと(造語)」だからです。

対策としては、指示語のかわりに(なるべく)代示を用いることです。実際、篠田義明さんは、それぞれを<この本は><こうした体験は>のような形で代示することを勧めています(No.10、pp.51-52)。

  1. ぼくは昨日本を買った。この本は・・・・・・
  2. ぼくは昨日本を買った。そしてその日のうちに読んだ。このような体験は、ぼくにとって初めてだった。

なので、(例文1はともかく)例文2のようにパラフレーズが必要な場合は、乱暴に指示語「これ」ですますのでなく、丁寧に代示「このような体験」で言い替える*ようにしましょう。上の例文はまだ文章が簡単なので助かっていますが、文章が高度な場合、そして組み合わせた考えが複雑になる場合には、指示語と代示とでは文章の理解のしやすさに大きな違いがでてきます。

代示のかわりにダッシュを用いても構いません。つまり、<これ――買った本をその日のうちに読んだこと――は>とするわけです。指示する内容が複雑な場合は、<こうした体験は>で代示するよりも効果は高いと思います。ぼく自身、たびたび、このようなダッシュの使い方をします。

4-1-3. 言葉の対応

言葉は、正しく対応させる必要があります。人間というのは、聞き慣れない組み合わせの文字列は、なかなか理解できません。気取った文章が理解しにくいのは、かなりのところ言葉の対応がおかしいことが原因です。

重要なのは、「本校としては○○をいじめと定義し○○という罰則を課す」という学校としてのポリシーを擁立し、そしてそのポリシーに従っていじめをとめる主体的な覚悟なのです。

実際、<ポリシーを擁立する><主体的な覚悟>は通じない日本語です。これらのグロテスクな言葉の組み合わせ*1を頭の中にもっている人は、当人くらいでしょう。<ポリシーを擁立する>なんて、普通言いません。というのも、<擁立する>という言葉は、人間のような有機物に対して使うのであって、ポリシーのような無機物に対して使うのではないからです。また、<覚悟>を<主体的な>という言葉で形容するのも、人間の観念としてはあり得ないことです。<姿勢>ならあり得ます。

重要なのは、「本校としては○○をいじめと定義し○○という罰則を課す」という学校としてのポリシーを打ちだし、そしてそのポリシーに従っていじめをとめる主体的な姿勢なのです。

言いたいことをきちんと伝えるには、言葉を正しく対応させて文章を書く必要があります。文章とは、自らの語彙の豊富さやレトリックの上手さなどをアピールするためのステージではないのです。ほとんど書き手のスタンドプレイにしか過ぎないような文章は、書いた本人には格好よく思えても、他人には単なる迷惑*2でしかないでしょう。なので、おなじ内容のことを、べつのより簡単な言葉で言い換えられるのであれば、ぜひそうしてください。その方が、きちんと言いたいことが伝わりますよ。

*1 言葉の組み合わせに関しては、他にも並列の問題があります。たとえば、次の例文「肌の乾燥を防ぐためには、潤いと暖めることが重要です。」がそうです。<「潤い」という状態>と<「暖めること」という行為>とを並列してしまっています。ここは、「肌の乾燥を防ぐためには、潤いを与えること暖めることとが重要です。」とする必要があります。ちなみに、(もうお気づきかもしれませんが)言葉を並列する場合には、「AとB」ではなく「AB」とする必要があります。同様に、「使用中、身体に異常が現れたり身体に異常を感じた時には、」は、「使用中、身体に異常が現れたり身体に異常を感じたりした時には、」とする必要があるのです。他にも「AとかBとか」「AやらBやら」など、言葉を並列する場合には、いずれも後半部分を落とさないように注意してください。

*2 次の三点はNGです:(1)やさしいことをわざわざ難しく書く;(2)専門用語いわゆるジャーゴンを振りかざす;(3)難しい漢字を見せびらかす。一・二点目は、言わずもがなです。中身ではなく外見が難しい文章というのは、ブザマなものです。三点目は、眩暈(めまい)・繋がる(つながる)・然し(しかし)・・・・・・はやめようという提案ですが、同時にひらがなを増やそうという提案でもあります。つまり、たぐい(類い)・わかる(判る)・できる(出来る)・・・・・・にしようということです。日本語文章では、文章を読む上で漢字がキーワードとなるので、本来ひらがなで書けるものまでもを漢字にしてしまうと読みづらくなります。実際、「本来平仮名で書ける物までもを漢字にしてしまうと読み辛くなります」では読みづらいはずです。

4-2. 発想力の落とし穴

文章の核となるのは、いうまでもなく文章の中身です。当サイトでは、これまで文章の外形について説明してきましたが、しかしそれは、あくまでも<快適に読んでもらうための環境整備>でしかありません。中身のある文章でなければ、いくら環境整備したところで無駄なのです。

中身のある文章を書く場合に最も問題になるのは、やはり発想力です。中身のある文章というのは、書き手の発想力が生み出す独自の視点をもっています。彼らは、目のつけどころがおもしろいのです。他人との発想力の差を感じてわが身が嫌になる――こうした経験は誰しもにあるでしょう。

ぼくの右腕――WZ EDITOR 4.0 with WZ MAIL

しかしぼくは、発想力という概念に対して懐疑的です。発想力とは、発想力の問題として存在するわけではないと考えます。そのことを、<ニュートンのリンゴ>で説明してみましょう。ニュートンは、リンゴが木から落ちるのを見て万有引力の法則(のもととなるアイデア)を思いつきました。けれども、このエピソードははたして発想力の問題なのかというのが、ぼくの意見です。リンゴが木から落ちるという現象を引力と結びつけて考えられることはニュートンの発想力の賜物ですが、しかしその発想が可能なのは、ニュートンに数学と物理学その他に関する知識があったからに違いないのです。つまり、発想力には落とし穴があって、実は<知識>を前提にしているのです。結局のところ、他の人間がリンゴが木から落ちるという現象を引力と結びつけて考えられなかったのは、彼らにニュートンのような発想力がなかったからではなくて、そもそもニュートンのような知識がなかったからだということです。

以上を要約すれば、発想ができないのは、発想力がないからではなくて、そもそも知識がないからだということです。したがって、もし発想ができないのであれば、自らの発想力不足を疑うまえに、自らの知識不足を疑う必要があります。そう、知識は量の問題です;質の問題ではありません*。なぜなら、<何が発想されるのか>があらかじめわかっていない以上、質という概念――どういう知識を集めればいいか/何が不足しているか――を定義できないからです。言えるのは、ただ漠然と、発想には多くの知識が必要――十分ではなく必要――だということだけです。

かたや発想なんてものは、本来、知識があればいくらでもできるはずです。というのも、人間というのは、アプリオリに発想できるようになっているからです。実際、あるものを見たり読んだりすれば、否が応でも何かしらを発想せざるをえない、思わざるをえないわけです。もし何も思えないのだとすれば、それは頭の中に当該問題に結びつく、あるいは結びつきそうな知識がないだけであって、決して発想力そのものがないわけではないのです。実のところ、単に<刺激されていない>だけです。自分の脳――それを持つ限り人はみな天才である――を信じましょう。

もちろん、質と無関係なわけではありません。たとえばニュートンが歴史家であったならば、万有引力の法則は思いつけなかったでしょう。つまり、問題に関連する知識は必要だということです。しかし、それだけの話です。具体的にどんな知識が必要かは、やはり不明なのです。発想においては、その生成プロセスは謎です。起床が<気づいたら起きていた>であるのと同様、発想は<気づいたら発想していた>であるからです。つまり無意識的な行為だからこそ、その生成プロセスが謎なのです。しかるに、その生成プロセスが謎である発想に関しては、やはり多くの知識があった方が有利ということしか言いようがありません。単純に量さえあれば力押しで何とかなる、という性質のものではないのでしょうが・・・・・・

4-3. 理科系の作文技術

『理科系の作文技術』は、絶対に読むべき文献です。1981年に出版されたこの本は、いまなお世にあふれる文章読本の頂点にあると考えられています。野口悠紀雄さん曰く、「日本語で書かれた文章読本の中で最も有益であることは、間違いない(No.14、p.255)」「これを凌ぐ文章読本は、当分現れないだろう(超勉強法、p.263)」です。ぼくなら、「他は捨てて、これ一冊読めばいい。ええ、100回ほど。」と述べます。

『理科系の作文技術』で注目すべきは、その薄さです。文章作成に割いているページは、最大をとっても全151ページ(pp.2-152)です。この範囲で、『理科系の作文技術』は、文章読本の頂点にあるとされているのです。このことは逆説的です。というのも、順当にいけば、文章作成に関してより多くのページを割いている他の文章読本の方が、『理科系の作文技術』よりも評価を得ていいはずだからです。しかし、そうはならないわけです。それだけ、『理科系の作文技術』は密度が濃い――より重要な問題を読者に喚起している――のです。実際、『理科系の作文技術』は、あの薄さの中に全体として実に驚くべき内容をもっています。

『理科系の作文技術』の中で重要なメッセージは三つあると、ぼくは考えています。第一は<事実と意見の区別>、第二は<逆茂木型文章の排撃>、第三は<簡潔*1>です。第一の問題や第二の問題の重要性を強調する人はいます*2が、ぼくは、それら以上に第三の問題が重要であると考えています。というのも、文章をわかりにくくする原因は、書き手が<事実と意見の区別>や<逆茂木型文章の排撃>をできていないこと以上に<簡潔に書けていないこと>に、つまり<書く必要のないことまで書いていること>にある*3と考えるからです。<簡潔>を最上位におくぼくの見方には異論があるかもしれませんが、いずれにしても、『理科系の作文技術』における重要メッセージがこの三つであることは間違いないと思います。

*1 <簡潔>についての記述は、「8.4 簡潔(pp.130-135)」にあります。しかし、もう一箇所あります。『理科系の作文技術』の書き出しです。ここで、著者の木下是雄さんは、<チャーチルのメモ(チャーチルが報告書に対して簡潔さを求めたメモ)>を引用しています。本の冒頭部分にこのメモを据えたということ自体、木下さんが、実は<簡潔>を最重要メッセージとしていたのではないかと、ぼくは思います。

*2 たとえば、野口悠紀雄さんは――「事実と意見を区別せよ」というのがこの本の最も重要な注意と考えられている。たしかにそれも重要だが、「読者がそこまでによんだことだけによって理解できるように書く」という注意(「5 文の構造と文章の流れ」)も、それに劣らず重要だ。――と述べています(No.14、p.255)。少し解説しておくと、逆茂木型文章というのは、結論が先に来ず前置きが先に来る文章――文章をずっと後まで読まないと現在読んでいる内容がわからない文章――のことです。基本的には、ぼくが 3-1-2 で述べた<要点を抽出する能力を欠いた文章>と考えて構いません。

*3 この点の関しては、続く「あとがき(にかえて)」で詳しく述べます。

4-4. あとがき(にかえて)

文章作成に関して最後にぼくが強調したいこと――それは、無駄を削除する必要性です。この「文章の書き方」は約20日で書き上げましたが、約20日といっても、それは執筆と推敲に費やした期間ではありません。執筆と推敲と<削除>に費やした期間なのです。なぜなら、書き上げた文章には言葉や論理の間違いも多数含まれていることながら、無駄も多数含まれているからです。無駄には、無駄な言葉*1から、無駄なセンテンス、無駄なパラグラフ、そして無駄な内容にいたるまで、様々なレベルがあります。もし、これらの無駄を放置し書く必要のないことまで書いていると、意図せずとも<木の葉を隠すなら森に隠せ>を実行してしまうことになり、結局、本当に重要なことを読み手に伝えられなくなるのです。無駄を削除することが必要な理由は、ここにあります。

したがって、文章を書き終えたあとには、無駄の点検・削除をする必要があります。推敲だけして終わりというのは、推敲さえしないことと同様に論外です。つまり、あくまでもボリュームを維持したまま言葉や論理の間違いを修正して終わりというのは論外だということです。なぜなら、それ――ボリュームを維持する行為――は、無駄を保持する行為に他ならないからです。書き終えたあとで文章を見直してみると、そこには削除可能な無駄な部分があるはずです。それらは文章のかさだけを増やしている水増し部分なので、大胆に取り除くようにしましょう。そうすれば、エッセンスの凝縮された濃いスープができます。一方放っておけば、味のよくわからない水みたいなスープしかできないわけです。文章を<おしゃべり>によって水増ししてはいけません;文章をスポイルします。

以上まとめとして重要な格言を述べれば、次のようになります:(1)文章をわかりにくくする原因は<書く必要のないこと>まで書いていることにある;(2)文章を書く場合<何を書かないか>が重要である;(3)文章は書き終えてからが本番である/本当に重要な作業は文章を書き終えたあとに始まる――要するに、「余計な話はしない*2」ということです。

*1 ぼくがとくに気になるのは、修飾語――形容詞や副詞――の多用です。たとえば、次の例文「文章とは著者の全人格をかけた魂の崇高なさけび・感情の発露であるが、それと同時に言語を精緻に用いて物事を論理的に説明しようとする理性的な試みでもあり、言うならば感情と理性とのアンビバレントなバランスの上に立って読者と対峙する知的でスリリングな冒険である。」が、そうです。この手の<厚化粧>は、フランス人やらその辺が書いた文章、およびそれ系に影響を受けた人が書いた文章に多く見られます。たいそうなことを述べているようで実はそうではない;単に修飾語を無駄に積み重ねているだけ;要するに言葉倒れ、なわけです。本当にすべての修飾語が必要なのか――この手の文章を書く人は、一度真剣に考えてみる必要があります。

*2 人間というものは、つい余計な話をしてしまいがちです。楽しくてそうする場合もありますが、逆の場合もあります。つまり、「説明不足や知識不足を指摘されたらどうしょう・・・・・・」といった具合に(たぶんありもしない)他人からの指摘を恐れて、先回りして色々と伏線を張ってしまうということです。しかし、こういう臆病な行為はやめましょう。自己防衛のために張る伏線というのは大抵、過剰防衛になります。ぼく自身、他人の文章を読んでいて、なんでこの人はこんなこと――全体的な論理には影響しない瑣末なこと――まで書いているのだろうと、首をかしげることが多々あるのです。書く必要のあることだけを書いたら速やかに文章を終える――これが一番です。必要なのは勇気;他人からの指摘は臆病が見せる幻影です。

4-5. 管理人の紹介

ぼくは、都市で暮らす社会的弱者の家庭に生まれました。具体的には、父親のいない母親だけの家庭です。当然暮らし向きは悪く、(そのころ住む家を転々としなければならなかったこともあって)多感な時期は色々と悲しくてよく布団の中で泣いていました。しかし世の中、要らぬ心配をせずに生活することを許された人間はたくさんいます。できればぼくも、『あ〜あ、もっとお金持ちの家に生まれたかった』なんて会話が安心してできる家庭に生まれたかった;家族みんなでテレビを観て『あはは』なんて下品な笑いを心おきなくできる家庭に生まれたかった――何でもない生活をおくることさえままならない社会的弱者の現実を、ぼく自身、身をもって知っています。

ここで考えたいのは、いわゆる格差問題についてです。まず明らかにしておきたいのは、格差とは、個人が勝ち組と負け組とに分かれているという現状――social stratification――に見いだすものではなくて、個人がどういう背景からそれぞれに行き着いたかという移動性――mobility――に見いだすものだということです。そして、格差問題の本質は、生まれ育った環境に関係して――biased in a sense――個人が勝ち組と負け組とに分かれるという点に、つまりは生まれ育った環境が将来的な格差を生むという点にあります。実際、フリーターになるのは、<夢を追っている人たち>ではなくて<負け組出身の人たち>です。結局のところ負け組とは、競争に負けたから落ちている人たちではなくて負けるまでもなく落ちている――最初からそこにいた――人たちなのです;そして勝ち組とは、その逆の人たちです。したがって、格差問題で問題視すべきは、世間で言われているような社会に勝ち組と負け組という格差が存在するという結果的事実ではなくて、環境を背景に親世代の格差がまるで伝染病にように子世代に継承されるという因果的事実、すわなち環境格差を起因とする<世代間における格差の継承性(格差の再生産)>だと言えます。

ぼくの懸念は、格差に対するこういう認識を欠いた人が勝ち組に多いことです。いい学歴-職業-収入を得ているのは<自分の>努力のおかげ――勝ち組に多いこういう考えは、彼ら自身、なぜそういう進路をとれたのかという志向性の由来に無自覚なだけに痛すぎると言えます。彼らは、他の人間もまた自分とそうは違わない環境――ごく普通の両親のもと、閑静な住宅街に生まれ、自分の部屋を与えられ、塾に通い、週末には家族で買い物に出かけたりもする――で育ってきたことを、そして誰もが自分とおなじ条件で競争していることを疑いません。だから、<自分の>成功を<自分の>努力に基づく正当な結果として<自分の>手柄や実績にできてしまうのです。しかし、現実は違います。生まれた環境によって、立てるスタートラインも受けられる(物質的・精神的・経済的・文化的・教育的・思想的)支援もまったく異なるわけです。そこには、絶望的とも言える格差があります。最も残酷なこと、それは、恵まれた環境で育ってきた人間が、このような個人の間に存在する環境格差に気づかないまますべてを個人の努力や能力の差に還元し、現状に対する責任を個人に押しつけてしまうことです。競争社会というのは、個人で競争しているようで実は個人では競争していない――そのことに、彼らは気づいていないわけです。

最後にことわっておくと、「たとえ家庭環境が劣悪でも勉強で努力していい大学に入れば・・・・・・」なんていうのは、社会的弱者の現状を知らないナイーブな意見だということです。なぜなら、勉強に価値を見いだすような文化的背景が、大抵彼らの家庭にはないからです。おなじ社会的弱者でも経済的な問題で苦労<できる>人というのは、つまりお金がなくて大学に進学できない人というのは、まだ幸運なほうです;進学に価値を見いだすことはできているのですから(お金の問題はバイトで解決することもできましょう)。問題は、それさえもできない人たちなのです。終始下流を歩み続け、そしてそういう現状を自分の努力不足や能力不足や向上心不足のせいだと考えている、そういう人たちです。世の中には、何も考えずに普通に生活していて<も>勉強-進学-就職という進路をとれる人と、そうしていて<は>勉強-進学-就職という進路をとれない人とがいます。両者ともノンキに生活をおくっている点ではおなじですが、背景となる家庭環境によって、将来的な結果はまったく異なってきます*1。有利な風を受けられる人は自然と上流や中流に流されますが、そうでない人は自然と下流に流されます。それゆえ、後者は、自分の置かれている環境の危うさにある時点で<自分で>気づき、<自分で>勉強-進学-就職という進路を切り開いていかなければなりません。ある人はノンキに生活をおくることを許されているのに、ある人はそれを許されていない――だからこその格差なのです。

いつも一緒――グランディアの懐中時計

閑話休題。あっ、はい、では、管理人の紹介を。ハンドルネームは、prague。198X年生まれ。B型。テレビゲーム、しみチョココーン(ギンビスの星形チョコスナック)、山本真純アナ*2が大好きな男の子、と、書いても意味があるのはこれくらいです。だって、好きな音楽とか書いてもしょうがないじゃんさ。興味ないだろうしね。うん。

*1 ぼく自身、平等な社会とは、生まれ育った環境に関係なく個人が勝ち組と負け組とに分かれ<られ>る社会だと考えています。その前提となるのはやはり、教育における機会の平等です。しかし現状は、そうはなっていません。確かに教育の機会は誰もに与えられていますが、その活用において環境間で格差があるため、機会の平等が何ら機会の平等になっていないわけです。実のところ、機会の平等は、恵まれた環境で生まれ育ったゆえそれを活用できた人間の<アリバイ>になっています。つまり、現行の教育システムのもとで勝ち抜いてきたという事実が、彼らの成功に正当性を与える思想的根拠――教育の機会は平等;試験も平等;ゆえに自分の成功は自分の力(能力や努力)による――になっているわけです。結局、機会の平等とは、あくまでも機会活用の平等でなければなりません。機会の平等自体はハコモノ;設置自体に慢心してはいけません;問題は活用のされ方だと。

*2 やはり親というものは、こどもの名前に願いを込めるのでしょうか。もしそうならば、その願いは、もう30年以上も叶えられていることになります。ニュース・プラスワンの中の<小学生と対決するコーナー>で見せた何気ない仕草や反応:バドミントン対決での「ラケットを手のひらでクルクルと回しながらあるく姿」、あるいは同対決での「(小学生にラケットを自慢されて)わたしのより高いじゃん!!と相槌をうってあげる姿」、あるいはピアノ対決での「(久しぶりにピアノを弾く緊張で)手を震わせている姿」――こういう自然な仕草や反応は、決してその名 straight & pure と矛盾しません、いつまでも・・・・・・

© prague 「文章の書き方」 (http://page.freett.com/syufudemowakaru/、2006年)