パラグラフとは、ひとつのトピック――話題――でまとめられた文の集まりです。重要なのは、ひとつのトピックでまとめられたという点です。区切られているという形式面に重きを置いている日本語の段落(いわゆる形式段落)とは異なり、パラグラフは、ひとつのトピックでまとめられているという内容面に重きを置いています。
この意味で、パラグラフとは内容段落だと言えます。パラグラフにおいて問題なのは、その内容面――内部がひとつのトピックでまとめられているか――です。この点に関しての具体的な話は「3-3-2. センテンス間の連関性」でしますが、とにかく、パラグラフは、自身の内部構造を問題にしている内容段落だということを、日本語の段落とは異なるということを、覚えておいてください。
パラグラフ内には、トピック・センテンスと呼ばれる主題文が存在する必要があります(――当サイトではトピック・センテンスは下線表示にしています)。トピック・センテンスとは、パラグラフ内で語られているトピックについて<要するに何を言おうとするのか>を端的に表現した文で、新聞でいうところの見出しに相当します。パラグラフに見出しがあるとないのとでは(パラグラフを読んでいく場合の)理解のしやすさに大きな違いがでますので、トピック・センテンスは必ず設けるように、それもパラグラフの先頭に置くように――見出しは先頭に置くものです――してください。
トピック・センテンスをパラグラフの先頭に置くには、その前提として、パラグラフ内から<要点>を抽出する能力が必要になってきます。というのも、トピック・センテンスが「パラグラフ内で語られているトピックについて<要するに何を言おうとするのか>を端的に表現した文」に他ならない以上、要点の抽出ができて始めてそれをセンテンス(文)の形で表現できる;センテンスの形で表現できて始めてそれをパラグラフの先頭に置けるからです。すべては、要点を抽出することから始まります。
ぼくは長年、将来の夢が持てないでいました。おそらく、何事にも感動しない性格が災いしていたのでしょう。そのため、夢を見つけた友人たちが次々に現実を歩き始めている中、ぼくだけがまさに夢の中だったわけです。
しかし、そんな折、母がぼくを法廷に連れていってくれたのです。法廷では、被告人を守るべく、まだ若い弁護士が検事と静かに議論を戦わせていました。法廷闘争に、テレビドラマで見るような激動はありませんでしたが、むしろその静寂こそが、ぼくの心に響いたのです。将来の夢がボンヤリと見えた瞬間でした。
逆にいえば、要点を抽出する能力に欠ければ、トピック・センテンスをパラグラフの先頭には置けないということです;それどころか、時として混乱したパラグラフを書く危険さえあります。事実、上の例文の第二パラグラフは混乱しています。なぜなら、逆接の接続詞「しかし」で接続されているにも関わらず、「そんな折、母がぼくを法廷に連れていってくれたのです。」は、第一パラグラフのどの文とも逆の内容をもっていないからです。つまり、「しかし」と「そんな折、母がぼくを法廷に連れていってくれたのです。」とは、まったく対応していないわけです。ところが一方で、パラグラフ末までを一連のストーリーとみなせば、それとはキッチリ対応しているのです。実際、「そんな折〜見えた瞬間でした。」は「しかし」と対応して、「ぼくは長年、将来の夢が持てないでいました。」と逆の内容をもっています。結局、このパラグラフは、書き手が要点を抽出せずに――抽出できずに――思いつくまま頭から順番に話をしてしまったところに、そもそもの混乱の原因があります。
ぼくは長年、将来の夢が持てないでいました。おそらく、何事にも感動しない性格が災いしていたのでしょう。そのため、夢を見つけた友人たちが次々に現実を歩き始めている中、ぼくだけがまさに夢の中だったわけです。
しかし、母に連れられた法廷で、扉は開けてきたのです。法廷では、被告人を守るべく、まだ若い弁護士が検事と静かに議論を戦わせていました。法廷闘争に、テレビドラマで見るような激動はありませんでしたが、むしろその静寂こそが、ぼくの心に響いたのです。そう、ぼくは、その若い弁護士に自分の姿を重ね合わせているもうひとりの自分の存在に気づいたのです。
要点を抽出する能力があれば、このように難なくトピック・センテンスをパラグラフの先頭に置くことができます。トピック・センテンスである赤字部分は、修正前の第二パラグラフから<母がぼくを法廷に連れていってくれたこと><そこで将来の夢がボンヤリと見えたこと>という要点を抽出して、センテンスの形で簡潔に表現――パラフレーズ――したものです。それができているからこそ、修正後では、トピック・センテンスをパラグラフの先頭に置くこと*ができているわけです。
* 結局、<トピック・センテンスをパラグラフの先頭に置くこと>とは<結論を最初に言うこと>に他なりません。つまりは、原因から結果ではなく結果から原因へと話を進めていくということです。そして、これは、理にかなったパラグラフの構成法だと言えます。というのも、先に原因――前置きや言いわけ――をもってきた場合には、一体どこに連れていかれるのかがわからないため、読み手は不安な状態でパラグラフを読み進めていかなければならないのに対し、先に結果をもってきた場合には、あらかじめ話のベクトルが示されるため、読み手は安心してパラグラフを読み進めていけるからです。ためしに、修正前後の第二パラグラフを読みくらべてみてください。それぞれの感じ――不安と安心――がわかるはずです。
パラグラフは、ひとつのトピックが終了した時点で改めます。おなじパラグラフに異なるトピックを書き込むことは避けてください。おなじパラグラフに異なるトピックを書き込んでいると、読み手は思考をまとめるのが困難になり論旨を追えなくなる危険があります。異なるトピックを書く場合には、そこからパラグラフを改める必要があります。
ぼくは長年、将来の夢が持てないでいました。おそらく、何事にも感動しない性格が災いしていたのでしょう。そのため、夢を見つけた友人たちが次々に現実を歩き始めている中、ぼくだけがまさに夢の中だったわけです。
しかし、母に連れられた法廷で、扉は開けてきたのです。法廷では、被告人を守るべく、まだ若い弁護士が検事と静かに議論を戦わせていました。法廷闘争に、テレビドラマで見るような激動はありませんでしたが、むしろその静寂こそが、ぼくの心に響いたのです。そう、ぼくは、その若い弁護士に自分の姿を重ね合わせているもうひとりの自分の存在に気づいたのです。
このように、パラグラフの分割はトピックをキーにして<機械的>に行うのですが、同時に<任意>でもあります。なぜなら、分割のキーとなるトピックそれ自体の立て方は、書き手の任意に基づいているからです。実際、たとえばカレーライスの作り方について書く場合、一方で「ニンジンの調理」「タマネギの調理」「ジャガイモの調理」というトピックの立て方もできますし、他方で「野菜の調理」というトピックの立て方もできます。前者は<ニンジン・タマネギ・ジャガイモ>という個別概念で、後者は<野菜>という集合概念でトピックを立てているわけです。つまり、どの抽象レベルでトピックを措定するかという書き手の任意によって、トピックは変わってくるわけです。必然的に、トピックと連動しているパラグラフの分割も、書き手の任意によって変わることになります。
ぼくの夢は、弁護士になることです。その夢を見つけるまで、ぼくは長年、将来の夢が持てないでいました。おそらく、何事にも感動しない性格が災いしていたのでしょう。そのため、夢を見つけた友人たちが次々に現実を歩き始めている中、ぼくだけがまさに夢の中だったわけです。しかし、母に連れられた法廷で、扉は開けてきたのです。法廷では、被告人を守るべく、まだ若い弁護士が検事と静かに議論を戦わせていました。法廷闘争に、テレビドラマで見るような激動はありませんでしたが、むしろその静寂こそが、ぼくの心に響いたのです。そう、ぼくは、その若い弁護士に自分の姿を重ね合わせているもうひとりの自分の存在に気づいたのです。
さて、以上のことを、上のふたつの例文を使って見ていきたいと思います。まず、最初の例文は、<夢が持てない><夢が持てた>というトピックの立て方をしています。ここで重要なのは、これらは(実際にそうしているように)べつべつのパラグラフで扱わなければならないということです。つまり、「しかし」以降は、おなじパラグラフに書き込んではいけないわけです。なぜなら、そこにはトピックの変化がある――「しかし」以降は、トピック・センテンス「ぼくは長年、将来の夢が持てないでいました。」とつながっていない!!――からです。けれども、二番目の例文では、事情が違ってきます。二番目の例文は、<ぼくの夢>というトピックの立て方をしています。この場合、「しかし」以降も、おなじパラグラフに書き込めます(むしろ、おなじパラグラフに書き込まなくてはなりません*1)。なぜなら、そこにはトピックの変化がない――「しかし」以降は、トピック・センテンス「ぼくの夢は、弁護士になることです。」とつながっている!!――からです。このように、トピックの立て方によってパラグラフの分割の様子はずいぶん変わってくる*2のです。
*1 よく、トピックが変わらないのに見た目の分量――視覚的な見やすさに対する配慮――から勝手にパラグラフを改める人がいますが、絶対にやめてください。トピックの変化とは無関係にパラグラフを改めるとそこで思考が切断され、読み手は論旨を追うのができなくなります。なので、トピックが変わらない限りおなじパラグラフで文を書き連ねる必要があります。パラグラフとは、視覚的な見やすさのために設けるものではなくて、内容理解のしやすさのために設けるものなのです。
*2 分割の任意性こそが、パラグラフ作成の最もおもしろいところです。書き手の世界観が反映されます。より抽象度の高いレベルでダイナミックに主張を展開するのが好きなぼくなんかは、二番目の例文みたく、トピックを大きめにとりがちです(野菜型)。それとは対照的に新聞なんかは、最初の例文みたく、トピックを小さめにとりがちです(ニンジン・タマネギ・ジャガイモ型)。前者はパラグラフが肥大化し、後者はパラグラフが細切れ化します。どちらが好ましいとは単純には言えませんが、ただ読み手として見た場合、前者の方が<思考をまとめやすい>のは確かです。後者はトピックに少しでも変化があると改行するため――ニンジンで改行・タマネギで改行・ジャガイモで改行――、思考をまとめづらいわけです。
パラグラフの作成において最も骨の折れる作業は、連関性――coherence――の維持です。内部の<センテンス間の連関性>だけでなく、外部の<パラグラフ間の連関性>も保ち続ける必要があるのです。このことは、たったひとつの文を皮切りに、複数個のパラグラフをまたぐ文章全体に渡って終始連関性を保ち続ける必要があることを意味します。終始連関性を保ち続ける??――具体的には、どういうことでしょうか。

まず、パラグラフの内部においては、トピック・センテンスを中心にすべての文が互いに連続するように書く必要があります。トピック・センテンスとは無関係の文やトピック・センテンスで述べたことを否定する文はもちろん、トピック・センテンスとの関連がよくわからない文も、おなじパラグラフに書き込んではいけないのです。なぜなら、これらのうちどれかひとつでも混ざっていれば、異質な文が現れた時点で読み手が論旨を追えなくなる危険があるからです。
次に、パラグラフの外部においても、すべてのパラグラフが互いに連続するように書く必要があります。何の説明もされてないトピックが唐突に出てきたり、次から次へと新たなトピックが出てきたりすれば、読み手は困惑します。そのため、先行するパラグラフとどう関連しているのかがわかるように、とりわけ現行のパラグラフの第一文は注意して記述する――具体的には<先行するパラグラフとの連結器に相当する共通の言葉>を入れるようにする(Cf. 3-3-3)――必要があります。
以上を象徴的な言葉で要約すると、終始連関性を保ち続ける作業とは、いわば<ドミノを並べる作業>だと言えます。ドミノ倒しにおいて、ドミノを並べる人は、それらを倒す人が間違いなく倒せるように、終始ドミノをひとつひとつ丁寧に並べていかなければなりません。それとまさにおなじ意味で、文章作成において、文章を書く人は、それを読む人が間違いなく論旨を追えるように、連関性を慎重に保ちながら終始文をひとつひとつ丁寧に書き連ねていかなければならないのです。なぜなら、どちらの作業においても、後者――倒す側/読む側――の命運を握っているのは、他ならぬ前者――並べる側/書く側――だからです。
ここでは、センテンス間の連関性についての具体的な説明に入りたいと思います。S1 → S2 → S3・・・・・・に連関性が感じられるパラグラフは一体どういった背景を持っているのか、下の例で確認していきましょう。
(1)まず、パラグラフの内部においては、トピック・センテンスを中心にすべての文が互いに連続するように書く必要があります。(2)トピック・センテンスとは無関係の文やトピック・センテンスで述べたことを否定する文はもちろん、トピック・センテンスとの関連がよくわからない文も、おなじパラグラフに書き込んではいけないのです。(3)なぜなら、これらのうちどれかひとつでも混ざっていれば、異質な文が現れた時点で読み手が論旨を追えなくなる危険があるからです。
さて、上記のS1-S3には連関性が感じられると思います――その理由は、背景に<話題レベルでの一致>があるからです。具体的には、S1「互いに連続する」・S2「トピック・センテンスとは〜おなじパラグラフに書き込んで」・S3「これらのうちどれかひとつでも混ざって」が、話題の一致箇所です。なぜなら、これらの文言を抽象化すれば、S1「連続」・S2「非連続」・S3「非連続」になるからです。つまり、すべての文が<連続に関する話題>で一致しているからこそ、上記のS1-S3には連関性が感じられるというわけです。共通の話題をパラグラフ内のすべての文に織り込んでいるということが、連関性を感じるための必要条件*1になっていると言っていいでしょう。
(1)まず、パラグラフの内部においては、トピック・センテンスを中心にすべての文が互いに連続するように書く必要があります。(2)その場合、トピック・センテンスは、パラグラフの第一文に置くのが賢明です。(3)そして、トピック・センテンスとは無関係の文やトピック・センテンスで述べたことを否定する文はもちろん、トピック・センテンスとの関連がよくわからない文も、おなじパラグラフに書き込んではいけないのです。(4)なぜなら、これらのうちどれかひとつでも混ざっていれば、異質な文が現れた時点で読み手が論旨を追えなくなる危険があるからです。(5)また、パラグラフの改め方が不適切な場合にも、おなじく読み手が論旨を追えなくなる危険があります。
逆にいえば、無関係な話題が紛れ込んでいたとしたら、センテンス間の連関性は保てないということです。実際、上記の例では、S1「連続」・S2「トピック・センテンスの位置??」・S3「非連続」・S4「非連続」・S5「改行の不適切さ??」といった具合に、みごとに話題が分裂しています。S2とS5が、話題の一致を邪魔している*2のです。
なお、話題の一致をはかる鍵は、トピック・センテンスにあります。(1)まず、第一文にトピック・センテンスを置く;(2)次に、トピック・センテンスはどういう内容なのかを確認しながら他の文を書き連ねていく――そうすることで、話題の一致は容易にはかれます。この意味で、トピック・センテンスは、書き手に目的地をしめし絶えず本線へと誘導する<カーナビ>だと言えましょう。あるいは、船乗りにとっての<北極星>でしょうか。いずれにしても、トピック・センテンスの内容を見失わないことが大事*3です。
*1 必ずしも、話題の一致だけで十分なわけではありません。他にも、言語レベルでの<目に見える工夫>が必要です。それぞれの文同士の関係がわかるように、論理的な関係をしめす言葉(e.g. なぜなら・したがって・第一に・他方で)や指示語(e.g. このような〜・それらの〜)は積極的に活用するようにしましょう。
*2 一般に気分よく勢いにのって文を書き連ねていると、誰でも本線から外れた無関係な文――脱線文――を色々と混入させてしまいがちなので、気をつけてください。上の例で明らかなように、<要するに何が言いたいのか>がわからない論旨不明のパラグラフになります。なお、S2のような本線から外れた内容を書きたい場合には、脚注を使うと便利です。もちろん、本線と関連が強く内容がまとまっている場合には、独立したパラグラフにしてもいいでしょう。
*3 補足までに言えば、パラグラフの最終文、ぞくにコンクルーディング・センテンスと呼ばれる締めくくり文の内容にも注意を払う必要があります。先頭文であるトピック・センテンスと食い違う場合は、そのパラグラフで話すべきトピックから途中で脱線している可能性があります。どの地点から脱線したのかを確認して、きっちり修正を行いましょう。
ここでは、パラグラフ間の連関性についての具体的な説明に入りたいと思います。Pr1 → Pr2 → Pr3・・・・・・に連関性が感じられるパラグラフは一体どういった背景を持っているのか、下の例で確認していきましょう。
パラグラフの作成において最も骨の折れる作業は、連関性――coherence――の維持です。内部の<センテンス間の連関性>だけでなく、外部の<パラグラフ間の連関性>も保ち続ける必要があるのです。このことは、たったひとつの文を皮切りに、複数個のパラグラフをまたぐ文章全体に渡って終始連関性を保ち続ける必要があることを意味します。終始連関性を保ち続ける??――具体的には、どういうことでしょうか。
まず、パラグラフの内部においては、トピック・センテンスを中心にすべての文が互いに連続するように書く必要があります。トピック・センテンスとは無関係の文やトピック・センテンスで述べたことを否定する文はもちろん、トピック・センテンスとの関連がよくわからない文も、おなじパラグラフに書き込んではいけないのです。なぜなら、これらのうちどれかひとつでも混ざっていれば、異質な文が現れた時点で読み手が論旨を追えなくなる危険があるからです。
さて、上記のPr1-Pr2には連関性が感じられると思います――その理由は、背景に<記述レベルでの一致>があるからです。具体的には、Pr1「内部の<センテンス間の連関性>」・Pr2「パラグラフの内部」が、記述の一致箇所です。つまり、パラグラフ同士が<内部という記述>で一致しているからこそ、上記のPr1-Pr2には連関性が感じられるというわけです。要は、先行するパラグラフ内に伏線となる記述が存在していれば、つまり先行するパラグラフのどの記述と関連しているのかが明確であれば、パラグラフ間の連関性は感じられるということです。
パラグラフは、ひとつのトピックが終了した時点で改めます。おなじパラグラフに異なるトピックを書き込むことは避けてください。おなじパラグラフに異なるトピックを書き込んでいると、読み手は思考をまとめるのが困難になり論旨を追えなくなる危険があります。異なるトピックを書く場合には、そこからパラグラフを改める必要があります。
パラグラフの理想的な長さは、200字から400字です。200字以下ではひとつのトピックを十分に説明しきれていない可能性がありますし、400字以上ではふたつ以上のトピックが混入している可能性があります。目安として200字から400字の範囲でパラグラフを構成するように、心掛ける必要があります。
逆にいえば、唐突な書き出し方をすれば、パラグラフ間の連関性は感じられないということです。実際、Pr2の書き出しはあまりに唐突で、Pr1とどう関連しているのかわかりません。Pr1に続くPr2で、なぜに<パラグラフの長さ>に関するトピックを話し始めるのかが不明なのです。ぼくには、単にPr1で<パラグラフの改め方>について述べ、次にPr2で<パラグラフの長さ>について述べただけの並列パラグラフ、つまり関連性のないトピックをおなじ資格で並べただけのパラグラフに思えてしまいます。それだけ、Pr2の書き出しが唐突なのです。
パラグラフは、ひとつのトピックが終了した時点で改めます。おなじパラグラフに異なるトピックを書き込むことは避けてください。おなじパラグラフに異なるトピックを書き込んでいると、読み手は思考をまとめるのが困難になり論旨を追えなくなる危険があります。異なるトピックを書く場合には、そこからパラグラフを改める必要があります。
パラグラフを改めたとき、パラグラフが200字から400字の範囲で構成されていれば理想的*です。というのも、200字以下ではひとつのトピックを十分に説明しきれていない可能性がありますし、400字以上ではふたつ以上のトピックが混入している可能性があるのからです。したがって、目安として200字から400字の範囲でパラグラフが構成されていれば、ひとつのトピックを過不足なく説明しきれている可能性が高いと言えるでしょう。
ところが、Pr2の書き出しを改めるだけで、途端にパラグラフ間の連関性が生まれてきます。なぜなら、修正例においては、<パラグラフを改める>で記述の一致が生まれているからです。ポイントは三点:(1)ふたつパラグラフをつなぐ理屈を考える;(2)先行するパラグラフから理屈に利用できそうな記述をコピーする;(3)コピーした記述を現行のパラグラフの第一文で繰り返す、です。つまり、現行のパラグラフの第一文に<先行するパラグラフとの連結器に相当する共通の言葉>を書き込む――悪く言えばでっちあげる――わけです。以上のようなテクニカルな作業をすることによって、大抵の場合、パラグラフ間の連関性は保てます。
* 「パラグラフが200字から400字の範囲で構成されていれば理想的」と書いてはいますが、本来、パラグラフの長さというのは、気にする必要のない問題です。というのも、パラグラフの長さは、トピックによって自在に変化するものだからです。なので、上で述べている長さうんぬんは、とりあえず忘れてください。
パラグラフの連関性を保つには、使用する言葉を安易に変えない――表記を統一する――ことが大事です。使用する言葉を安易に変えると、パラグラフの連関性が失われ読み手を混乱させることになります。
パラグラフは、ひとつのトピックが終了した時点で切ります。おなじパラグラフに異なる話題を書き込むことは避けてください。ひとつのパラグラフに違う内容が紛れ込んでいると、読み手は思考をまとめるのが困難になり論旨を追えなくなる危険があります。話題が変わるのであれば、そこからパラグラフを改める必要があります。
<パラグラフの連関性が失われ読み手を混乱させる>というのは、上の例のとおりです。「トピック/話題/内容」「パラグラフを切る/パラグラフを改める」「おなじパラグラフ/ひとつのパラグラフ」といった具合に、おなじことを表現するのに言葉を使い分けているために、読んでいて混乱します。とくに第二文〜第三文においては、(1)<おなじパラグラフ>が<ひとつのパラグラフ>に、(2)<異なる話題を書き込む>が<違う内容が紛れ込んでいる>にそれぞれ変化しているので、かなり戸惑います。
パラグラフは、ひとつのトピックが終了した時点で改めます。おなじパラグラフに異なるトピックを書き込むことは避けてください。おなじパラグラフに異なるトピックを書き込んでいると、読み手は思考をまとめるのが困難になり論旨を追えなくなる危険があります。異なるトピックを書く場合には、そこからパラグラフを改める必要があります。
パラグラフの連関性を保つためには、このように<おなじ言葉やおなじ言いまわし>を繰り返すのが無難です。確かに味気ないですが、しかし混乱をまねく心配はありません。むしろある種の心地よさ、連関性を感じるはずです。言葉を使い分ける*のは、そうするだけの必然性がある場合に限ります。それ以外は、意識的して<おなじ言葉やおなじ言いまわし>を繰り返すようにしましょう。
* 表記の不統一は、しばしば語彙の豊富さや表現の多彩さと勘違いされます。つまり、<おなじ言葉やおなじ言いまわし>を繰り返さないことが書き手の美徳とされる風潮、そういう風潮があるということです。なんだかなあ、です。