中止法を用いれば、文は理解しにくくなります。中止法とは、文を終止形で一度終わらせずに連用形で後ろへつなげていく文接続の方法です。つまりは、「文接続の方法です。」とはせずに「文接続の方法で、」とするような文の引き延ばし方法のことです。べつの言い方をすれば、中止法とは、本来分かれていてもいいはずの複数の文をひとつに連結する文接続の方法です。そのため文は長く複雑になります。だから理解しにくくなるわけです。
中止法を用いれば、文は理解しにくくなります。中止法とは、文を終止形で一度終わらせずに連用形で後ろへつなげていく文接続の方法で、「文接続の方法です。」とはせずに「文接続の方法で、」とするような文の引き延ばし方法のことです。べつの言い方をすれば、中止法とは、本来分かれていてもいいはずの複数の文をひとつに連結する文接続の方法で、文は長く複雑になり、理解しにくくなるわけです。
このように、中止法には文を長く複雑にする弊害*1があるので、その使用には注意してください。子供の書く文のようにイチイチ<丸>で閉じる必要はありませんが、それでも一度どこか<丸>で閉じられる箇所はないのかと、文を眺めてみることは必要です。文に重厚さを与えるのに中止法は便利ですが、一方で読み手に負担を与える*2ので、頼りすぎには注意してください。
*1 中止法には、べつの弊害もあります。接続関係をしめす言葉を消すという弊害です。実際、中止法を使用した例文では、元の文章には存在していた「つまりは」「そのため」「だから」が消されています。このように、中止法には文の接続関係をしめす言葉を消すという弊害があるので、知っておいてください。中止法を使用した文が理解しにくい原因は、(読み手の理解の助けとなるはずの)接続関係をしめす言葉を消してしまうという点にもあるのです。
*2 接続助詞の<が>も同様です。「〜だが、〜であるが、」といった具合に、<が>で文を引き延ばすのはやめましょう。なお、<が>は、なるべく他の言葉で置き換えることをお勧めします。なぜなら、<が>は、文の接続関係を不透明にするからです。実際<が>は、「彼は大いに勉強したが、落第した」「彼は大いに勉強したが、将来のためだ」「彼は大いに勉強したが、合格した」という具合に、文同士の関係がマイナスでもゼロでもプラスでも両者をつないでしまいます。このような得体の知れない言葉で文をつなげば、文の接続関係が得体の知れない状態になります。なので、順接であれば<ので>といった具合に、<が>は、何か他の得体の知れた言葉で置きかえるようにしましょう。(Cf. No.11、pp.50-61)
文のねじれ――主語と述語とが対応しない等の文構造上の欠陥――は、読み手のスムーズな理解を妨げます。文のねじれは<自分がどう文を書き出したのか>を忘れてしまったときに発生するので、中止法を多用して文を長々と引き延ばしがちな人は特に注意してください。
中止法とは、本来分かれていてもいいはずの複数の文をひとつに連結します。
問題は、「中止法とは」に対する受け手が欠落している*1ことです。実際、述語動詞と組み合わせて「(中止法とは)-(連結します)」としても、「〜とは〜します(中止法とは連結します??)」といった具合に照応が合わず、文がねじれてしまいます。つまり、「中止法とは」は、同一文内に適切な受け手がなくて宙に浮いている*2のです。
中止法とは、本来分かれていてもいいはずの複数の文をひとつに連結する文接続の方法です。
文のねじれは、文の各要素の照応をチェックすることで確実に防げます。簡単なチェックなので、絶対に行ってください。たとえば、上の修正例において「中止法とは」の照応をチェックしてみると、「(中止法とは)-(文接続の方法です)」でペアが成立する――「〜とは〜です(中止法とは文接続の方法です)」で意味が通じる――ことがわかるはずです。このように、文を書いた後には、ペアの成立しない宙に浮いた要素がひとつもないように、文の各要素の照応を責任をもってチェックする必要があります。
*1 文のねじれで多いのは、受け手となる名詞を抜かすタイプです。「問題は、「中止法とは」に対する受け手が欠落しています。」が、まさにそうです。正しくは、「問題は、「中止法とは」に対する受け手が欠落していることです。」です。情報番組や報道番組でキャスターがよく口にする「CMの後は、日銀のゼロ金利が解除されました。」という文言もまた、受け手となる名詞を抜かしています。ここも正しくは、「CMの後は、日銀のゼロ金利解除に関するニュースです。」です。
*2 次の例文「科学にもっと興味をもってもらおうと、この科学博物館では、科学の歴史をしるした科学年表と、おもしろい体験ができる科学実験室を開設しています。」も同様です。「科学の歴史をしるした科学年表」が、宙に浮いています。一体、「科学の歴史をしるした科学年表」をどうするつもりなのでしょうか。
スムーズな理解をうながすには、同一文内で視点を固定する必要があります。ここでいう視点とは、個々の動詞に対する主語を指します。つまり、同一文内では主語は固定するということです。
中止法とは、文を終止形で一度終わらせずに連用形で後ろへつながっていく文接続の方法です。
問題は、最初<書き手>を主語として始まったはずの文なのに、なぜか途中で<文>を主語とした文に入れかわっている点です。事実、前半は「(書き手が)終わらせず」なのに、後半は「(文が)つながっていく」になっています。つまり、<書き手>から<文>へと途中で視点が移動しているわけです。こうなると、<書き手>という視点で読み進めている人間は、途中「つながっていく」でカメラワークが急に変化するので混乱します。具体的に言えば、文を読んでいる人間は、違和のもとで一瞬戸惑って、それからあらためて主語を変えて読まなければならないわけです。
中止法とは、文を終止形で一度終わらせずに連用形で後ろへつなげていく文接続の方法です。
視点の移動は、主語*を補いながら文を読み返すことで防ぐことができます。つまり、それぞれの動詞に対する主語は何なのかを順次チェックしていくわけです。とくに、中止法を使用している場合には、入念なチェックが必要です。実際、「最近、キャッチセールスにあった。販売員は街でぼくに声をかけ、べつの場所に案内され、そこでイキナリ契約の話が切り出された。」という例文では、中止法による安易な文の引き延ばしが視点の移動を招いています(販売員→ぼく→契約の話)。主語を補いながら文を読み返すことで、ここは、「最近、キャッチセールスにあった。販売員は街でぼくに声をかけ、べつの場所に案内し、そこでイキナリ契約の話を切り出した。」で視点を固定できる(販売員→販売員→販売員)ことに気づくはずです。
* 日本語において、主語という表現には注意が必要です。なぜなら、「日本語は難しい」における「日本語は」は、主語ではないからです。主格につく格助詞<が>とは異なり、<は>は、格の区別のない係助詞です;そして、主題や区別をあらわす役目があります。そうでないと、「天気予報は見てない」という文の説明がつきません。<天気予報は>は、明らかに主語ではないからです。この文は、「主題:天気予報については見てない」または「区別:(たとえば)占いなら見た」と理解すべきです。同様に「日本語は難しい」も、「主題:日本語については難しい」または「区別:他の言語なら簡単だ」と理解すべきです。要するに、「日本語は難しい」においては、主題が存在するだけで主語は存在しないのです。(Cf. No.16、pp.144-148。ただし、当サイトでは、わかりやすさのために、主題をあえて主語と呼んでいる場合があります)
修飾語の位置が不適切だと、文の理解は困難になります。どの語がどの語を修飾するかが明確でないと、読み手は<ニセの組み合わせ>に惑わされることになるのです。
修飾語の位置に関しては「修飾語と被修飾語*1はそばに置く」という単純なルールがあるので、絶対に守ってください。そのルールを守っていない例文1は、「誰でも」が「利用すれば」に、「安易に」が「連結する」に、「理解しにくい」が「主語と述語」に結びつくのではないかという錯覚を読み手に与えます。そう、たかが錯覚です。しかし、実は、このような小さな瑕疵を除去していくことが大事なのです。というのも、理解しにくい文とは、何か決定的な瑕疵をもつ文ではなくて、単体としては看過できる瑕疵を複合的にもつ文に他ならないからです。ルールに基づいて例文2のように修飾語を配置すれば*2、そんな錯覚を読み手に与えることもないのです。
*1 修飾語には主語を、被修飾語には述語(動詞)を含みます。ゆえに、<主語と述語(動詞)をそばに置く>というルールもまた成立します。実際、例文2が「誰でも書く」となっているのは、そのルールに従っているためです。
*2 例文2の「主語と述語がねじれた理解しにくい文」という語順には、注目すべき点があります;語句の長さです。「主語と述語がねじれた」と「理解しにくい」とでは、前者の方が後者よりも長くなっています。つまり、長い方「主語と述語がねじれた」を先に置き、短い方「理解しにくい」を後に置いているというわけです。もし逆であれば、短い方を被修飾語のそばに置くことができなくなる――長い方が間に割り込むため――ので、マズイことになります。(Cf. No.16、pp.44-72)
読点というものは、文構造を正しく反映した打ち方をする――考えながら打つ――必要があります。この意味で、読点とはいわば<読み手のために引く補助線>です;<書き手の息継ぎ>ではありません。よく考えもせずに息継ぎ感覚で打っていると、読み手の文構造把握を妨げるような箇所に読点を打ってしまう危険があります。
読点の極意は文構造を際立たせるように打つことで、読み手の文章理解を助けることです。
上の例文は、文構造を正しく反映していません。というのも、例文の構造的な意味は、「読点の極意=文構造を際立たせるように打つことで読み手の文章理解を助けること(「主題」と「内容」)」だからです。したがって、構造的な切れ目である「読点の極意は」の後が、読点を打つべき箇所*1となります。
読点の極意は、文構造を際立たせるように打つことで読み手の文章理解を助けることです。
ちなみに、<で>の後に読点は不要です。読点を打てば、「読点の極意は文構造を際立たせるように打つことで、読み手の文章理解は読点の打ち方に左右されます。」のような中止法を用いた文と紛らわしくなってしまいます。おなじ<で>でも、<です>の意味をもつ中止法の<で>とは異なり、現在話題にのぼっている<によって>の意味をもつ手段の<で>の場合は、かかる相手が後ろに常に存在します。それゆえ、<で>の後に読点は打たない方がよいでしょう。それは、ぼくら人間の自然な思考の流れ*2からいっても明らかなはずです。<打つことで→助ける>という一連の思考の途中で*3、本来休止符は不要なはず*4です。
さて、読点に関して最後に指針として述べたいのは、読点を打たないことの重要性です。打たなければマトモに読めないという場合を除いては、読点は基本的に打たないことが重要です。というのも、読点を打つことで思考を分断してしまう*5危険があるからです。この意味で、読点を打つことは、読み手の思考に<くさび>を入れる迷惑な行為だと言えましょう。世間でまかり通っている「読みやすさを考えて適度に読点を打つこと」というアドバイスは、少々楽観的すぎます。
*1 ただし、「主題の後には読点を打つべき」と述べているわけではありません。後に述べるように、読点というものは、打たないで済むのであれば、それに越したことはないのです。したがって、ここで述べている<打つべき>とは、あくまでも<この例文に関しては打つべき>という意味です。つまり、<この例文に関しては(文の長さ等々を考慮して)主題を際立たせた方がよいという(主観的な)判断に基づいての打つべき>という意味だということです。
*2 「ぼくら人間の、自然な思考の流れ」のように、(名詞句が長くなった場合に)ひと続きの名詞句の途中に読点を打つ人もいますが、本来そこには読点を打つべきではありません。<ぼくら人間の>は後ろにつながっていくのであって、そこで切れるわけではないのですから。名詞句が長くなったとしても、基本的に放っておけばよいのです。それはそれで<ひとつのまとまり>なのですから。(どうしても気になるのであれば、言葉数を減らしたり字面を調節――漢字やひらがなを巧みに駆使――したりすることで絵的な苦しさを回避できます。e.g. 漢字やひらがなをたくみに駆使→漢字や平仮名を巧みに駆使)
*3 また違う意味――において――をもつ<で>です。複数の意味をもつこのような単語を、木村泉さんは多義的単語と呼んでいます。そして、この種の単語が引き起こす厄介な問題を<経過的多義性>の問題と呼んで注意を喚起しています(No.7、pp.132-133)。厄介な問題とは、多義的単語を経過して先を読むまで多義的単語は多義の状態におかれるため文の意味が確定できないという問題です。つまりは、<で>を経過して先を読むまで<で>が一体何を意味するのかが不明なため文の意味が確定できないという問題です。根本的な対策は、多義的単語は状況に応じて他の単語に置きかえることです。2-1 の脚注において、ぼくが「<が>は、何か他の得体の知れた言葉で置きかえるようにしましょう。」と述べたのも、実は、この経過的多義性問題を念頭に置いてのことだったのです。助詞「が、で、の」は、とくに注意が必要です。
*4 異論があるはずです。なぜなら、思考のまとまりというのは、人それぞれだからです。他人がどういう感じで腑に落ちているかは謎です。それゆえ、「読点の極意は、文構造を際立たせるように打つことで、読み手の文章理解を助けることです。」だって十分あり得ます。ぼく自身は「主題-内容」としましたが、彼は「主題-(手段-内容)」としているわけです。つまり、彼自身の判断で<手段>を際立たせている――「内容」から更に「手段」を取り出している――わけです。<で>が引き起こす経過的多義性の問題を考慮したとしても、この判断を積極的にヘンとする理由はどこにもありません。(ただ一番最初の例文は積極的にヘンです。文構造を完全に無視しています。あのような打ち方だけは避けるようにしてください。あと打ち過ぎもです。当カッコ内は無読点ですが問題なく読めますよね。読点がなければならない!!は先入観ですよ。^^)
※ 参考までに: 上は、どれもあり得る文構造把握です。そして、把握の仕方は他にもあるでしょう。ただし、「当サイトをもって日本語文章の書き方をめぐる問題は、すべて解決したと考えます。」はNG;文構造を正しく反映していません。というのも、<は>の後に読点を打っているにも関わらず、主題を際立たせることができていないからです。主題は<日本語文章の書き方をめぐる問題>であって<当サイトをもって日本語文章の書き方をめぐる問題>ではないはずです。
*5 「読点の極意は、文構造を際立たせるように打つことで、読み手の文章理解は、読点の打ち方に左右されます。」が、そうです。ここは読点を減らして「読点の極意は文構造を際立たせるように打つことで、読み手の文章理解は読点の打ち方に左右されます。」とした方が、文構造――何と何とが並列されているか――が明確になり思考がまとまるはずです。
並列関係や対比関係にある部分は、両者の形式をそろえる*1必要があります。重要なのは、そろえるということです。普通に書いていて自然にそろうわけではありません。無理をして――頭を使って――そろえるのです。実際、以下の例文1,3は、少し頭を使えば例文2,4のように形式をそろえて書くことができます。
このように、文内に並列関係や対比関係にある部分が含まれている場合には、<両者の形式を何とかそろえられないものか>考えてみることが大事です。並列関係や対比関係にある部分の形式がそろっていると読み手の理解が進みますので、なるべく両者の形式はそろえる――品詞*2や読点の位置も含めてすべてをそろえる――ように努力しましょう。
*1 この問題の重要性に気づいているのはぼくくらいだろうと思っていたのですが、とんでもない、木村泉さんがすでに指摘されていました(No.7、pp.126-127)。ただし、この指摘は、ストランク&ホワイトの『英語文章読本』(原題名・The Elements of style)からの引用という形を取っています。木村さんの著書から要点を整理して引用すれば――「科学は、以前は教科書による方法で教えられていたが、現在では実験実習による方法が用いられている。」というのはよくない、「科学は、以前は教科書による方法で教えられていたが、現在では実験実習による方法で教えられている。」と書け、というのである。――という指摘になります。この指摘は、まさにぼくが述べたかったことそのものです。
*2 つまり、「子供の学力は、親の学歴や親が教育にどれだけ関心を持っているかという問題に影響されるだけでなく、親の収入の影響も受ける。(動詞×名詞)」とはせずに、「子供の学力は、親の学歴や親の教育的関心に影響されるだけでなく、親の収入にも影響される。(動詞×動詞)」もしくは「子供の学力は、親の学歴や親の教育的関心の影響を受けるだけでなく、親の収入の影響も受ける。(名詞×名詞)」とする、ということです。なお、修正例において特筆すべきは、「親が教育にどれだけ関心を持っているかという問題」を「親の教育的関心」に修正しているところです。もちろん、文全体を<親の○○>で統一するためです。つまり、形式をそろえるために、もてる知識を総動員して「親の教育的関心」というフレーズをひねり出しているのです。こういうパラフレーズこそが重要です。