<風が灯る日>





 集え、そして歌えよ。
 神の国から、輝かしい光りがやってくる。
 私達の歌声に導かれ、
 大地に生きる全てのものは、
 遥か天空を見上げ憧れる。
 答えよ、天の神ルイデ。
 あなたから零れ落ちた一粒の涙によって構成された、
 光の破片、
 聖人セイレントの声に。



“聖誕祭、幼かったその日、神に願ったのはひたすら愛しい人と共にいることでした。
 小さな窓からやってくる青い月明かりを浴びて、
 その月光のように煌くオーラを纏う愛しい人は、
 そっと、
 絵本のページを捲ったものです。

「シルエ、天を愛し、地を愛しなさい。そうすれば必ず神様は答えてくださるよ。」

 聖誕祭は、神への願いが届く日。
 だから、わたしは天を仰ぎ、地を見つめました。
 決して届かない空に手を伸ばし、
 一度も触れたことの無い土を想いました。
 あなたと共にいたかったから。”



「セイレント様、どういたしました?」

 ふいに声を掛けられ、今まで自分の視線がどこを泳いでいたのか、一体何を考えていたのか。何時の間にか神殿の柱の向こうに広がる風景に飲みこまれそうになっていて、広い庭にある清らな泉や、小鳥のさえずりも、花々の香りも、それらがまったく作用しないほどに心を締めつける何かが自分を占めていて、でもそれがなんだったのか、こうも思い出せないのは、今の今まで考えていた何かが神にとっても自分にとっても陰に当たるものだったのかもしれなかった。
 …だが、陰陽を秤に掛けたのは一体誰だったのだろう。
 もしもその秤がまったく狂ってどうしようもないものだったら?

「…セイレント様?」

 ああ、わかっているよ。もうすぐ聖誕祭、私は誰の目にも神々しい、神の化身でなければならない。生きるものを惑わす不安や恐怖を取り払う為の偶像、ただ拝まれ囃されるだけの虚像に。
 きっと皆、一点の染みもない真っ白な服を着て出た私を見て、不安に駆られた心をほっと落ち着けるのだろう。私はきっと、そんなもの達に、仮初の笑みを返してやるのだろう。



“でも、神様は願いを叶えてくれませんでした。
 愛しい人と共にいるという願いを、決して叶えてくれませんでした。
 わたしは他には何も望まなかったのです。
 たくさんの人を助けられる力も、
 雨を呼んだり地を揺るがしたりする力も、
 特別にいただいたという加護も。
 ただ、もしも欲しいものがあるとしたら、
 愛しい人が傷を負った時、そっとそれを癒す力、
 それさえ微かに抱いていられれば、それで良かったのです。
 なのに神様は、わたしの願いを叶えてはくれず、
 わたしに大きな力をお与えになり、
 しかし、愛しい人とは離れ離れになりました。
 わたしは聖誕祭を信じなくなりました。
 だって神に祈っても、何も叶わないのです。”



 竪琴の音が聞こえてふいに顔を上げると、珍しくその姿を見た。長い永い漆黒の髪に、セリスの証の深い青。それとこのオレンジ色が見合うと、向こうは目を逸らすかと思ったがそうではなく、結局こちらの方から目を逸らしてしまった。
 あなたは何を知っている?私が忘れてしまった何を。
 加護を与えられた者、とは、良く言えば神の化身。悪く言えば神への生贄に他ならなかった。全ての祭式を拒んだあの人の変わりに、私は滑稽だと思えるような芝居までもうたなければならなかった。
 加護を受けた者なら大丈夫なはずと、炎の中に立たされた。民衆は私のもがくのを見て心を奮わせ、その淵から生還した姿を見てはやはり私は神であると囃したてた。ある日は毒を飲まされた。しかし私は果てることなく、それは体中を回ってからゆっくりと解毒され、私は猛烈な激痛と共にそれを浄化した。そこでも皆は奇跡だと騒ぎ立てた。
 私は人間と何ら変わりがない。人間でしかない。なのに、どうして皆私が違うと喜ぶのだろう。私が世界中で一番大切だったはずの記憶を失った代償は、私にとっては苦痛でしかなかった。
 そう、人々の前で浮かべる微笑も、聖誕祭の日に両手から花火を上げてみることも、私にとっては苦痛なのだ。本当は、こんな場所にいたくない。
 私はただ、失われた記憶と共に、安らかにいたいだけなのだ。



“街の方でのこの歓声は、聖誕祭の熱気に包まれているに違いない。
 わたしはそれを聞くと、いつでもどうしようもない悲しみに襲われるのです。
 わたしがその歓声を共に上げることが出来ないのではなく、
 皆が願いを叶えてくれない神に願っていることが。
 人に言えば、神を冒涜する者だと蔑まれるかもしれませんが、
 でも、現にこうして、わたしの傍らには愛しい人はいないのです。
 もしも神がわたしの願いを叶えてくれたのなら、
 今、わたしが愛しい人の腕の中で、
 眠りについていないわけがどうしてあるでしょうか。
 わたしはひゅうひゅうと風の音を聞いて、
 来るはずのない愛しい人を、ただ待っているだけなのです。”



「ルイデの聖誕祭が、恋しいか?」

 そう呼ばれて顔を上げた。赤い瞳と目が合って、どんな表情を作るでもなく、ただ呆然と、私は答えた。

「…いいえ。」

 私は誰かが思うように澄んでいるわけではない。私は本当は、自分のことしか考えられない、誰よりも濁った人間なのだ。私はそう、神への信仰を口にしながら、神を信じていなかった。私の願いを叶えてくれなかった神を、心のどこかで冷めた目で見つめていた。慈悲深い、清らだと言われておきながら、神に背くようなことや考えをたくさん持ったのだ。

「それなら何故、お前は泣いている?」

 赤い瞳は揺れていた、信じられないほど優しげに。私は泣いていることに気付かなかった。右手で頬に触れてみると、確かに、指先が塩水に濡れた。
 この涙はきっと、聖誕祭を思い出した苦痛の涙。恋しい訳ではなく、ただ苦しいだけの――

“だけどもしも本当に願いが叶うなら、”

 入ってくるはずのない風が、私をくすぐっていった。それは何とも言えぬ優しさを孕んでいた。愛しい人の周りを渦巻いて、吹き抜けて、戯れた風。私はその風をそっと自分のものとし、真正面で私を見つめるその頬に、手を伸ばした。

「…本当は、願いを叶えて欲しかったんです。」

 自分の中身は違うものを詰めこまれたかのように性質の違うものになってしまったが、

「願いを叶えてくれるのなら、私にとって、それは誰でも良かったのです。」

 忘れたはずの胸の疼きはいつまで経っても消えない。聖誕祭の日を迎える度に必ず沸き起こるその切ない絶望は、例え私を満たすものが全て変わろうと、時間がどれだけ経ってしまおうと、果たして、私が誰であろうと、変わることのなく生き続けていくことだろう。
 そうして私は、聖誕祭という信仰から逃れることは出来ないのです。