| グレン・グールド | ||
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まぁ、昔は好きだったけどな・・・ 今でも、嫌いになったというわけでもないけど、死んじまったから新しい演奏も出ないし、同じ演奏ばかり聴いていたら、いい加減飽きてくるはな、やっぱり。 でも、好きだったってことで、思いで話のコーナーです。 |
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presented by tach |
(1998.02.21)
(1999.04.15)
(1999.05.20)
実際、この二人の相性は良い。
例えば、グールドの演奏するニ短調の幻想曲K.397を聴いてみればいい。結びの部分になると、それまで延々と続いてきた重苦しい曲が突如として長調に転じて走り出し、そのまま終わってしまうあの曲。そのあまりの異様さに、これは後世に他人が書き加えた部分だという説まで飛び出してくる始末だ。しかし、この殆ど人を馬鹿にしたような無造作な気分の激変こそ、案外モーツァルトの素顔なのではあるまいか? 少なくとも、グールドはこの無造作な変容をいとも軽々と演じきってしまう。
不思議なのは、グールドがどんな突飛な演奏をしたときでも、そこに「モーツァルトらしさ」が残り続けているということだ。
この「モーツァルトらしさ」という言葉は「幼児性」という言葉に置き換えてもいいような気がする。
「神童」だった二人は、それ故に異常な育ち方をして、最後まで「大人」になりきれなかったのではあるまいか?
モーツァルトの「幼児性」については、自筆の手紙という膨大な証拠が残されている。ウソだと思えば読んでみればいい。あなたの目がモーツァルトの音楽に対する敬意のあまりに曇らされていない限り、目を丸くすることは必至だ。映画「アマデウス」に描かれたモーツァルト像は極端すぎるかもしれないが、それでも、恐らく、大きく外れたものではないだろう。
しかし、何よりもまず、あの音楽そのものに「幼児性」が如実に現れているように思える。あの短調が長調に転調する一瞬の旋律の身のこなしにだ。悲しみが一瞬のうちにこの上もない喜悦に変容する。
小さな子供が走ってくる。走ってきた子供は何かの弾みでパタリと転ぶが、すぐに立ち上がって何事もなかったようにそのまま走り去って行く。
モーツァルトを真剣に聴き始めたばかりの頃、そんなイメージが頭に浮かんできた。
その考えは今も変わらない。自分は、モーツァルトの音楽のいたるところに、この、何事もなかったかのように走り去って行く子供の存在を感じ取る。
グールドの「幼児性」は、その伝説的な奇行の数々から余りにも明白であるように思える。納得が出来ないと言う人は、「グレン・グールド アット ワーク」(アンドルー・カズディン著、音楽之友社1993年刊)を読むか、「オン・ザ・レコード、オフ・ザ・レコード」というLDを見ればいい。「グレン・グールド アット ワーク」については「文学青年対おたく」と題してあとで取り上げるつもりだから、ここでは触れない。「オン・ザ・レコード、オフ・ザ・レコード」では、人間グールドの現実がカメラの非情な目によって捉えられている。自分以外の人間が目に入らないグールドが、レコーディング・スタッフとの間の溝を深め、孤立して行くのだ、おそらく、制作者たちもそんなものを撮るつもりは毛頭無かったのだろう。しかしながらスタジオのスタッフたちがグールドを見る目は冷ややかだ。
グールドはそれほどモーツァルトが好きでないらしい。「モーツァルトなんて大した音楽家じゃない」と大胆な発言をして世の常識ある人々を呆れさせたりもしている。ソナタを全曲録音しているものの、自分のレパートリーとしてそれほど熱心に取り組んでいたわけではない節もある。人は、ときとして、自分と同じものには惹かれないものだ。
一方、モーツァルトの方が、グールドをどう思うか、それは分かるはずもないことだけど、もし仮にグールドの演奏を聴いとしたら、絶対に目を回しただろう。何しろあの演奏は極端過ぎる。独自の解釈がうまくハマって最高の成果をもたらしたときでも、どこか完全に「いびつ」だ。しかし、その「いびつ」さは、モーツァルトそのものの「いびつ」さに他ならない。
おそらくモーツァルトはそんな類のいわば戯画化された自分の肖像を、それが一面の真実であるが故に、嫌悪したことだろう。
別にグールドとモーツァルトを貶めている訳ではない。「幼児性」は彼らが「自由」を獲得する上でどうしても支払わねばならない対価であったのかもしれない。それは彼らの「芸術性」を損なうものではない。「芸術」を支えるものは「真実」であり、損なうものは「偽り」であるとするなら、彼らの「幼児性」はむしろ彼らが偽らなかったことの証拠であるかもしれない。それは、彼らの才能の偉大さの裏返しの姿であり、芸術的創造の神秘の現れなのだ。