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最近といってもここ1〜2年の間に私が聴いたものと言う意味で、最近リリースされたものを取り上げるとは限りません。・・・ひょっとしたら取り上げるかもしれないけど。いい加減だな。まぁ、どおでもいいけど・・・
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on 2002.9.18

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(1999.1.16新規追加)
マーラー/交響曲第5番/David Briggs(オルガン!)/PRIORY PRCD649(1998年英国盤)

マーラーの交響曲を教会のオルガンで弾いたCDです。
どうせゲテモノだと思うでしょう?
ところが、違うんだなぁ、これが。

私は交響曲のピアノ編曲ものというのが妙に好きで、目に留まったものは出来るだけ買うようにしてるんだけど、これが意外なほどまともなものが多い。このマーラーのオルガン版もその例に漏れずとってもまともだ。特にオルガンならではのスケール感が巨大物嗜好症の気味のあるマーラーの交響曲にぴったりだし、しかも同時に細部の音の響きがとても美しい。意外にいいのが第二楽章や第三楽章。あれ、こんなにきれいな音楽だったけか?と何度もびっくりさせられる。第一楽章の冒頭も素晴らしい。あの葬送行進曲の旋律がしめやかに威厳を持って歌い上げられるのを聴いていると、これ元々オルガン曲だったのかなと思ってしまう。第三楽章なんかもそうだな。

このマーラーに限らず一般的に言えるのだけど、オーケストラの曲を器楽で演奏するととても純粋に聞こえてくる。けばけばしい音色が剥ぎ取られ、純粋な音楽としての構造がくっきりと浮かび上がってくるのだ。
マーラーもけばけばしい化粧を取って現れた素顔は意外と清楚で美しい。映画「ベニスに死す」で使われて有名になったあの第四楽章のアダージョが清らかに響く。あの麻薬的でいかれた音楽がだ! だいたい通俗的なマーラーの音楽が「純音楽的」に響くことがあるとは本当に意外だった。

私が生まれて初めてマーラーを聴いたのは中学生のときで、ブルーノ・ワルターが指揮する交響曲第一番だったが、こんなのクラシックじゃないッと思ったね。バッハやベートーベンに馴染んだ耳にはまるで俗っぽい映画音楽のように聞こえたのだ。無造作に多用される文学的モチーフをはじめとして音楽以外の夾雑物がやたらに混じっている。「マーラーの交響曲はあれは実は交響曲ではない。指揮者としての多忙な生活に追われる傍らで毎日付け続けた日記なのだ。だから何処で終わると言うこともなく延々と続き、何の一貫性もない。つい先ほどまで哲学的な感慨に耽っていたかと思うと、突然、今日食ったカツ丼はうまかった、などという記述が続いたりする。」何処でだか忘れたが、そんな文章を読んだとき、なるほどと思った。
シェーンベルクあたりが「マーラーの音楽は論理的で美しい」などと書いているのを見ても「なぁに言ってんだか?」と言う感じ。
しかし、オルガン版の演奏を聴いて、やっぱりシェーンベルクが正しかったことが分かったぜ。


(1998.10.29新規追加、2002.09.18「実験」へのリンク追加)

モーツァルト/ヴァイオリンソナタ集/アルチュール・グリュミオー(ヴァイオリン)、ワルター・クリーン(ピアノ)

 第一集 PHCP-9671●第40番変ロ長調、泉の主題による6つの変奏曲ト短調、第28番ホ短調、第32番へ長調、第26番変ホ長調
 第二集 PHCP-9672●第42番イ長調、第29番イ長調、第35番ト長調、第25番ト長調
 第三集 PHCP-9673●第36番変ホ長調、第33番ヘ長調、第24番ハ長調、第27番ハ長調
 第四集 PHCP-9674●第41番変ホ長調、第34番変ロ長調、第30番ニ長調
 この夏にフィリップスからまとめてリリースされた廉価盤。音源は80年代初めの初期デジタル録音。

頭と身体ということばを思い浮かべてしまいました。
以前グラムフォンから出たデュメイとピリスの演奏したモーツァルトのヴァイオリンソナタ集と比べてしまったからです。比べる必要はないのですが、そうしたくなるほどくっきりとした面白い対照を示しているように思えました。もちろんデュメイ・ピリス組が頭で、グリュミオー・クリーン組が身体です。頭でする演奏も決して悪くはないけど、身体でがんがん演奏しているのを前にすると、頭組の人たちの演奏が何だか貧血でも起こしているように思えてきます。大丈夫でしょうか? ちゃんとご飯は食べてるんでしょうか? たまには運動もした方がいいかもよ。

意外にも、最初に耳を捉えたのはワルター・クリーンのピアノの美しさです。いや、何と言うこともないただ素直な演奏。まるでピアノの先生がお手本に弾いているような・・・。でも、それだからこそモーツァルトが底光りしてくる。
グリュミオーのヴァイオリンももちろん素晴らしい。子供の頃、楽器の中でヴァイオリンがいちばん好きだったことを思い出しました。ヴァイオリンの音色って、物理的に美しいんですよね。デジタル時代に入って可聴範囲外の音域が録音されなくなってしまってからはLP時代のような陶酔感を得ることができなくなってしまいました(注)が、それでもグリュミオーのヴァイオリンの音色は異様に美しい。誰かが彼のヴァイオリンの音色を評して「悪魔的に甘美」と書いていましたが、確かに、彼の演奏には「道徳的に疑わしい」ところがありますよね。でも、いいんだ、気持ちよければ。たとえ「道徳的に疑わしく」ても、それが自分の一部なら、それから逃避していても仕方がない。

(注)CDが出始めた頃、多くのオーディオファンの間からLPよりも音が悪いという声が上がりました。客観的な音響データーはともかく、実際に聞いてみると何かが違うというのです。一つの説として出てきたのが、可聴範囲外の音をカットしていることが影響しているのではないかという説です。聴いていると意識できない可聴範囲外の音でも、実際には身体が聴いていて、それが音楽の味わいに影響を与えているのではないかというのです。
しかし、この説は否定されました。脳の興奮状態を計りながらCDの音とLPの音を交互に聴かせるという実験を繰り返した結果、何の差も出なかったというのです。
私としては納得のできない結論でした。だって、実際、聴き比べてみると違うんだもん。特に弦楽器の音が全然違う。計測器が何と言おうが俺の身体は違うって言ってるぜ。
そんなわけで私はしばらくの間LP派でした。しかし、段々新譜は少なくなってくるし、LPだって音源はデジタル録音のものが多くなってくる。愛用のカートリッジは生産中止になり、針も手に入らなくなる。所詮、世の中の流れに逆らうことはできません。いつの間にかターンテーブルとLPは押入の片隅にしまい込まれ、ライブラリーはCDばかりになりました。そう、世間に負けたのです、私は。本当はLPの方が音がいいと信じていたのに・・・

可聴範囲外の音でも実は無意識のうちに聴いているという説を否定することになった実験が誤りであることが報道されたのはおそらく五年ぐらい前のことだったと思います。新しい実験では、十分な間隔をとってCDの音とLPの音を聴かせてみたのです。LPから発生する可聴範囲外の音が脳を興奮させていることは明らかでした。ただその興奮は音が消えてからもしばらくの間持続していたのです。ですから昔の実験のように十分な間隔を置かずにCDとLPを連続して交互に聴かせた場合、CDの音が鳴っているときでもLPの音によって引き起こされた興奮がまだ続いていて、あたかも差が無いように見えていたのです。
もちろん、これは可聴範囲外の音でも実は聞こえていると言うことの証明です。厳密に言えばCDよりLPの方が音楽を再生するという点に於いて音の特性が優れていると言うことの証明ではありません。しかし状況証拠としてこれだけあれば十分だと思いませんか?

ほら見ろ、俺の言った通りじゃないか、馬鹿野郎!
と、喚いてみても後の祭りです・・・
CDが商品化されたのは確か1981年。それからの17年間、我々はLPより劣る音で音楽を聴かされてきたのです。かけがえのない歴史的瞬間がLPよりも劣るフォーマットで記録されてきたのです。過ぎ去った年月はもう取り戻せません。CDのフォーマットがこれだけ普及した現状の下ではこれからも相当期間状況は変わらないでしょう。

このCDとLPの音質問題は身体より頭を信じてしまったことによって引き起こされた過ちの一つですね。
皆さん、覚えておきましょう。キーワードは頭と身体です。
もっと身体を信じましょうね、皆さん。

(1998.02.22新規追加)

Just for me, Noriko Ogawa plays Japanese piano music / Noriko Ogawa, piano / BIS CD-854 (1997年スウェーデン盤)

色々な感慨が湧いてくるCDでした。

最初に耳を捉えたのは、橋本国彦のノクターンです。
和音がインテンポで刻むリズムの上でドビュッシー風のメロディーが展開される、ただそれだけの至ってシンプルな曲ですが、そこに漂う若々しさに心を打たれました。1934年、作者が欧米留学へ旅立つ前に催された送別演奏会で演奏された曲だということで、いかにもそうであろうと思わせるような、期待と不安と夢に満ち溢れています。
その後主にウィーンでシェーンベルクに師事して3年後に帰国し、今の東京芸大の教授になったといいますから、当時の音楽エリートですね。
1934年といえば、昭和9年。日本が国際連盟から脱退した翌年で、溥儀が満州国皇帝になった年です。世界に目を転じればヒットラーが総統になった年。まさにファシズムが吹き荒れた時期で、橋本先生はウィーンで何をご覧になったのでしょうか? 先生が帰国した翌年の1938年にはオーストリアはドイツに併合されています。その頃のウィーンってあんまり留学したくなるようなところではないなぁ・・・ 
戦争中の橋本先生は国威発揚のために国策音楽をガンガン作曲しまくり、おかげで終戦後は大学を追い出される羽目になったとか。そして終戦から2年も経たない1947年5月、癌にかかって44歳で死んでしまったというから、これはショック死だわなぁ、絶対。
西洋と日本の間を彷徨い挙げ句の果てに野垂れ死にした日本の知識人の典型を見るようで、泣かせる話です。

橋本先生の例に限らず、このCD全体が、日本の芸術音楽っていったい何なんだろうという問いかけのようにすら聞こえてきます。
第一曲目の滝廉太郎からしてベートーベンで、それがドビュッシーになったかと思うと、バルトークを経てクセナキスに至る・・・
ああ、だめだ眩暈がしてくる・・・

・・・まるで貶してるようだな。
いや、私、感動したんですよ、このCD聴いて。
良い企画だし、選曲もいいし、何といっても演奏がいい。
凛とした清々しい演奏で、男らしい、演奏者は女性だけど、実に男らしい。最近の日本の女性は素晴らしいですね。ホントだったら、貶してるんじゃないんだったら、賞賛してるんだったら!

去年、朝日新聞にも取り上げられて評判になり、国内盤も出たようです。その記事によれば、輸入盤のクラシックとしては異例の2000枚も売れたというのです。
2000枚売れれば異例?
そんなものなんですかねぇ・・・ クラシックの売場が狭すぎると私は常々文句をたれてきましたが、2000枚売れれば御の字だとは、よくまぁ、そんな商売やってるなぁ。CD屋にクラシックのコーナーがまだあるだけでも感謝しなくてはならないのかも。

アンケート:
該当するものをクリックして下さい、よろしければ・・・


(1998.02.18新規追加)

Alma Anima, Towords a new Gregorian Chant / Catherine Braslavsky, Thierry Renard, Joseph Rowe / al sur ALCD 161 (1995年フランス盤)

もう2年近く前になるでしょうか、横浜のHMVでかかっているのを聴いたのは・・・
最初、何の音楽か分かりませんでした。タンブーラ(インドの通奏低音用撥弦楽器)の伴奏に乗ってまるでインド音楽の声楽ように始まったかと思うと、突然中近東風のリズムに切り替わってポップなダンス音楽に変身する。
買い求めて、しげしげとジャケットを眺めたとき、初めて気が付きましたよ、グレゴリオ聖歌集だったなんて・・・

ユダヤ人っぽいヴォーカルのおばちゃん(Catherine Braslavsky)がライナーノートに書いている。
グレゴリオ聖歌が当時どのように演奏されていたのか、真剣に考え、色々と調べてみたが、結局本当のところは誰も判らないと言う結論を下さざるを得ない。我々としてはもう自分たちの内面的真実だけを拠り所として演奏した・・・
一見、奇をてらった演奏のように見えるかもしれないが、良く耳を傾ければ決して表面的な効果を狙った演奏ではない。結局彼らが再発見したものは「ワールドミュージックとしてのグレゴリオ聖歌」なのだと私は思う。

グレゴリオ聖歌の成立した4世紀から5世紀頃まで遡れば、ヨーロッパなんかまだ存在してません。
結局それは「ローマ帝国」という名前の地中海を中心とした世界帝国の音楽だったのではないかしら?
だから、彼らが、中近東やインドの香りをグレゴリオ聖歌の中に見いだしたとしても、全然不思議ではないと、私は思う。
(中近東はともかくとして、何でインドなんだと思う方はこちらをご参照下さい。)

(1998.02.08新規追加)

マーラー/交響曲第9番/ブレーズ指揮/シカゴ交響楽団 Grammophon 457 581-2GH
私はこの部屋でマーラーの交響曲9番を聞いた
Kの数少ないレコードだった
それからは体調の良い時にはこの二枚組の4面を聞く
第4楽章の「アダージョ」だ
全曲を聞き通したのは最初の一度きりだった
この作曲家は最後の交響曲の最後をこのように書いたのだ
これは祈りだろうか

              ・・・伊藤重夫チョコレート・スフィンクス・アゲイン
                 「チョコレートスフィンクス考」(1983年8月跋折羅社刊)収録

一応、最初と言うことで、最近リリースされたものを取り上げてみました。
でも、本当にこれ、最近のリリースなのかな? 録音は95年の12月みたいだけど。何でリリースするまで2年も眠らせて置いたんでしょう? まぁ、レコード会社がどんな商売してるか分からないからなぁ。まぁ、どおでもいいか・・・

マーラーの9番って言えば、伊藤重夫のチョコレート・スフィンクス・アゲインを思い出します。高校生の女の子がこの曲を聴くエピソードがとても印象深かった。場所は墓地の見える下宿屋の一室。この部屋で、彼女は部屋の主である浪人のKと関係を持ちました。その後、彼女は部屋の主が不在の時を狙ってこの部屋に入り込み、第4楽章のアダージョを繰り返し聴くのですが、上に引用したのは、その時の彼女の独白です。
私は結構この話が好きで、わざわざ人に読ませて回ったりしました。
でも、誰もいい話だなとは言ってくれなかった。
何か、じとぉ〜としていて、暗いというのです。
私は、その暗さの奥に、澄み切った感覚と甘くて切ない味わいを感じて、好きだったんだけどな。
ちなみに、彼女が聴いていたのはバーンスタインがニューヨークフィルを振ったやつのようです。

で、ブレーズなんですけど、うん、これは好かった。
9番というと、みんな、構えますよね。バーンスタイン的にというか伊藤重夫的にというか、こう、力一杯ぶつかっていってしまうというか・・・
でもね、ブレーズは、それを淡々と、とっても丁寧に演奏して行くんですよ。それは、もう、とっても丁寧に、音楽の構造が細部まで明確に分かるように。でも全然力んでない。で、だからこそ却って来るんですね、じぃーんと。考えてみると、このときマーラーはもう死にかけてるわけですから、そんなに元気があるはずがない。これくらい力無く、枯れてたんじゃないかと。これ聴いてると、もう、楽に死ねそうな気がしてくる、そんなナイスな一枚です。少なくとも私にとっては、9番の決定版が遂に現れたという感じ。

・・・ブレーズの紹介になってないな。
伊藤重夫の「チョコレート・スフィンクス・アゲイン」の紹介みたいだ。しかも、考えたら、ブレースのマーラーは伊藤重夫的マーラーとは全然違うぞ。引き合いに出したこと自体がそもそも無理だった。・・・まぁ、いいけど。
でも、伊藤重夫なんて知っている人いるかしら・・・?

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