| 日々の雑感 | ||
| 1998年12月号 | ||
| presented by tach |
昨日と一転して素晴らしい天気だが娘は終日パソコンにかじりつき、「ファンタスマゴリア」とソリティアばかりやっている。諦めて読書に専念しようとしたが、そっとしておいてもらえない。一緒にパソコンを見てくれとうるさい。今日はこちらから外の散歩に連れ出す。
娘の妨害にもめげず何とか「OUT」を読み終わる。驚嘆する。自分は好きだが、こうした厳しい作品は読者を選ぶのではないだろうか? ベストセラーになったということが不思議に思える。
娘を自分の両親の元に連れて帰る。夕方にはとんぼ返り。
70枚でいったん完結させた原稿を100枚に出来ないか検討しながら読み返してみる。……内容的にはもうこれ以上書き足すべきではないという気がしてならない。おそらくこれで決定稿だ。
妻が二週間のニューヨーク出張に出発する。急にたった一人になると何だか「お仕事」にも集中できない。読書してしまう。
桐野夏生の江戸川乱歩賞受賞作「顔に降りかかる雨」。「OUT」には遠く及ばない。桐野夏生は成長する作家だ。
山本直樹「学校」。このごろの山本直樹は乗っている。今回も好調だけど、やっぱりこれはエロ漫画以上のものではない? そう言われてもおそらく山本直樹は笑っているだろう。
近作「ラブ・マスターX」の単行本第一巻を読んで驚く。何か新しいことを始めたようだ。安野モヨコもまた成長する作家のようだ。
「天使に見捨てられた夜」 前作の「顔に降りかかる雨」よりは良かったけれど、やはり「OUT」には遠く及ばない。成長する作家だ。
まとめて一気に書いたら一日が潰れた。明日からは毎日書こう。
目が覚めたら12時半だった。リビングに出てきたら、昨日とはうって変わって、明るい陽射しが差し込んでいてる。眠っていて損をしたような気がする。しばらく「お仕事」を試みるが、乗らないので、散歩がてら図書館に出かける。
桐野夏生の「OUT」を返却して、ケストラーの「コペルニクス」「ケプラー」と「真昼の暗黒」、それに奥泉光の「滝」を借りる。
驚いたことに二冊有った「真昼の暗黒」のうち一冊は貸し出し中。今時あんな「反共小説」を読む人が読む人がいるとは驚きだ。自分が借りたのも1955年に三笠書房の世界文学全集の一冊として刊行された版で、旧字旧仮名遣い。紙は真っ黄色で、今にもバラバラになりそうなくらい傷んでいる。考えてみると43年前の本なのだから無理もない。
そんな昔の本を今この瞬間読もうとしている人間が、自分の他に少なくとももう一人いるとは、何だか不思議だ。いったいあなたは誰? 何で今時こんな変な本を読もうなんて思ったの?
奥泉光の「滝」は最初の方を少し読んでみると、なかなかの作品のようだ。でも年上の少年に惹かれる少年の描写を読んでいると、この人ひょっとしてホモ?と思って(思わされて?)しまう。三島由紀夫にかぶれたことがあるんだろうか?
明日は午前中に用事があるので早く寝なくてはならない。
ちゃんと眠れるか心配だ。
何とか7時半に起きて午前中の用事を片づける。午後はそれに関連する問い合わせの電話で潰れる。一通り片づいてから奥泉光の小説集「滝」を読み終える。
最初の誓約は凶とでて、少年たちは尾根を下った。
夏の太陽が宙天に燃える。濃紺の空にガラス片が撒き散らされて、山肌を、尾根道を、森を刺す。無数の蝉たちが羽を焦がすかの勢いで鳴き叫び、風のない山腹には熱湿が籠もる。
いきなりの強烈な出だしで度肝を抜かれて読み始めた「滝」だが、やがて次のような一節に出会って躓いてしまった。
人々を僅かずつ、しかし確実に悪の色に染め上げる組織という怪物は、誰の目にも見える形で邪悪を体現する者を餌に欲しがる。自分がそれだ。達彦は思った。
そして何か割り切れない気持ちを抱えながら読み終え、同じ作品集に収められている「その言葉を」に取りかかったとき、今度は次のような一節に出会って、立ちすくんでしまった。
……これは教育なんだぞ、人間は誰だって声援とも揶揄ともつかぬものを背に受け、善意とも悪意ともつかぬものの中で生きていかなくちゃならないんだ、ぼくだってそうだし、みんなそうなんだ、君は毒にまみれなければならない、君は恥をかかなければならない、人生は恥かいてナンボ、恥をかいてこその人生だ、……
何か鉛の固まりでも飲み込んだような重苦しい気持ちが残された。これはむしろ奥田光より一つ上の「団塊の世代」の感性というか、嫌な側面だと思っていたのだが・・・奥田光は古い人? 年の離れた兄がいて、その影響を強く受けたとか?
同じ時代を生きた人の共感を求めて書いたというのだが……納得できない。
誤読したのだろうか?
前の晩、早く眠るつもりだったが、夜中にウェッブフォンなるチャットプログラムでニューヨーク出張中の妻とチャットを始めてしまって、寝るのが遅くなる。元はと言えば国際電話代をケチってのみみっちい話なのだが、使うたびに、やっぱり大変な時代になったのだと実感する。なにしろ定額制プロバイダーと契約してテレホーダイ・タイムに使えば全くただで世界中どことでも通信が出来てしまうのだ。ただし相手も同じチャットプログラムをインストールしてインターネットに繋がっていないといけないが。
しかしもっと簡単なものもある。
Net 2 Phoneというインターネット電話だ。
これは自分のパソコンにインストールしてインターネットに接続するだけで、パソコンから通常の電話機に電話をかけられる。もちろん世界中どこにでも。その上とにかく安い。
最近、国際電話は価格競争が激しく、しょっちゅうセールスの電話がかかってきてうるさい。そんなときに「うちはインターネット電話を使ってますから」というと、セールスマンがしょげ返る。中には気の毒になってしまうほど意気消沈してしまうセールスマンがいる。それほど安い。
たとえば米国にかける場合、世界中どこからでも(即ち日本からでも)一分間10セントだ。
もっと分かりやすく言えば、定額制プロバイダーとテレホーダイを併用して使った場合、1ドル120円換算で、3分間36円。
テレホーダイの効かない日中に使ったとしてもプロバイダーのアクセスポイントまでの市内料金10円を上乗せして3分46円。
これがKDDを使うと450円。競争相手のITTでも198円。(ITTの料金比較表による)他の電話会社がどんな価格設定にしているか分からないが、それでもITTの半額と言うことはないだろう。
要するに従来の電話会社には勝ち目がないのだ。それも全く。
インターネット電話にもいろいろと問題はある。たとえば音質が悪い。回線の安定度にも問題がある。しかしそれもどんどん改良されているし、現在の水準でも、たとえば家族や友人と消息を確認しあう程度であれば、十分な水準に達している。
インストールや顧客登録の手順も煩わしく、しかも英語でやりとりする必要がある。しかしこれもいくらでも改良できるはずだ。
インターネット電話が本格的に日本の国際電話市場を狙いだしたらどうなるのだろう?
報道されるところによれば、今でさえ、少ないパイを巡って過当競争状態にあり、各社の収益は低下しているというのに……
日本の国際電話会社が壊滅状態になるかもしれないというのは杞憂だろうか?
実は、この日本の国際電話会社が置かれている状態が、日本全体の置かれている状況を象徴しているような気がしてならないのだが、そのことは別の機会に書いてみたいと思う。
今日こそ早く寝よう。
何しろ、今日は新しいパジャマを買ったのだ。
ケストラーのコペルニクスの伝記を読んでいると、何で彼が地動説のスターとして脚光を浴びたのか、かえって分からなくなってくる。
地動説自体はギリシャ時代から存在していたし、その系譜が完全に途絶えたことはないと言う。中世から近代にかけてのヨーロッパにも地動説論者は存在してきた。コペルニクスもそのことは承知しており、地動説自体は彼のオリジナルではない。むしろ彼の時代には地動説が徐々に力を持ちだしていて、同時代には、彼の他にも地動説を信奉する「進歩的知識人」はいくらでもいた。
では、彼の地動説の理論が抜きん出て優れていたのか?
そうではない。それどころか理論としては破綻してたのだ。彼自身もそのことは認識しており、だから自著の出版を死の直前まで躊躇い続けてきた。何しろ、プトレマイオスの天動説をひっくり返して地動説として組み直せばもっと「単純」で優雅な理論が出来るのではないかという発想で始めたのに、理論を煮詰めれば煮詰めるほど、その体系は込み入り始め、終いにはプトレマイオスの天動説よりも複雑怪奇な理論に化けてしまったという。にもかかわらずプトレマイオス同様、観測結果とは必ずしも一致しない。
しかもその中には計算上の誤りが含まれており、そのことは同時代人の目にも明らかだった。
それにもかかわらずコペルニクスは地動説のスターとして受け入れられ、ついには「コペルニクス的転回」などと言う言葉まで生まれてしまう。
不可解なことだ。
結局のところ、彼は、人々が求める「そのとき」に、たまたま「その場所」に居合わせただけなのだろう。ただ、ケストラーのこの本は、それがどんな「とき」で、どんな「場所」だったのか、必ずしも明確に答えていないように思える。
何れにせよ、時代は、いつでも、その時代の「スター」を求める。
しかしながらそんな時代の要請に応えて出現する「スター」には、いつも、どこかしら胡散臭いところがつきまとうようだ。
「エロマラ」を読んで以来、やまだないとは気になる作家だが、「しましまのぶちぶち」と「フレンチドレッシング」と「ラマン」を一気にまとめ読みする。
結論は、……いつも同じことを言うが、やまだないとは成長する作家だ。ところでやまだないとのホームページをご存じだろうか。中身はあまりないが、やっぱりスタイリッシュだ。
ついでに安野モヨコのホームページも覗いてみると面白いかもしれない。対照的に質実剛健……と言うか、中身が結構面白かった。
これからはじめる大人のピアノというピアノのレッスンソフトを使ってみたが、これはとてもいい。発売元はヤマハ。はっきりとは明示されていないが、米国でベストセラーになっていた「ミラクル」というソフトを移植したもののようだ。
とにかくかゆいところまで手が届く仕組みで、快適に練習が出来る。練習することが楽しくなってくる。ピアノを弾けるようになりたいと密かに思っている人がいたら是非薦めたい。楽譜が読めなくても大丈夫だ。ムービーで指の動かし方までちゃんと教えてくれる。(何だか、出来の悪い宣伝のコピーみたいな文章だな……)
実は、レッスンソフトはこれが二つ目。
初めはピアノ・レッスンというソフトを使っていた。これはこれで非常にいいソフトだ。教え方に一本の筋が通っていて、何か「教育思想」のようなものを感じる。志が高い。
ただこれはピアノの練習ソフト以上のものだ。もっと広い意味での音楽教育プログラムだと言ってもいい。ピアノはそのために利用する道具であって、決して目的ではない。何しろリズムの概念から始まって、聴音練習までさせられる。実例を通して理論をがっちりと把握させる。譜面から具体的な音の形を読みとる方法を練習を通じてみっちりと仕込まれる。それはもう本当に効果的で、自分でも驚くほど短時間のうちに楽譜が読めるようになってくる。この教育メソッドを開発した人を尊敬する。
しかし、面白くない。あまりにもストイックで、楽しくない。この先生は厳しい先生で、退屈な練習を延々とさせるのだ。それは確かに効果的だけど、やっぱり楽しくない。なるほど、それはそれで正しい「音楽教育」の方法だろうけれど、でも、ただ単にピアノが弾けるようになりたいと思っている一般の人たち(自分も含む)にとっては明らかに「過剰」だ。
そんな訳で「これからはじめる大人のピアノ」に乗り換えることにした。
でも、音楽の理論と技能を正しく身につけたい人は「ピアノ・レッスン」の方がいいかも。
以上、ご参考まで。
故あって音源ボードの差し替えを決心した。
決心するようなことかと言われそうだが、実は、ハードをいじるのが嫌いだ。出来ることなら避けたいと思っている。それだけでない。実はソフトをいじるのも嫌いだ。アプリの設定を変えたり、ヴァージョンアップしたりすることも出来るだけ避けたいと思っている。
何故?
ハードをいじるのは怖い。中身が全然分からないし、壊しそうな気がする。アプリの設定の変更も、たいてい思うようにいかず、イライラする。ストレスのあまり胃に穴があきそうになる。ヴァージョンアップと来ては操作方法をせっかく覚えたことが無駄になり、また一から出直しだ。しかもたいていアプリは巨大化し、動作がのろのろしてくる。金を出してパソコンをのろまにしているのだから世話はない。パソコンを使い込んでくると分かるが、動作速度というのは非常に大切だ。遅いパソコンというのは、人を助けるどころか、逆に足を引っ張りはじめる。MS−DOSが懐かしい。あれはきびきびと軽快に動いた。ウィンドウズは絶対にのろまだ。毎日使ううちにだんだんと慣れて忘れてしまうが、MS−DOSに比べると、明らかに遅い。それも仮名漢字変換や画面のスクロールといった基本的なところが遅い。僅かな遅さにしろ、こうした基本的な遅さは積み重なって、結果として大きな影響をもたらしているはずだ。
話が逸れた。
ボードの差し替えだ。
何とか無事に終わったが、ただひたすらに疲れた。なんの知識もない文系ユーザーがパソコンのカバーを取って中身をいじり回すときの恐怖と緊張を想像してほしい。
問題の多いMWAVEという音源ボード兼モデムボードを自社製品に標準搭載したIBMが恨めしい。
(最近のIBM製品にはもうMWAVEは使われていないとのこと。公式見解はとにかく、IBMも問題を認識していたのだろう。確かなことは分からないがおそらくMWAVE動作時のCPUの負担が大きすぎたのだと思う。Net2phoneというインターネット電話の動作は不安定で、「これからはじめる大人のピアノ」は音飛びを起こした。サウンドブラスター16と差し替えたとたん、どちらの現象もぴたりと治まった。)