日々の雑感
1999年1月号

presented
by tach
1999.01.07 Thu. インターネットの匿名性(その1)

いやぁ、馬鹿みたいでしたね、年末年始の宅配薬物自殺事件。
マスメディアの煽り方は本当にひどかった。
「インターネット=無法地帯」と言う安易な図式に寄りかかって騒ぎまくり。未だに毒物の送り主はマスメディアに有ること無いこと書き立てられてバッシングされまくり。本人は自殺して落とし前つけたつもりだろうけど、にもかかわらず、墓を暴いて屍を引き回しにするような騒ぎだ。どうせマスメディアなんてこの程度のものだと思っているから驚きはしないけど、怖いな、やっぱり。世の中って怖い。

でも、この事件で一番驚いたのは「インターネットでは匿名を禁ずべし」という西垣通東大教授の発言
どうしたの、先生? 頭は大丈夫?って感じ。
何も分かってなさそうな阿呆がそんなことを言ったなら別に驚きもしないけど、あの西垣通先生がねぇ…

昔「AI」って言う本(講談社現代新書920)を読んだ。
出来もしないことを出来ると言い張る三百代言が横行するのにウンザリしていただけに「正直なこと」を書こうとする著者の姿勢は新鮮だった。基本的にはAIの実現に前向きに取り組もうとしてるんだよ。でも、周囲の馬鹿騒ぎに著者もウンザリしているのが見え隠れする。皮肉な書き方をしても、人を馬鹿にしてるって言うより、「疲れたよ、俺は」っていう感じ。
ああ、この人はまともな人なんだなって思った。この人はちゃんと分かってるんだと。
そうですね、それが西垣通先生との出会いでした。

それから十年。
先生は書きまくった。コンピューターの本なのにソシュールやデリダに言及するその切り口は光ってた。ちょっと軽いかなって感じもしてたけど、工学博士でこんなことを語ろうとする人は他に見あたらなかったと思う。ちょっと悪のりしているように見えるときもあったけど、まぁ、いいじゃない、悪のりは人生の調味料だ。
基本的にはまともな人だと、私は信じていましたよ。
…ところが今回の発言だからな。
出会いがあれば、別れもある。西垣先生さようなら、悲しみよこんにちは。
…ウソ。冗談。言ったでしょう、悪のりは人生の調味料。

まぁ、相手はマスコミですから。
俺はそんなこと言った覚えはないぞ、と今頃先生は青ざめてるかもしれない。
実際先生は「本来の言論の自由や民主主義の発展のためにも発信の実名性原則をルール化すべきだ」と言ったらしい。簡単に禁止しろなどとは言ってない。私の書き方もはったりが効き過ぎてるな。先生は社会的責任ってことを言いたかったんだと思う。

でも先生の発言をきっかけにマスコミが「インターネットの匿名性」をバッシングし始めたことは確かだ。
やっぱり東大教授は社会的権威だからな、影響力は大きい。
でも私は社会的権威社会的責任を問いたい気分だぜ。

せめて「原則匿名の中でも、必要に応じて実名性を確保する努力が必要」ぐらいのことは言ってほしかった。
いや、本当は「インターネットの匿名性によってもたらされるものは大きい。ある程度の負の要素は受け入れられるべきだ」と断言してほしかった。

要するにインターネットが「市場経済+貨幣」にも匹敵する「メディア」として機能するためには「匿名性」が不可欠だと言いたいのだけど、続きは明日にする。(明後日以降かも知んないけど)
でも、最後に一言。貨幣には名前は書いてないぜ。

しかし、年の初めから態度がだらけてるな。今年はずっとこの調子で行こうかな。


1999.01.08 Fri. インターネットの匿名性(その2)

続きだ、続き。年の初めぐらいちゃんとやらんとな。

西垣先生は民主主義を信じてる。皮肉ではなくて立派なことだと思う。「言論の自由や民主主義」という理念は美しいと思うし、それを実現しようとして戦う人の邪魔はしたくない。その実現にために、独立した個人が実名でばんばんやり合って切磋琢磨し合う場をインターネットの一角に作りたいというならどんどんやればいい。文句を言う筋合いはない。出来ることなら一緒に戦ってもいいとすら思う。
でも、正直に言えば、私は、そんな理念が本当に実現できるとは、どうしても信じ切れないところがある。特にこの日本の社会では…
西垣先生だってちゃんと気がついてるんだ。日本の戦後民主主義が民主主義に名を借りた「集団主義」であり「ファシズム」ですらあったことに、ちゃあんと気がついている。だからこそ「本来の言論の自由や民主主義」などということばが飛び出してくる。

ホントのこと言うと、どんなに民主的なルールを整えた場を作ったとしても、所詮日本の社会では無駄だ。すぐに変質が始まって、結局は「似非民主主義」に、詰まるところは「偽装されたファシズム」にすり替えられて行くんだよな、間違いなく。
いくらルールを作って場を整えてもそこに参加する人間の一人一人が変わらない限りは無駄だ。
ルールを押しつけたって人間は変わらない。
道はきっと別なところにあるんだ。
けれどそれがどんな道か知らない。でも、インターネットからの匿名性の排除でないことだけは確かだ。

で、インターネットに話が戻るけど、匿名でいいんじゃないかと私は思う。
実名でやりたいって言うんなら、そういう場をネットの一角に作ればいいし、それに文句を言うつもりはないけど、でも、それ以外の場は匿名でいいと思う。

理由?
わかんない。何となくそう思うの。
まぉ、私なりに思うところは無いわけではないんだけど。
また明日にする。
んじゃ、お休みなさい。


1999.01.09 Stu. インターネットの匿名性(その3)

インターネットは匿名でもいいという話の続き。

匿名で情報発信するのは人権の一つだって主張する人がいる(たとえば富山大学の小倉利丸氏)けど、さぁ、どんなもんだか?
そもそも権利というものは、ある枠組みの中でみんなが合意したものに過ぎない。
匿名の情報発信が権利だというなら、それがどんな枠組みを前提としているのか、それを明らかにしなければならない。
それをすっ飛ばしていきなり「権利!」「権利!」と叫き始めるのは戦後日本の似非民主主義者の典型だぜ。
まさか前提は「民主主義」だって言うんじゃないだろうな。民主主義のためには匿名の発言権の確保が必要だと。
それは違う。民主主義のためなら実名で発言するべきだ。その点では西垣通の方が筋が通っている。

でも、世の中には「民主主義」より大切なものがあるんだよね。

えっ?
大丈夫だよ、いきなり「国家」だとか「民族」だとか「国体」だとか叫き出したりしないから。

私が言いたいのは要するに生きる悦びってこと。

匿名って楽しくない?
私は正直言って楽しいと思うよ。
だから匿名のサイトをやってるわけだし、アングラ掲示板を眺めるのもすごく楽しい。こうした無責任で荒唐無稽の匿名発言が消えてしまったら、インターネットはずいぶん寂しいものになるだろう。
もちろん中身は下らない便所の落書きだよ。
でも便所の落書きは正常な世界の不可欠な一要素だ。全き世界には便所の落書きが必要なんだよ。

まぁ、仮にだよ、「本来の民主主義」の社会が実現したとしよう。
そんなことは、貨幣の無い理想の共産主義社会の実現並に難しいとは思うのだけど、仮に実現したとしよう。
それでもその社会には「外部」って言うものが必要だな。
そうでなければ、息苦しくてみんな気が狂っちまう。
そうでなければ、どんな社会にも必ず生まれてくる「隠蔽された真実」が圧殺されてしまう。
昔、「真理はいつも少数から」と言った大学の学長がいたけど、私に言わせりゃ、「真理はいつも便所の落書きから」だな。

これまでのところをまとめると、要するに「ハレ」の場としてのインターネットということかな。
インターネットは「ハレ」の場として非常に有効に機能する可能性があると思うな。
少なくとも社会の重層性というか多義性を確保して健全さを保つ役割を果たすのではないかと…

それからもう一つ、「メディア(媒体)」としてのインターネットの可能性という問題も気になる。
つまり、インターネットは、「市場経済下の貨幣」の出現に匹敵するほどのインパクトを社会に与える潜在的な可能性があると思うのだけど、「匿名性」を排除してしまったらその潜在的な可能性を実現できなくなってしまうのではないか? と言うこと。

まぁ、明日にする。ここのところは明日の予告編でした。(明後日以降かもしれないけど…)


1999.01.11 Mon. インターネットの匿名性(その4)

恐ろしいことを書き始めてしまった。考えたらこんな問題を論じきるだけの実力もない。すぐに馬脚を現しそう。でも、書き始めてしまったからには、恥を忍んで、書けるだけのところまでは書いてみよう。できるだけ簡単に行くぜ。

繰り返しになるが、要するに、インターネットは、「市場経済下の貨幣」の出現に匹敵するほどのインパクトを社会に与える潜在的な可能性があると思うのだけど、「匿名性」を排除してしまったらその潜在的な可能性を実現できなくなってしまうのではないか? と言うこと。

まず、市場経済下の貨幣の特筆すべき特徴を三つ挙げる。

第一に「金」さえ払えば何でも手に入れることが出来る。
貨幣は「一般的な交換手段」であって、何ものとでも交換できる。
これは凄いことだ。その凄さは貨幣が存在しない世の中を思い浮かべてみればすぐに分かる。我々が例えば海の幸を山の幸としか交換できないのだとすれば世の中はどうなるだろう。
貨幣がどうしてこのような「魔力」を獲得するに至ったのか、私にはさっぱり分からない。考えれば考えるほど分からなくなる。とにかくそれは既に事実であって、我々が日々の生活で経験するところである。

その直接の結果として貨幣は社会の「媒体」として機能する。
「需要」と「供給」を結びつけると言うことは、時間と場所の隔たりを埋める媒体として機能すると言うことに他ならない。

第二に、あなたが何者であっても金さえ支払えば望むものを手に入れられるだろう。
或いは、相手が何者であっても、金さえ支払えばあなたは望むものを手に入れることが出来る。
もちろん例外はあるかもしれない。相手があなたのことも何らかの理由で憎んでいて取引を拒むかもしれない。そこまで行かなくても、あなたはみすぼらしい店では買い物をしたくないと思うかもしれない。
しかしそれは本来の貨幣の原則からしたら逸脱した行為なのだ。
大切なことは貨幣が本来正しいとすることは何かと言うことだ。
貨幣が我々に告げる原則に忠実に従えば、あなたは少しでも安く売ってくれるところがら買えばいいのであって、相手が親の仇であるかどうかなどと言うことは気に留めるべきではない。或いは、私は少しでも高く買ってくれるところへ売ればいいのであって、人間としてあなたの人格に疑問を抱いていたとしても、そんなことを気にかけるべきではない。
要するに貨幣とは「無差別性を有する交換手段」だ。

第三に、どこから稼いできても金は金である。
ときにあなたは「これは汚い金だ」とか「きれいな金だ」と思わざるを得ない状況に追い込まれるかもしれないが、それは一時の思い過ごしだ。例えば「きれいな金」と「汚い金」を同じ預金口座に放り込んで、少しずつ引き出しながら使ってみればよい。今あなたが使った金の内、汚い部分はどこで、きれいな部分はどこなのだろう?
貨幣にはアイデンティティーがない。貨幣は「無名の交換手段」だ。

こう書いてしまうと、本質的に同じことを上っ面のことばだけ変えて繰り返しているだけのような気がしてくるが、その本質を解き明かすだけの実力が私には無い。
とにかくこの三つが貨幣の注目すべき特徴だと私は思う。

それが良いことなのか、悪いことなのかは別として、この三つの特徴故に、貨幣は、人間の可能性を実現する強烈な起爆剤となった。社会の資源分配機能を加速しながら、既存社会を解体すると同時に、再編成してきた。
貨幣の刺激がなかったなら、今日見るようなテクノロジーの発達があったかどうかすら怪しいものだ。

インターネットは、その貨幣と、奇妙に類似している。
特に「一般性」「無差別性」「無名性」という重要な特徴をすべて兼ね備えている。
それだけではインターネットが貨幣にも匹敵する強力な社会的媒体となる可能性があることの論拠とはならないかもしれないな。しかし強力にそのことを暗示しているように思えてならない。

…我ながら説得力に欠けるな。やっぱり下手な理屈はこねない方が良かったかもしれない。
どうせ、理屈はどうあれ、インターネットの潜在的なインパクトは、既に誰もが感じ取っていることだ。
これはひょっとしたら世の中が変わるかもしれないな、と、何となくかもしれないけど、誰もが思っている。
その予感は正しいと思う。

で、話はここでようやく戻るのだけれど、インターネットの全体から匿名性を排除すれば、その潜在的な可能性が実現されなくなってしまうのではないかと言うことだ。

インターネットでの発言が、すべて例外無く実名で行われることが義務づけられた状況を思い浮かべてみよう。
「無差別性」と「無名性」が奪われた状況だ。
そうなれば、既存の社会の構造が、もっと率直に言えば既成社会の権威のヒエラルキーが、インターネットの中に再現されるだけになるだろう。
既成の社会を解体し再編成して行く力は大幅に失われることになるだろう。それどころか既成ヒエラルキーの強化の場として利用されることになるかもしれない。

ここで注意を促したいのは、我々が下す評価というものが、現実の場では内容よりもソースに大いに依存しているという事実だ。
何かを聞いたとき、その内容より、それを誰が言ったかで、信じる信じないを決めている側面が、非常に、いくら強調しても強調しすぎることがないほど非常に、大きいと言うこと。
胸に手を当てて考えてみよう。
そうでしょう、あなただって?
私だってそうだよ、残念ながら。

ここで唐突に以下次号。
いや、眠くて、眠くて。
今日で終わると思ったんだけどな。
お休みなさい。


1999.01.15 Fri. インターネットの匿名性(その5)

要するに我々はただ社会的権威に盲目的に従っているだけで、ほとんど自分の頭で考えてない、ってこと。

例えば、唐突だけど、地球がボールみたいに丸いって言うあの話、あなた、信じてますか?

信じてるよね、普通。
でも、どうして?
あなた、地球が丸いことを自分のその目で確かめたことがあるの?
丸い地球の写真を見たことがあるって?
でも、それが本物だという証拠は何処にあるの?
その青くて丸い奴が自分の立っている大地と同じものだという保証は、よく考えたら何処にもないよね?
よく考えたら地球が丸いことを自分自身で納得がゆくまで確かめたことなんてやっぱり無いよね、普通は?
でも、普通、地球が丸いことを信じてる。

どうして?

結局は、信じてもよさそうな人がそう言ったというのが、ホントの理由だろうな。
あなたのお父さんやお母さんがそう教えてくれたかもしれない。
理科の先生かもしれない。
或いは科学の本にそう書いてあったかもしれない。
そう教えてくれたのが、お父さんやお母さんや理科の先生や科学の本を書いた偉い人だから、それを信じたんだよ。

自分の頭で考えると口では簡単に言えるけど、本当はそんな簡単なことじゃない。
権威への盲従こそが社会生活の基本中の基本だからだ。
権威への盲従なくしては、まず社会生活への最初の一歩が踏み出せない。
なぜ「まんま」は食べ物なのだろう?
食べ物を「まんま」という音に結びつける必然性はあるのか?
「まんま」は食べ物の正しい名前なのか?
そんなことを考えていたらあなたは言語の習得に失敗するだろう。
人間は元々自分で考えることが出来るのかもしれない。
しかし、社会的権威に盲従すること、自ら思考することを放棄して言われたことをただ鵜呑みにすることが、繰り返したたき込まれる。
権威への盲従こそが、我々の骨の髄まで染み込んだ第二の本能であり、社会を成り立たせる基本原理なのだ。

西垣通先生もこの枠組みの中から逃れることは出来ない。

「本来の言論の自由や民主主義の発展のためにも発信の実名性原則をルール化すべきだ」と言う先生の発言をきっかけにマスコミが「インターネットの匿名性」をバッシングし始めたってこと。覚えてます?
これは「Radica」っていうメールマガジンに書いてあったことなんだけど、正しいと思うね。
だって私も、NHKの7時のニュースで西垣先生のことばが引用されているのをこの耳で聞いたもの。
この文章を書き始めてから長〜い年月が経ってしまったけれど、未だにマスコミのインターネットバッシングは止まらない。ついこの間も会員制のエロページが槍玉に挙がってた。

西垣先生の発言がどうしてこれほどまで影響力を持ってしまったのだろう?

それは東大教授という社会的権威の発言だからだ。

マスメディアは、社会的権威にただ盲従したのではないのかもしれない。
元々、新興メディアとしてのインターネットに敵意を抱いて攻撃のチャンスを窺っていたところに、たまたま西垣発言があったので、利用したのかもしれない。
しかしそうであったとしても、西垣発言が社会的権威としてその機能を果たしたことには変わりがない。

言論とか学問とか科学というものは何か自由なものであるような錯覚があるが、実はそうではない。
これらもまた社会的な権威の階層にがんじがらめになっている。
それが社会に不可欠な「秩序」というものをもたらしているのだが、一面において、本来であるなら変わらなければならないものの変化を妨げ、硬直化をもたらしているのも事実だ。

特に言論では「実名」というものが、社会的権威の階層の拘束が議論の場に忍び込んで来る入り口として機能してしまう。
インターネットの「匿名性」の中で、言論をそうした制約から解放してみたいという誘惑に駆られるのは、おそらく、私だけではないはずだ。
インターネットに貨幣と同じような「無差別性」や「無名性」を実現すれば、貨幣が既存の社会関係を破壊して社会を変質させたように、既存の社会的権威の階層を破壊して、そこから何か新しいものが生まれてくるかもしれない。

生まれてくるものが望ましいものであるという保証は何処にもない。
しかし私はあえて前に進むべきだと思う。
前に進んで自ら変化を受け入れるべきだ。
なぜなら、変化すると言うことは生きると言うことと同義語だからだ。

あとがき
本当は貨幣がもたらしたものは何かとか、本来なら立場を明確にしておかないといけない問題がたくさん残っているんだけど、力尽きて、ここでおしまい。
要するに、人は自分の宿命というものを受け入れなくてはならないと言いたかっただけだよ、私は。
もし、ここまで辛抱強く読んでくれた人がいたとしたら(いないと思うけど)、感謝のことばを捧げておきます。
ありがとう。

1999.01.16 Sat. ヴァーチャル・リアリティーは「仮想現実」ではない

virtual reality という英語に「仮想現実」という訳語を当てるのが一般化しているが、これは誤訳だとしか思えない。
直訳するのであれば「事実上の現実」と訳すべきだ。
直訳が気に入らないのであれば「第二現実」とか「代替現実」とか、場合によっては括弧に入れて『現実』と訳しても構わないとすら思う。

virtual reality なる言葉の強調点は、それが「現実」だと言うことにある。
例えばワイヤー・フレームで描かれた安っぽい画像であっても「事実上」は「現実」として「機能」しているよ、と強調しているのだ。
決して実際には存在しない架空のものだと言うことを強調しているのではない。
「仮想現実」と訳してしまってはこのニュアンスが逆転してしまう。

結局のところ、virtual という単語の意味を正しく理解できなかったところからこの誤訳は生まれたのだろう。
virtual と言うことばを英和辞典で引くと「仮想の」とか「仮の」という訳語も確かに載せられているが、それは最後の方で、まず第一義的には「(表面上または名目上はそうではないが)事実上の、実質上の、実際上の」と言う意味であることが分かる。
「仮想」という意味はそこから派生してきたものに過ぎない。しかも理科系統の用語を日本語に訳す際に派生してきた意味であって、オリジナルの英語には「仮想」という意味は無かった節がある。例えば virtual memory と言うことばである。日本では「仮想記憶装置」と訳されることばであるが、これも「事実上のメモリー」と訳せば十分なのであって、あえて「仮想メモリー」と訳さなければならない理由があったとは思えない。いや、むしろ「仮想」と訳したのは誤訳だったと言いたいくらいだ。

英英辞典や Webster などの「英語の国語辞典」をひけばこのことはますますはっきりしてくるだろう。「事実上の」に該当する語義はあっても、「仮想」に相当する語義は何処にも見あたらない。virtual memory ということばを見てもそこには「実際にはメモリーでないものをメモリーとして使ったもの」という解説があるだけで、「仮想」ということばは出てこない。

virtual reality を「仮想現実」と訳してしまう無神経さ(としか思えない)の背景には、「余りにも素朴な現実観」があるように思える。
つまり今目の前に見ているものが間違いなく「現実」であって、それ以外のものは現実ではないという素朴な現実観だ。

しかし、「今目の前に見ているもの」とは、実は「網膜に投影された光に対する我々の解釈」でしかないことは明白だろう。
その意味では、ゴーグルの中に投影されるワイアフレームで描かれた「現実」と同じものなのだ。
或いは、自分の位置が地図の上に刻々と表示されて行くカーナビの画面も同等のものだと言える。
我々は生の現実を直接に知覚することは出来ない。
我々は元々 virtual reality の中に住んでいるのだ。

virtual reality ということばに初めて出会ったとき、なんと素晴らしいことばなのだろうと思った。「現実」という物の本質に対する洞察にあふれたことばだ。

しかしながら、それが「仮想現実」なることばに翻訳されて日本の社会に導入されたとたん、その豊かな含意は失われた。
それどころか本来のニュアンスとは正反対のニュアンスを帯び始め、とんでもない誤用、と言うか、言いがかりにすら結びつく。
今回の宅配青酸自殺事件に端を発したマスコミのインターネットバッシングの中でも、「仮想現実」に入り浸って「現実」を忘れるからこんなことになるのだという論調すら生まれてくる。

違う。
インターネットを介在したものであって、一旦生まれてしまった人と人との結びつきは「現実」のものであり、実在するものなのだ。

声を大にして叫びたい。

「仮想現実」ということばはもう使うな。


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