| tach雑記帳 | ||
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贋作「スターリン伝」 序章 −国境の光景− 或いは妄想劇場 ![]() 岡田真澄ではありません |
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since 2001.02.01 by tach |
黒い帽子に黒いコート。
やせ細った小柄な身体に陰険な目つき。
どこから見てもいかがわしいこの男が、ロシアと国境を接するオーストリアの検問所に姿を現したのは一九一二年十一月初めのことだった。第一次世界大戦勃発まであと一年半ほど。だが、その前哨戦であるバルカン戦争は既に始まっている。前線から遠く離れたこの国境地帯にも張りつめた緊張感が漂っていた。実際、一年半後、この二つの国は直接に砲火を交わすことになるのだ。
旅券に記載された氏名はザハール・グリゴリヤン・メリクヤンツ。
ロシア人ではない。アルメニア人だろうか? それともオセチア人? いずれにしても、いかにも偽名臭い。そもそも旅券自体があからさまに偽造品だった。こんなちゃちな紙切れ一枚でハプスブルク家の領土に潜り込めると、この男は本気で思いこんでいるのだろうか? 初老の係官は無表情に男を見つめた。目が合うと、男はにんまり笑ってみせる。愛想笑いのつもりらしい。係官は慌てて目を逸らすと、ろくに改めもしないまま、旅券に入国スタンプを押して、無造作に突き返した。男は嬉しそうにニッコリ微笑むと何度も頷いてみせる。
状況は明白だった。
この男は「通達」の存在を知っている。ハプスブルク家の巨大な官僚機構の最下層に位置する目の前の老官吏が、自分に手を出せないことを十分承知の上で、隙だらけの馬鹿を演じて見せたのだ。その実、馬鹿にされているのは老官吏に他ならない。老官吏は、屈辱感を噛みしめながら、苦々しい思いで、検問所を出てゆく後ろ男の姿を見送った。
通達の意味するところは明白だった。ロシアの反体制派地下活動家と思しき連中には目をつぶって国境を自由に越えさせてやれ。敵の敵は味方である。こうしたいかがわしい連中の活動が活発になれば、ロシアの屋台骨も揺らぐだろう。
検問所を後にした男はクラクフに向かう。
カルバチ山脈の中を抜けてきたビスワ川が平野に流れ出てきた地点にその街は広がっている。十四世紀から約三百年間、ポーランド王国の首都として栄えたものの、今ではその国家自体が存在していない。度重なる分割を経て、国土そのものがロシアとプロシアとオーストリアの三国にすっかり吸収されてしまってから既に百年以上が経過している。現在のクラクフはオーストリアの一地方都市に過ぎない。これといって特色のない繊維工業を除けば、売り物になるのは様々な名所旧跡の類。コペルニクスも学んだというヤギエウォ大学、マリア教会,バルバカン要塞、今は無きポーランド王国の宮廷跡等々。歴史と文化を売り物とする観光都市としてかろうじて食いつないでいるありさまだ。活気の失せた、半ば眠るようなこの街の中心部にわずかに残された瀟洒な一角に、レーニン夫妻は一月ほど前から居を構えていた。
「旅はどうだったね、コーバ?」
ロシア式の大げさな抱擁を交わすと、レーニンは暖かな情のこもった声で訪ねた。明るい茶色の目が、人なつっこく男を見つめる。
男は、ソファにだらしなく身を投げ出すと、ニコリともせず、言い放った。
「何、大したことはありませんでしたがね、国境で、小役人どもをぎゃふんと言わせてやりました」
訛のひどい粗野なロシア語で男が語る国境の「冒険談」に耳を傾ける内に、レーニンは破顔する。この男は俺に好かれたがっている。大いに結構。レーニンの鋭敏な直感は、男の装われた不作法の陰に潜む願望をたちまちの内に読みとった。イリイチ、こっちを向いてください。私に目をかけて、可愛がってください。ふてぶてしく構えながらも、ちらりちらりとレーニンの顔色をうかがっている目の表情は、そう叫んでいるも同然だ。粗野な態度も、そうした方がいい印象を与えられると計算しているからに違いない。レーニンが、生半可なインテリよりも、単純でタフな労働者上がりの活動家を好んでいることは、党内でも比較的よく知られていた。そうだ、俺はお前のような奴が好きだよ。レーニンは心の中で呟いた。びくびくしなくてもいい。お前のことは可愛がってやろう。いくら虚勢を張っても、お前が、あまりにも酷い目に会い続けたのですっかり怯えきっていることぐらいはお見通しだ。
レーニンは、この男の経歴を既に調べ上げていた。実際、この男は、そう見せかけたがっているような、労働者からのたたき上げ党員ではない。神学校を追い出されて行く当てを失った哀れな半端者だ。労働者でもなければインテリでもない。そのどちらにもなり損なったのだ。はっきり言えば、ロシア人ですらなかった。