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▼04.巫女
神官長が少年の教育に取りかかったとき、まさか、そんなことが起こるとは夢に思わなかったに違いない。最初はすべてが順調なように思えたのだ。飲み込みが速い。わずかな手ほどきを受けただけで、込み入った六十進法の計算をものにしてしまう。これなら複雑怪奇な天体の運行の算出も造作ないだろう。神殿の屋上に連れ出し、夜空に輝く星を指し示しながら、星座にまつわる神話を語り聞かせれば、たいていの子供が退屈さに欠伸の一つも漏らすところを、この子だけは目をきらきらと輝かせて耳を傾ける。何人かの異母兄弟の中から少年を選んだのはやっぱり正解だったのだと、神官長は己の選択眼の正しさを思い、ほくそ笑んだものだ。
少年の体内に流れる血は古い。神官長の家系よりも古い太古の巫女の血を引いている。神官長は、昔、わずかな期間だけ逢瀬を重ねたことのあるその女のことを思い出す。祭りの夜の篝火の中できらきらと輝いていた黒髪と瞳。若かった神官長は一目で恋に落ちる。暗がりに引き寄せ、求愛のことばを耳元で囁くと、女は驚いたように目を見開き、不思議なものを見るかのように神官長を見つめ返す。けれども拒むわけではない。求められるままに逢瀬を重ねてゆく。美しいが、無口でどこか影の薄い女だ。従順なのに、何を考えているのか、滅多に心の内を覗かせることがない。だからこそ神官長はますます女にのめり込んでゆく。後にも先にも二度と起こらなかったことだ。
やがて女は身ごもり、転機がやってくる。懐妊を神官長に告げるとき、女は、ふと、「この子は育つのかしら…」と呟いたのだ。その口調に潜む何ものかが神官長の耳をそばだたせる。不安というのではない。不安というものは生命への希望があるところに生まれる。女のことばにはそのような希望が生み出す息苦しさはみじんも感じられない。代わりにそこにあるのは、ただ淡々と事実だけを述べるある種の気安さのようなものだ。絶望が諦念に変わり、その諦念から一つの客観が生まれる。自分のいのちを見離してしまった者だけが身につけることの出来る平静さ。神官長の目に訝しげな色が浮かんでいるのに気が付くと、女は寂しげな微笑みを浮かべる。
「みんな死んでしまうのよ… 父も、母も、兄も、弟も…」
肉親を失ってしまった女が姻戚のもとに独り身を寄せていることは、神官長もとうに承知していた。心変わりをもたらしたのは、そうした事実ではない。
女に取り憑いているものの正体を悟ったとき、神官長の心の中に生まれたものは、愛しさよりも、むしろ、嫌悪の念だった。混乱する王宮の中で若くして既に老獪でしぶとい立ち回りを見せはじめていた彼にとって、死や滅びへの思いは最も忌み嫌っていたものに他ならない。そうした想いが自分にとって全く無縁のものであったのではない。むしろ、心の奥底に潜む何ものかが女のことばに共鳴し蠢き始めるのを感じるからこそ、嫌悪が生まれる。以来、神官長の足は女のもとから遠ざかり始める。女はそれを恨む様子も見せない。ただ起こったことを静かに受け入れるだけだ。やがて月が満ち、少年を産み落とす。そして、まるでそれが定めだとでもいうように、ひっそりと息を引き取る。
ことの次第を人から伝え聞いたとき、神官長の心の内は不思議と静かだった。後ろめたさに苛まれることもなければ、哀れみの情が湧いてくることもない。それどころか、迂闊にも取り憑かれてしまった忌まわしいものから解放されたという安堵感すら湧いてくるのだ。以来、女とその子供のことなど、彼の脳裏からはすっかり消え失せてしまう。
神官長のこの反応はいささか人間離れしていて怪物じみた印象を与えるかもしれない。しかし、当時彼が置かれていた状況からすれば無理からぬ面もある。神殿は王権の動揺とともに混乱し続け、神官長はその渦中にあった。ときに絶望感に駆られながらも、自らの生き残りを賭けて必死でもがき続ける彼の心に余裕などあるはずもない。忘却だけが、自らの精神の崩壊をくい止め、生き残るための、唯一の選択肢だったのかもしれない。いずれにせよ、月日は流れ去り、すべては遠い過去へと変わって行く。
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