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▼11.老人
枕元に灯火を置いても、老人はすぐには目覚めない。少年は、傍らに佇んで、老人の意識が深い眠りの底からゆっくりと浮かび上がってくる様を見つめる。
深く刻み込まれた皺とわずかに残る枯れ草のような白髪。まぶたは閉じ合わされているものの、時折、ひくひくと震える。旧市街の路地の迷路よりも更に込み入った夢路の迷路を彷徨い、絶えず何かを見続けているのだ。眠っているときですら、占星術師であることから逃れることは出来ない。星空の与える天啓は、夢の中でようやくその形を明らかにし、老人の休息を妨げるのだった。
「夜空には全ての歴史が刻み込まれている。過去ばかりではなく、未来までも。すべてが、予め定められ、この夜空の星の動きの中に刻み込まれている」
少年は老人のことばを思い起こす。
降るような星空だった。
見捨てられた寺院の屋上に立って見上げればたちまち上下の感覚が消え失せる。星々の輝く奈落の底へ落ち込んでゆきそうだ。
傍らに立って同じように星空を見上げている老人の声が響く。
「しかし、それを人のことばで語ることはひどく難しい。天空では時間は流れない。現在も過去も未来も一緒くたになって其処に存在しているだけだ。そのままでは、何処が始まりで何処が終わりであるのか、何が原因で何が結果なのか、さっぱり分からない。希に一見して明らかなときもあるが、大部分は夢に委ねるしかない」
「夢に委ねる?」
「昔、師匠が言った。人の心は二つの部分から出来ている。一つはお前に属する部分、もう一つは宇宙に属する部分だ。お前に属する部分はことばを操るが、知っていることはお前がお前であるという、ただそれだけのことだ。宇宙に属する部分はことばを知らない。ただ、宇宙に属しているから、全てのことを知っている。天空の啓示の意味するものも全て理解しているのだ。我々が目覚めているときは、宇宙に属する部分が自分の中にあることに気がつかない。ただ眠りについたとき、二つの部分は融け合って、夢という場の中で語り合いを始める」
夢の中では、数千年も一瞬のうちに過ぎ去る。ある時、老人は見た。遠い東の果ての大草原に興った遊牧の民が瞬く間に膨れ上がり、大陸を席巻して行くのを。
「大草原?」
「そう、見渡す限りの平坦な大地が草に覆われている」
「都の外の麦畑より広いのか?」
「ずっと、見渡す限り、地平線まで草の原が続いている」
少年は驚愕して尋ねる。
「いったいどうやって、そんなところまで水を引いたんだ」
「誰も引いていない。水路はない。草は大地に自然に生えてきたのだ」
草には人が食べられるような穀物は実らない。人々はその草を獣に食べさせ、自分たちはその乳と肉を糧とするのだった。
「黄色い肌の色をした、小柄な連中だ。気性が激しくて、思い詰めたらどんな残酷なことでもやる。東の果てにあった大帝国を滅ぼして、ここにもやってくる」
「何時?」
「さぁ、判らない。きっと遠い先のことだろう。お前も、お前の子供や孫達も、とうの昔に死んでしまい、それからまた更に長い年月が経った頃だ。この都はまだあるが、建物は全て建て変わり、其処に住まう人々も、今の我々にはちっとも理解できないことばを話すようになる」
「僕にも子供が出来るのか?」
「ああ、孫も、曾孫も、その先も・・・」
「でも、黄色い肌の連中が来る頃までには途絶えてしまうのだろう?」
「途絶えはしない。誰かが必ず生き残る。しかし、色々な血が混じり、見かけも、話すことばも今とはすっかり違ってしまう。自分がお前の子孫だなどと言うことは知るはずもない。その内の何人かはまだこの都に住んでいるが、その頃には今あるこの都のことなど、誰も覚えていない。だいたい、この都は、黄色い肌の連中が来る前に、何度も、徹底的に破壊し尽くされる」
「誰に?」
「一度は北西の山地に住む連中に。これはそれほど遠い先の話ではない」
「それは何時?」
「百年か、二百年、或いはひょっとしたら、三百年先かもしれない・・・」
いつもこんな調子だ。老人の予言は妙に具体的になったかと思うと、次の瞬間、捕らえどころのないものに豹変する。またあるときは驚くほど隅々まで明瞭であるかと思えば、一方で、最も重要な部分がすっかり欠け落ちていたりする。まるで調律の狂った弦が何本か不規則に混じっている竪琴のようなもので、そうした竪琴が使い物にならないように、老人の予言も使い物にはならない。
少年はどうして老人の言うことを信じるのだろう?
自分でも判らない。
老人が啓示を語るときに見せる確信に満ちた態度がそうさせるのだろうか? 成る程、老人は自分が天啓を受けたのだと信じ切っている。しかし、老人がただの狂人でないとどうして言えるのだろう?
神官長ですら、老人のことを語るとき、困惑の色を目に浮かべる。息子の問いかけに答えて、彼は物思わしげな表情を見せながら語る。仮に、星空が何かを語りかけるものなのだとしよう。そして、老人は確かにそこから何事かを読みとるのだとしてみよう。しかし、そうだとしても、星空に書かれているのは天界に属すべき事柄であって、ひょっとしたら、我々の地上の生活とは何の関係も無いことなのかもしれない。そう考えれば、我々の地上の基準を当てはめてみた場合、老人は確かに「狂人」なのだとは言えまいか…
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