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●降霊会
山県有朋は、荒井由実がデビューした途端、それが国家存亡の危機につながる可能性をたちどころに理解したという。これこそ青少年の覇気を打ち砕く音曲。国家の根幹を揺るがす危険思想であることは明白。本人の身柄を直ちに拘束して、ニューミュージックなることばを使用禁止にせよ。依代の老婆は絶叫する。時は一九七三年初夏。都内某所で催された降霊会での席上での出来事だ。
居合わせた面々は一様に困惑の表情を浮かべ互いに顔を見合わせる。
荒井由実なる人物を誰も知らない。
元々、明治国家主義を体現する元老の霊を呼び出し、混迷を深める時局について指針を仰ごうという趣旨で催された降霊会だった。右翼活動家やそのシンパの中でも弱小派閥に属する特に奇矯な連中が集まっていただけに、デビューシングルが出たばかりの彼女の名を知る者がいるはずがない。
「で、何者なんだ?」
後日、出席者の一人が、古参を訪ねてきて、真顔で聞いた。
「何で俺に聞く?」と古参。
「僕はアカの知り合いが少ないんだ。こんなことが聞けそうなのはあんたしかいない。それにあんたは歌舞音曲の類と近そうだからな。彼女が何者で、アカの思想はどういう関係があるのか、正直なところを教えてほしい。」
古参はあきれて男の顔を見つめる。高校時代の同級生だった。昔から何を考えているのか分からない変な男だったしな…。彼のぼんやりした坊ちゃん顔を眺めながら、古参は思い起こす。僕は頭が悪いから、と言うのが口癖だった。だからあんたたちの難しい理屈は分からない。とても左翼なんかにはなれない。僕みたいな奴は右翼になるしかないんだ。そう言いながら、当時既にいっぱしの「活動家」気取りだった古参の後を追い回し、何かというと教えを請いたがるのだ。慕われてるね、と活動家の仲間たちが冷やかす。あいつ、ホモなんじゃないの、ホントは。
忘れていた不愉快な記憶が甦ってくる。古参は、つっけんどんに相手をはねつけた。関係なぞあるものか、それに俺は共産党じゃない、反資本主義者なんだ。そう言って、追い返したのだ。
実を言えば、その時点では、古参も荒井由実の名前を知らない。彼女の歌声が街角に流れるようになったのはそれから更に数ヶ月後のことだ。それが古参の耳元まで届くには更に数ヶ月を要する。彼が、再度、古参を訪ねてきたのだ。
「見た…」
その顔には何か奇妙な表情が浮かんでいる。
「何を?」
「来たんだよ、学園祭に。」
彼が通うのは国粋主義的な気風で知られる某三流私大だ。その看板学部の国文学科に籍を置き、更に民族主義団体に加わったという噂を聞いたとき、その屈折した一貫性に、古参はあきれ果てたものだった。
「久々に学校に行ったら、コンサートをやってたんだ。荒井由実ってでかでかと書かれた立て看を見たときは信じられなかった。」
古参はようやくその名前を思い出す。
「いいのか、お前の学校なんかで呼んで。山県有朋が禁じたんだろう?」
彼はとまどいの表情を浮かべる。
「あれは、主流の受け入れるところとはなっていないんだ。いかがわしい民間の心霊術と純粋な国家神道を混同してるって、批判されちまった。」
「右翼でも理屈をこねるのか? いろいろあるんだな。」
古参が再び皮肉ったが、相手はぼんやりしたままで、怒りもしない。
「あんたの意見が聞きたい。」
相変わらず奇妙な表情を浮かべたままカセットテープを差し出す。
古参の部屋にはカセットデッキはおろか、ラジオすらない。本やパンフレットばかりが所狭しと積み重ねてある薄暗い四畳半だ。彼もそれは承知していたらしく、持参したラジカセにカセットをセットする。部屋の中に場違いな音楽が流れ出す。
ピアノの序奏に続いて始まる若い女の歌声。すぐにそれが決して美声ではないことに気がつく。アレンジや録音でごまかしているが、むしろだみ声の類だと言っていい。しかしまだ若かった彼女の声には張りがあり、そこに込められた感情は生々しい。彼女はゆっくりと歌ってゆく。窓から見上げたひこうき雲のことや、曇った日の憂鬱やら、かなわぬ恋の悩みやら、細々とした日々の断片と思いが積み上げられてゆく。二人の男たちは、しかめ面をしたまま、じっと耳を傾ける。
「これがどうかしたのか?」
やがてすべての曲が終わったとき、古参は狐につままれたような顔で尋ねる。
「感想を聞かせて欲しい。」
「感想って、…たわいのない歌だな。愛だの恋だの、ちっぽけなことばかり未練たらしく歌い続けている。こんな政治的意識のかけらもないせせこましい歌が俺たちの(と、思わず言ってしまって、古参は一瞬、言いよどむ)…思想と何の関係があるんだ?」
彼は頷く。
「そうだよ。そうなんだよ。」
そう言いながら、彼は懐から新聞の切り抜きを取り出してみせる。
「こんなのを見つけた。」
「何だよ?」
手渡されたくしゃくしゃの紙切れを眺めながら、古参は怪訝そうに尋ねる。
「朝日新聞の夕刊に載ってた芥川也寸志のエッセイ。彼女のことが書いてある。『荒井由実さんへの手紙』って言う題名なんだ。」
「お前、朝日新聞なんか読んでるのか? いいのか、右翼が朝日なんか読んで。」
古参はまたもやあきれて彼の顔を見る。
「しかたないだろう、僕の家は元々朝日新聞を取ってたんだ。子供の頃から読んでたもんだから、慣れてしまって、ほかの新聞はどうしても読めない。」
ふてくされたように答える。
「いいから、読んでくれ。」
促された古参は、バカ、朝日は臭すぎて俺だって読めないんだぜ、とぶつぶつ呟きながら読み始める。
「…高校生の息子が聴いていたって言うんだ。あんまり熱心に聴いているんで、興味をそそられて、試しに聴いてみたら、自分も感心してしまったという内容なんだけど…」
古参が切り抜きを読む傍らで彼は解説を続ける。
「…つまり、一九七〇年代半ばの日本に、荒井由実という一人の女の子がいて、こんな歌を書いていたってことは、覚えていてもいいことだって…」
古参がその一節を読み上げる。
「残念ながらあなたの声はよくない。あなたの歌は崇高な芸術というわけでもない。しかしながら、一九七〇年代半ばの日本に、荒井由実という一人の女の子がいて、こんな歌を書いていたってことは、覚えていてもいいことだ…か。何だか人を見下したような高慢ちきな野郎だな。俺様は芸術だ、お前は大衆向け歌謡曲。歌謡曲にしてはよくやった。褒めてつかわすって感じだ。」
「それは違うんだ。この人は恥じらうと言うことを知っている人なんだ。恥ずかしくて露骨なべた褒めなんか出来ない。ちょっと露悪的で屈折したポーズをつけずにはいられないんだ。本当は最大級の賛辞を贈ってるんだ。だって、これは一人の作家に対する最大限の賛辞だろう? はっきり言えば、彼女は名を残すって言ってるんだよ。」
「やけに肩を持つな、お前。」
「僕はこの人が好きだ。神経症みたいな父親の竜之介とは違って、温厚な紳士だ。上品でユーモアに溢れている。こんな人はなかなかいないよ。」
言ってしまってから、彼は顔を赤らめて口をつぐむ。
古参は、相手の人が変わったような饒舌にあきれて首を振りながら、先を促す。
「…だから?」
彼の顔に浮かんでいた困惑の色が深まる。
いったん何かを言いかけて口ごもり、しばらく考え込んだ後、決心したようにことばを続ける。
「彼は正しいと思う。彼女の歌は残る。残るどころか、ひょっとするとやがてはこの世の中を支配してしまうんじゃないかとすら思う。僕は見た。コンサートの会場に入って、彼女の歌に聴き惚れるみんなの顔を眺めたんだ。みんな、うっとりとして、彼女の語ることばに耳を傾けている。彼女の歌は、一人一人の耳元にすり寄ってきてささやくんだ。あなたの生命にはきっと意味がある。あなたの歩んできた道はきっと正しくて、空が、雲が、太陽が、この世のすべてが、あなたを愛しげに抱きしめる。だから何も考えるな。何も疑うな。ただ、流れに身を委ねて、今をあるがままに受け入れなさい。この世に存在するものに意味がないはずがない。この世に存在するからには悪いものであるはずがない。あなたの小さな人生はそのままでいい。そのまま、愛し、恋し、与えられた小さな生命を燃焼させなさい… そうやって、彼女の歌はみんなを誘惑する。僕たちは十分幸せなんだ。一人一人が自分たちの小さな人生に閉じ籠もっていればそれでいいんだって…」
彼は黙り込む。当惑しきった表情がその顔に浮かんでいる。
「だからどうなんだ? だからお前はどうする?」
古参は半ば哀れむような目で相手を見やる。
「いいか、お前だって本当は分かってるんだろうからはっきり言ってやるよ。お前は彼女の歌に感動したんだ。好きなんだよ、彼女の歌が。お前は本当は彼女の歌がお似合いのちっぽけな男なんだ。一生懸命天下国家を論じたがってるけど、そんなのはちっとも似合わない。彼女の歌を聴くたび、お前はそのことを思い知らされるんだ。」
彼は怒りの色を目に浮かべ、叫ぶ。
「違う。そんなのじゃない。」
「違わないね。そうでなかったら、たかが歌一つにそれほど動揺するか? いつだって、普通の人間は自分だけの小さな世界のことしか考えてないんだ。それが凡庸と言うことさ。お前もその凡庸な人間の一人なんだ。だから彼女の歌が分かってしまうんだ。俺は違うよ。こんな下らない歌を聴いたって何とも思わんさ。」
彼は黙って立ち上がる。殴りかかってくるのではないかと一瞬身構えたが、彼はそのまま一言も口をきかずに部屋を出て行く。
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