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●荒井由実襲撃

 以来、彼はふっつりと古参の前に姿を現さなくなる。
 元々つきまとってくるのを疎ましく思っていた相手なので、古参も、さほど気にはかけない。
 彼が荒井由実のコンサート会場に突入したのは半年も経った頃だ。
 最初、彼は、会場前の広場で目撃されている。集まってきた若者たちに、たった一人で、チラシを配っていたのだ。短く刈り上げた頭に「憂国」と染め抜かれた鉢巻きを巻いて、詰め襟の学生服を着込んだ彼の姿は、いやでも人目を引く。若者たちはその姿に恐れをなし、チラシを差し出されても、なかなか受け取ろうとはしない。まれに受け取る者がいても、そこに書かれた「忠君・愛国」の文字を目にしたとたん、その場に捨てていってしまう。その捨てられたチラシが、風に吹かれて、彼自身の足下で舞い始めている。
 次に彼が目撃されたのは、会場内だ。どうやって券を手に入れたのか、最前列に陣取っていた。両手を膝の上にそろえ、背筋を伸ばして、身じろぎもせずにステージを見つめる彼の姿は、ここでも異彩を放たずにはいられない。警備員たちは、最初の瞬間から、彼を要注意人物としてマークし始める。
「気味悪かった。」
 隣に座りあわせた女性が後に証言している。
「あの格好でしょう。最初は、静かだったんだけど、演奏が進むにつれて、ブツブツ呟き始めるのよね。怖いから見ないようにしてたんだけど、だんだんうるさくなるばかりで、ついに我慢できなくなって、ちらっと見たら、泣いてんのよ。涙が、ぽろぽろこぼれてるんだけど、瞬きもしないで、舞台の上をじっと見つめてんの…」
 彼がついに立ち上がって叫び始めたのは。コンサートが中盤にさしかかろうとする頃だった。
「やめろぉぉぉ、やめるんだぁ!」
 彼は絶叫する。
 そのままステージの上に這い上がろうとするが、舞台の両翼で様子を窺っていた警備員たちが待ってましたとばかりに襲いかかってくる。たわいなく取り押さえられてしまった彼は、必死でもがく。しかし、手足を屈強な男たちにしっかりと押さえ込まれ、殆ど身動きすら出来ない。ことばにならない叫び声をあげるが、そのまま抱え上げられ、為すすべもなく会場の外へと運ばれてゆく。後には、彼が撒こうとしていたらしいチラシが散乱していたが、これも、警備員たちがたちまちのうちに拾い上げて片づけてしまう。すべてはあっという間の出来事だ。演奏はすぐに再開され、コンサートはほぼ定刻で何もなかったように終わった。観客たちが外へ出てきた時には、あたりは静まりかえっており、先ほどまでパトカーが来ていた形跡も見あたらない。彼は、直ちに警察へ突き出されたのだ。
「私どもとしては大変困るんでして。彼女は、感じやすい心を持ったアーティストなんですよ。大変傷つきやすい。こんなことがきっかけとなって今後つきまとわれでもしたら、彼女のアーティスト生命にも関わる大問題だ。そこら辺のところをお含み置きいただきたいんです。」
 警察の前に現れたマネージャーは、苦り切った表情を浮かべた。
「今すぐ告訴することまでは考えてはいません。でも、身元だけははっきりと突き止めて、今後、こんなことを起こさないように、厳重に取り調べていただきたい。」
 マネージャーは「厳重」というところに力を入れて、含みを持たせた。
 そのほのめかしが功を奏したのか、取調室での扱いはかなり乱暴だった。
 熊のような刑事が、彼の頭を両手で掴んで机に叩きつける。彼は、机の上に突っ伏したまま、顔を上げようとはしない。啜り泣いているようだ。
「馬鹿野郎、ヒイヒイ泣いてるくらいなら、最初から突っ張ったことをするんじゃねぇんだよ。」
 熊が忌々しそうに罵る。
 脇で見守っていた初老の刑事が、微笑みを浮かべながら割って入った。
「あんまり手荒にやるんじゃないよ。」
 いわゆる仏役だ。
「どうしてこんなことになっちまったんだろうね。」
 そう言いながら彼が携えていたチラシを手に取ると、顔から離してしかめ面をしながら眺め出す。そろそろ老眼鏡がいる年頃らしい。
「何だか私には分からないよ。山県有朋閣下がどうしたとか、天下国家を憂うとか…どうも難しすぎる。」
「ケッ、何が天下国家だ。親の脛を囓ってるケツの青いガキがほざきあがって。」
 熊がいきり立つ。
「まぁまぁ、そう怒鳴らなくても…。この坊やはこの坊やなりに苦しんでるんだ。私には分かるよ。なぁ、そうだろう?」
 仏が穏やかな口調で、突っ伏したままの彼に話しかける。
 すすり泣きが激しくなる。
 熊と仏はちらりと視線を交わす。
「言ってみな、坊や。いつまでもヒイヒイ泣いてるだけじゃ分かんねぇだろう。俺はよう、忙しいんだよお前。やらなくちゃならない仕事が山積みで、お前みたいな馬鹿にいつまでも関わってる暇はねぇんだよ。」
 熊が、胸ぐらを掴んで、彼を引き起こした。
 涙と鼻水と涎で彼の顔はぐしゃぐしゃだ。
「…負けたんだ。僕は完璧に負けたんだ。」
 ようやくそれだけ言うと、いよいよ激しく号泣し始める。
 二人の刑事はあきれて首を振る。


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