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●黒幕

 数週間後、同じ場所で僕を待ち受けていたのは「黒幕」だ。
「あくまでコードネームですよ、いいですか。」
 柴田が言う。
「本当の黒幕って言うわけでもないんだから。でも、まぁ、この前の『古参』よりは、らしいって言えば、らしいかも知れませんけど…」
 古参と同じ年頃だと思う。けれどこちらの方がずっと若々しい。小柄だががっしりとしている。年の割に豊かで黒々とした頭髪と顎髭が目を引く。目つきが鋭い。その目で、値踏みをするように、僕をじろじろと見つめるのだ。居心地が悪くなる。
「古参に会ったね。」
 耳に心地よい豊かな声だった。けれどその心地よさにどこか不自然さがある。僕はこの類の声を知っている。人を支配し操ることを自分の人生の目標とする人間がいつの間にか身につけてしまう類の声だ。聞く人を暖かく包み込むので、つい、身をゆだねたくなってしまう。そこには奇妙な確信が満ちあふれている。まるで自分が話していることを完全に信じ切っているかのように響く。いったいどうしたらそんな類の確信にたどり着けるのか、僕は不思議でたまらない。それが演技でないのだとしたら、ただの狂気に違いない。
「あれは気の毒な男でね…」
 黒幕はしみじみとした調子で呟く。
「彼が活動に加わった七十年代は、既に凋落期だ。六十年代に高揚した大衆の政治意識も、急激に低下し始める。何しろパイはどんどん大きくなって行く。切り分け方を変えなくても、放っておけば自分の取り分は自然に増える。食うや食わずの線はとっくの昔に乗り越えたし、あとはお気楽なものだ。社会に蔓延し始める小市民的な満足感。ドルショックやオイルショックやら、色々あったさ。けれども、何だか訳の分からないうちに何となく何とかなってしまった。冷戦もベトナム戦争も、識者ぶった奴らがいくら深刻な顔をして見せたところで、所詮は遠い海の向こうの出来事だ。自分たちはこちら側にいて、日々の生活だけを追いかけていればいい。自家用車は当たり前。貧乏人の子供だって大学に行って体よく遊び呆けることも不可能じゃない。結構な事じゃないか。彼らがいくら叫んだって、当然、誰も耳を貸そうとしない。そんな中で焦りを募らせ、運動を先鋭化させればさせるほど、彼らは社会から浮かび上がってゆく。」
 黒幕は軽い溜息をつく。
「よど号事件とか、浅間山荘事件とか、彼は、きっと、そんな類の事件の名前を列挙していたろう? あれはみんな、運動が断末魔の苦しみの中でのたうち回り、自壊してゆく過程に過ぎんよ。センセーショナルな話題を提供しただけで、社会に何ら実質的なインパクトを与えない。自閉した空回りさ。古参はその中に飛び込んでいって、人生を棒に振った。酷いもんだね。彼に比べれば、彼の友達の右翼青年の方がまだましだ。当たらずといえども遠からずのものに突進していったんだからね。」
 僕は口を挟んだ。
「僕の標的は荒井由実じゃなかったんですか?」
 黒幕は口をつぐむ。
 探るような目つきで僕をじっと見つめ、それから決心したように尋ねる。
「もし、荒井由実だったらどうする?」
 僕は肯く。
「いいですよ。やりましょう。」
 黒幕は目を閉じた。
 そのまま時間が過ぎてゆく。
 辺りには静寂だけが漂う。
 ここが都会の真ん中だと言うことが信じられないほど静かだ。
 降り注いでくる午後の陽光がひたすらに眩しい。
「成る程ねぇ…」
 しばらくして感に堪えないと言う口調でつぶやく。
「君こそ、私が求めていた人間だよ。本当に、全くその通りだ。我々が君に出会えたということ自体がまさに奇跡のようなことだな。」
 黒幕は、ここでようやく目を見開いて、僕を見る。
「しかし、残念ながら…」
 そこでことばを切って、少々顔を曇らせる。
「荒井由実の暗殺は三つの点に於いて間違いだ。第一に、荒井由実はもう終わった。今このときを導いているのは決して彼女ではない。とっくの昔に社会は荒井由実的なるものを完全に消化吸収し終わったんだ。もはや、社会そのものが荒井由実的なるものに他ならない。今更彼女一人取り除いたところで何も変わらない。この社会から荒井由実的なるものを排除しようとしたら、ボル・ポト派のように社会を根元からひっくり返してしまわなければならないだろう。荒井由実的なる連中をずらりと並べて、一人ずつ、スコップで頭蓋骨を打ち砕いてみるかね。君一人でやってたら、終わる前に、君の寿命が尽きてしまうだろうな。」
 黒幕は嗤った。
「第二に、それは象徴に対するテロ行為にすぎない。下らない。前時代的なテロの範疇で言えば無人の神社仏閣に火炎瓶を投げ込む類の行為と同等だ。反国家権力を標榜する前時代的なテロの世界では、それが国家の呪術性と反理性的な本質を鋭く告発する行為だということになっていた。口先だけの腰抜けの屁理屈だよ。そんなことをやったって何の実効性も伴わない。ただいたずらに相手側の敵意を煽り立てるだけで、これっぽっちも相手側に打撃を与えることにならないんだ。しかも、これは象徴というものがまだ人々の心の中に存在し、有効であった時代の話だ。今では象徴というもの自体が社会から欠落して、機械的な快楽原則だけが人々を支配してるんだよ。」
 黒幕は鼻を鳴らす。
「第三に、彼女一人を葬ったところで、彼女に代わる人間が必ず出てくる。彼女は時代の巫女だったんだ。彼女がいなくなれば、時代はまた別な人間を巫女に選ぶだろう。」
 黒幕は、そこでことばを切って、立ち上がる。何か考え込むような表情で窓辺まで歩いて行き、しばらく外を眺めている。
「ねぇ、君、本当に罰せられるべきなのは誰なのだろう? 本当に罪を犯しているのは、つまりこの社会を危機に追い込んでいるのは、いったい誰なのだろう? 荒井由実か? それとも、同じように自閉を肯定する別なアーティストか? いやいや彼らは象徴にすぎない。実際に社会の土台を蝕んでいる者たちは他にいる。誰もがそれを知りながら、口に出すことができない。真実はいつも恐ろしすぎる。しかし、彼らを直接の対象にしなくては、テロはその本当の効力を発揮することができない。彼ら自身の血を流す覚悟がないテロなどただの絵空事だ。ああ、分かっている、それが簡単な覚悟じゃないことは十分分かっている。だから、これは奇跡のようなことなんだ、血を流す覚悟がある人間がついに見つかったということは。」
 黒幕は振り返ってじっと僕を見た。
「そう、自覚はないかもしれないが、君はそういう人間なんだよ。委員会は君のパーソナリティーの分析を入念に行ったんだ。君のような人間はなかなかいない。一見固い信念があるように見える人間が、いざ、行動するとなると全く役立たずだったり、かと思うと、一方で、外見は全く正常なのに、実は理由などどうでもいい単なる殺人鬼にすぎない奴がいる。一つの理念を実現するために、正気を保ちながらあえて血を流すことができる人間というのは実に少ない。駒として使えるなら殺人鬼だってかまわないという考え方もあるが、私はそんな考え方はしない。正しいテロは正しい人間によって遂行されてこそ名実ともに正しい行動になる。君なら、Dの襲撃に最適の人間だ。」
「D…?」
「TDLとも呼ばれているな。」
 黒幕は反応を窺うような目つきでじっと僕を見つめる。
 とっさのことによく呑み込めない。
「TDLというと、あの東京ディスニーランドですか…」
「そう、あのTDLだ。それ以外にTDLがあるかね?」


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