兼六園から東南800mのところにあり、 古書「加能老樹名木誌」にも記載されており、昭和56年3月28日、「金沢市保存樹」に指定されています。
藩政時代の前田家家臣・吉川家の庭にあった頃から既に有名で、十三代藩主・前田斉泰(なりやす)は兼六園への移植を希望しました。藩の作事奉行が移植計画立案のため測量を始めましたが、困ったことに、余りにも枝先が長いために沿道の家150軒の移動が必要と分かり、計画も頓挫しました。作事奉行所の窮状を知った年寄り(家老)の奥村秀実(一万七千石)は藩民の犠牲による移植を非として藩主・斉泰(なりやす)に断念を進言しました。斉泰(なりやす)は意外にあっさりと了解し「天下に得難い松であるから、何時までもからすことなく心して手入れを致すべし」として、この松に五人扶持を与えたといいます。このことから、「五人扶持の松」または「知行松」といっています。
この松は、元は盆栽であったといわれています。また「女松」であり幹は3本に分かれています。高さが7m,枝振りは南北が約24mで東西は19mあり、カサの下が約100坪に及びます。
枝ぶりはリズミカルな階層をなし、北陸の風雪に耐えて凛として立つ姿は風雅な中に威厳を備えており、見る者を飽きさせることがありません。
樹齢は約450年といわれています。
なお、この「五人扶持の松」の名声を聞き、鑑賞のため中央から訪れた名士の数も多く、歴代総理の中では、吉田 茂氏、芦田 均氏、岸 信介氏、池田 勇人氏、佐藤 栄作氏、田中 角栄氏、三木 武夫氏、福田 赳夫氏、大平 正芳氏、中曽根 康弘氏が来訪されています。吉田 茂氏、福田 赳夫氏は3〜4回にも及んでいます。特に吉田 茂氏は「移植できるものなら是非とも欲しいが、とても移植できる代物ではないから、断念せざるを得ない」と残念がられたといいます。