本能寺の変の黒幕

 「敵は本能寺にあり」 天正10年(1582)6月2日、丹波亀山城を出て進軍中の1万3千の軍勢に下った軍命である。謀反の首謀者は明智光秀、主君織田信長を本能寺で討ち取り天下取りを夢見た男である。この謀反は光秀単独の考えであったのであろうか。

 この事件最大の謎は光秀がなぜ謀反に走ったかにある。その動機がはっきりしないために、光秀が信長に恨みを抱いていたとする怨恨説、光秀が天下を狙ったとする野望説、あるいは背後で誰かが糸を引いていたとする黒幕説など様々な説が展開されてきた。

 1、徳川家康の共謀説

  信長が討たれた6月2日の朝、堺を火急に出発。岡崎までわずか3日で走破した武将がいた。のちに江戸幕府をひらく徳川家康である。いわゆる「神君伊賀越え」であるがこの行動は腑に落ちない点が多い。当時、信長がほぼ天下を手中に治めていたことから彼が消えてほしいと望んでいる人物は多かった。家康もまたそうであったに違いない。家康は信長とは主従関係でなく盟友であり、東の武田氏を滅ぼしたため同盟の必要もなくなったわけである。しかも息子信康が信長の策略により腹を切らされている恨みがあった。家康が共謀していた可能性は充分ある。

 本能寺の変の3日前、5月28日愛宕山で光秀が連歌の会を催した。その時光秀は連歌師の里村紹巴(じょうは)に次のような句を詠んでいる。

 「時は今、雨が下しる五月かな」

 「時」は光秀の出身である土岐明智氏を指し、「雨が下しる」は「天が下しる」、つまり天下を治めるという意味にとれる。紹巴は家康とも親交が深かったため暗殺の決意を家康に伝えたといわれている。

2、堺の商人が背景にあった?

 作家中津文彦さんの推理は面白い。当時、信長は茶道具に執着していた。当時の三大名器といわれていた茶入のうち「初花(はつはな)」「新田(にった)」を手にいれており残りの「楢柴(ならしば)」を非常に欲しがっていた。しかしそれを持っている今井宗室とは面識がなかったので、是非会いたいというアプローチを2、3度していました。そしてはじめて会える場面を設定されたのが6月1日だったのではと推理されている。そしてこの今井宗室の情報を流したのが堺商人の一勢力としている。

 堺商人は鉄砲の供給で信長を支えてきたが、彼らの重要な労働力だった瀬戸内海の水夫たちは篤い信仰心をもっていました。信長は延暦寺焼き討ちなどをしていたため商人たちは水夫たちから反感をかい始めていました。そのうえ楽市・楽座などの政策は日本経済の大きな部分を牛耳っていた堺衆にとっては自分たちの権限を侵害されたように感じられるものでした。これらが信長を見放す大きな原因となったのではないかと推測されています。

3、黒幕になりえた人物 戦乱割拠の群雄たち

 世が世だけに黒幕と考えられる人物は他にもいます。例えば、信長亡き後権力を握った豊臣秀吉は備中高松城を攻めていましたが本能寺の変のあとすぐに毛利方と手を結び山崎の合戦にて光秀を破っています。このあまりにも迅速な行動には仕掛けがあったのではといわれていたり逆に攻められていた毛利輝元の策略ではともいわれています。他にも室町幕府15代将軍の足利義昭は幕府滅亡に追いやられている恨みがありましたし、次に攻められる四国の長宗我部元親らも考えられます。また戦国大名だけでなく正親町天皇らの朝廷勢力もまた信長を亡きものにしたい人々でした。

 4、あなたのご意見は?

 さぁ、あなたはどう推理されますか?黒幕などいるはずもない、光秀ひとりの考えだ!という方もいるでしょう。事実、光秀は信長にずいぶんひどい目にあわされたようです。人生50年の時代、光秀はすでに50歳を過ぎていましたから最後に天下を夢見たのかもしれません。しかし、本能寺の変のわずか11日後、光秀は農民の竹槍にさされ命を落とすという悲劇でその生涯に幕を閉じることとなりました。

 

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