絶世の美女「小野小町」の正体とは
楊貴妃やクレオパトラなどと並び称される美女としてしられる小野小町。しかし実は、いつどこで生まれ何歳で死んだのか、どういう容貌だったのかなど詳しい事は何一つわかっていません。では、なぜ千年たった今でも美人とされているのでしょうか?彼女はいったいどういう人物だったのでしょうか?
京都山科にある随心院は小町の父とされる小野良真の邸宅の跡だったといわれ、小町が朝晩、化粧に使ったという井戸が残っている。伝説によると、深草の少将という男がここに住む小町を見そめた。小町は深草の少将の思いを受け入れる条件として、自分のもとに100夜通うことを求める。険しい山道を毎晩、通い続け身も心も疲れ果てた深草の少将は、約束の100日目の夜、思いを遂げるのを目前にして倒れこの世を去ったといわれている。能の名作『卒塔婆小町』(そとばこまち)には、小町と深草の少将をめぐるその後の物語が語られている。年老いて、身寄りもなく、各地を放浪する小町にかつて恨みを呑んで死んでいった深草少将の霊がとりついて、小町は狂乱していく。今も深草少将が歩いた道を行くと願い事が成就しないという不成就道というところがあり、伝説は今も根付よく生きています。
小町の伝説は全国的に見ても多く出生地一つとってみても、秋田県雄勝町、福島県小野町、熊本県植木町などがあり、それぞれ小町出生の地であると伝えている。こうした伝説の共通点の一つは、小野小町の父親は、出羽国の国司あるいは郡司の小野良真という人物であったということである。「小町」というのは天皇の妻のうち更衣に与えられた名であったと考えられ、小野小町という名は当時の有力貴族小野氏出身の更衣だったことを示している。このことから9世紀中頃に小野氏から宮仕えし活躍していた「小野吉子」が小町の本名ではないかと推測されています。
花の色は うつりにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに
(花の色つやはあせてしまったようだなぁ。そのように私の容色もすっかり衰えてしまったよ。我が身に起こる悩みにかかわりながらむなしく世をすごし、降り続く長雨をながめ暮らして、物思いに沈んでいるうちに。)
百人一首でもおなじみの小町の歌である。小町の歌は『古今和歌集』にはこの歌をはじめ18首収められているが、その内容は華やかというよりむしろ哀愁じみた悲しい、切ないといった歌が多い。小町があった境遇は絶世の美女とうたわれながらも決して幸せとよべるものではなかったようである。その原因を作家の山村美沙さんは、小町は当時仕えていた仁明天皇に思い焦がれていたためと推測されている。小町は更衣という身分ではありながら天皇の寵愛をそれほど受けていなかったと考えられています。嘉祥3年(850)、仁明天皇は41歳でこの世を去りました。その後、小町は宮仕えを辞し里に戻り、再婚などもしなかったようです。小町の歌には他の男のプロポーズの歌への返答歌もあるのですがどれもやんわりと断っています。
当時の恋愛は自由なものでした。女性も再婚は当たり前で、例えば清少納言も2回結婚し2回離婚しています。そんな時代の中、一人の人を思うが故に再婚もせず、プロポーズも断ったため、高慢というような伝説を生んだのかもしれません。
では、絶世の美女というのも大袈裟なのでしょうか。小野小町の名を最初に出したのは『土佐日記』の作者、紀貫之です。『古今和歌集』の序文の中で、紀貫之は「小野小町はいにしえの衣通姫の流れなり」といっています。衣通姫というのは『日本書紀』允恭天皇の条に登場する5世紀はじめの伝説の女性で、衣服を通して美しさが輝き出るほどであったといわれています。ただ、この「流れ」というのは美人ということを言ったのか、歌風が似てると歌の詠みぶりを言ったのかは疑問の残るところです。
小町は京都市市原の小野寺でこの世を去ったとする伝説が残されています。晩年、諸国を放浪した末にこの地にたどり着き、息をひきとった小町の亡骸は野ざらしになり、その骨は通りがかりの僧源信(浄土教の開祖、『往生要集』の著者)に葬られたといいます。 銀閣寺には「九想の図」の掛け軸が伝えられています。人の死後、肉体が変化していく様子を九つの段階に分けて描いたもので、美しい女性から始まり醜く腐った死体に鳥がついばみ骨になり風にさらされる様子が描かれています。そして、このモデルが小野小町だということです。
さて、いかがだったでしょうか?おそらく不幸な死に方は後生の人々が作ったように私には思われます。しかし、その題材になったのはやはり小町はかなりの美人であったからに違いありません。まぁ、当時の美人と現代の美人の条件は違いますので例え写真があったとしても現代の人が小町を「絶世の美女」とは言わないかも知れませんが・・・・・・。
小町が生きた時代から100年後、10世紀の半ばに編まれた『後撰和歌集』に不思議な歌が一首収められています。
うきことを 忍ぶるあめの 下にして 我が濡れ衣は ほせど乾かず
ありもしない噂をたてられたことを嘆いた歌である。『後撰和歌集』に記されたこの歌の作者は意外な人物「小町が孫」とされています。しかし、小町に孫がいたかどうかを知る手がかりは何もありません。