学問の神様・菅原道真の怨霊
菅原道真と聞いて皆さんは何を連想するでしょうか?おそらくは「天神様」を思い浮かべるのではないでしょうか。京都には北野天満宮があるのでいっそう「天神様」の印象が強いと思います。また「遣唐使廃止」を浮かべる人もいるでしょう。道真は学問の神と崇められるように当時優れた漢詩を多く残した学者で、宇多天皇の側近として政界でも大きな力をもっていました。しかし、藤原氏の陰謀により政界を追いやられ悲運な運命をたどることとなります。
1、一流の学者、天才道真
道真の祖父、清公(きよとも)は遣唐使のひとりとして唐に渡り、帰国後は文章博士(もんじょうはかせ。今でいう学校で詩文・歴史を教授した教官)となった学者でした。道真の父、是善(これよし)も文章博士となり数多くの書物の編纂にたずさわっています。このような学者の家に生まれた道真は幼い頃から詩歌に親しみ、その文学的才能を発揮する一方、26歳の若さで方略式という試験に合格しています。この試験は中国の古典に関する知識を問われるもので史上65人にか合格者の出ていない超難関でした。また、漢詩の才能は中国から来た使節(渤海使)を驚嘆させるほどだったといいます。道真は門下生100人を超える私塾を擁し『類聚国史』の編集を手がけるなど当代一流の学者として世に知られるようになりました。
2、宇多天皇の信頼、藤原氏の妬み
当時、政界に君臨していた勢力は藤原氏でした。その藤原基経に推されて即位したのが宇多天皇でした。宇多天皇は当時の天皇としては珍しく摂関藤原氏と外戚関係がありませんでした。宇多天皇は藤原氏に牛耳られていた政治勢力を取り戻し、天皇親政を企て、そのための切り札として菅原道真を起用することになりました。仁和2年(886)、道真は文章博士などの官職を奪われ、讃岐守として四国に赴いていましたが4年後、任期を終え都に帰ってきました。そして、宇多天皇の信任もあり参議に昇進し、朝廷の中枢メンバーに関与してきました。参議とは大臣・大中納言に次ぐ要職で太政官の公卿会議構成メンバーでした。当時の公卿会議のメンバーは14人でうち7人が藤原氏、6人が源氏で菅原氏は道真一人でした。しかし、公卿は高齢者が多く将来的に道真が高い地位に上っていくことは容易に想像できる状況だったので、他氏排斥を狙う藤原氏にとって道真は邪魔な存在だったわけです。
3、遣唐大使任命と廃止
道真が遣唐大使に任命されたのは、参議に任命された翌年の寛平6年(894)8月21日、前回の遣唐使派遣から約60年ぶりのことでした。国の全権を担って旅立つ遣唐使は無事帰国すれば将来の出世が約束されたも同然というたいへん名誉なものでしたが、実際に唐を目指したおよそ3700人のうち無事生還できたのは半分以下の1700人で非常に危険な旅でした。しかも当時の唐は衰退していましたし、ここにきて遣唐使を復活させようとしたのは道真を片付けてしまおうとする藤原氏の画策でした。
大使任命の3週間後、道真は遣唐使の派遣を見直すよう宇多天皇に上奏しています。その内容は遭難・海賊の遭遇などによる航海の危険性、唐の国力衰退を訴え、そのため危険をおかしてまで派遣する価値はないと結論づけている。これによりおよそ260年間続いた遣唐使は廃止と決定した。
4、道真左遷
寛平9年(897)、宇多天皇は醍醐天皇に位を譲った。二年後、宇多上皇は出家して政治の第一線からさらに遠ざかった。こうした環境のなかでも道真の昇進はさらに続き、藤原時平と熾烈な昇進争いを演じる。上皇出家の年に右大臣・左大臣にそれぞれ昇進した二人は、二年後の正月7日にそろって従二位にのぼり、政界のトップに踊り出た。しかし、その道真に突然の人事異動が発令された。行く先は九州大宰府。従二位にのぼってからわずか18日後のことであった。平安時代の史書『政治要略』は「道真はにわかに大臣にまで取り立てられたのに分をわきまえず、さらに高い地位を望んでいる。しかも専権の心あり。道真は醍醐天皇に代わる天皇を立てようと企んでいた。」と記している。宇多法皇は道真左遷の決定を5日後に聞き抗議のため内裏にかけつけたが門は固く閉ざされ中に入る事すらできなかった。法皇は一日中座り込んで抗議の意思を表したがついに門は開かず、やむなく内裏をあとにしたという。言うまでもなく藤原氏の策略であった。左遷決定から一週間後、道真は九州と出発させられる。
東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな
庭に咲く梅の花に別れを告げると、道真は旅支度を充分に整える間もなく都を離れ、九州大宰府へと赴いた。昌泰4年(901)2月1日、道真57歳のときであった。九州では幽閉同様の状態におかれ、うちひしがれた生活を送る。眠れぬ夜が続き、胃をこわし、皮膚病にも悩まされたという。それでも道真は最後まで天皇への忠誠を漢詩に託している。しかしその思いは都に届くことなく大宰府に来て二年後59歳で生涯を閉じる事となった。
道真は死の直前、大宰府からほど近い天拝山の頂上で七日七晩祈り続け、みずからの無実を訴えたといわれている。その時、天から道真に「天満大自在天神」の称号が与えられ道真は天を司る神、天神に姿を変えたという。天神伝説の始まりである。
道真の死後、京都ではかんばつや飢饉が続き、次々と異変が起こる。権勢を一身に集めていた藤原時平は39歳の若さで死亡し、延長8年(930)には内裏上空に暗雲がたちこめ、清涼殿に落雷、大納言藤原清貫(きよつら)はこの落雷により即死した。この直後、醍醐天皇が急死したこともあり、人々は怨霊となった道真のたたりと恐れおののいた。藤原氏はひたすら怨霊退散を願い、太政大臣の位を道真に贈り、京都北野の地に壮大な天満宮が創建され、天徳3年(959)には右大臣藤原師輔(もろすけ)が壮大な神殿を増設した。のちの天神信仰の基礎はこの時代に藤原氏によって築かれたのである。
藤原氏によって不幸な最後を遂げた道真が、その藤原氏によって神になったというのは皮肉な結果に思われます。宇多天皇により政界の渦に入ることとなりましたが道真は学者としての道を歩みたかったように私には思えてなりません。都に暗雲をもたらした怨霊はやがて救いの神へと姿を変え、今日まで学問の神様、受験の神様と人々に親しまれるようになりました。現在、天神様を祀る社は全国に1万2000を数えるといいます。