10、雅な国風文化(建築編)
さて、今回は建築編ということで主に平安時代に建てられた寺の事について書こうと思うのですが、当然仏教が大きく関わっていますので当時の仏教の話をしながら寺をいくつか紹介しようと思います。
794年、平安京として都ができたわけですが、以前にもお話したように都の入り口に王城鎮護の役割を果たすため東寺と西寺が造られました。
| 東寺・・・教王護国寺。796年、平安遷都ともに羅城門の東に建てられ、825年、空海が当寺を賜った。真言宗の本拠として隆盛し、弘福寺・珍皇寺・金剛寺など多数の末寺を擁するに至った。
西寺・・・東寺と対をなし羅城門の西に建てられ、のちに守敏に賜った。東寺とは逆に990年焼失し、その後も復興することなく廃絶した。 |
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| ↑つつじ咲く頃の東寺(五重の塔) |
| 珍皇寺・・・六道珍皇寺。空海の師慶俊が創建したという説あり。草創は平安時代以前であり、早くから東寺に属した。中世兵乱により荒廃したが後に再興、以来臨済宗に属した。この一帯は現世とあの世(六道)の境界の地といわれ8月9、10日に精霊迎えの鐘をつく参詣の人で賑わう(六道参り)。境内には生きながら地獄の冥官となった小野篁が祭られている。 |
密教伝来・・・この時代は中国から新たに密教が伝わりました。804年、最澄と空海は同じ遣唐使船に乗って中国に渡り、翌年最澄が、翌々年には空海が帰ってきて最澄が天台宗を空海が真言宗を開きます。天台宗は比叡山延暦寺を真言宗は高野山金剛峯寺と東寺を拠点として広がっていきました。
| 空海・・・真言宗開祖。書道家としても有名で橘逸勢・嵯峨天皇と並ぶ「三筆」の一人。最澄に最初に出した手紙『風信帖』は有名。ちなみに唐風の「三筆」に対し、和風の「三蹟」は小野道風・藤原佐理・藤原行成。 |
浄土教・・・10世紀に入ると浄土教が流行し始めます。浄土教は阿弥陀と念仏を中心とする教えで10世紀中頃に空也がはじめました。どうして浄土教が流行したかというと天台・真言といった密教ではもう救われないという思いが人々の中に生まれ始めたからでした。また「末法思想」という考え(釈迦の死2000年後に国家も仏も滅びるという考え)が拍車をかけました。
| 六波羅蜜寺・・・963年、空也が鴨川の東に堂宇を建立、疫病流行の平癒を願って造立した十一面観音像を安置して西光寺と号したのが起源。空也の死後、彼の弟子によって現寺号に改められた。後に荒廃したが豊臣政権の時に修復され(この頃真言宗に転じた)ている。念仏を唱える口から6体の小仏が出ている空也上人像は著名である。西国17番の札所として信仰されている。 | ![]() |
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| ↑六波羅蜜寺 | ↑平等院夜景 | ↑平等院鳳凰 |
平等院・・・日本で末法に入ったといわれる1052年に宇治関白藤原頼通が寝殿を改めて本堂とし、大日如来を東向きに安置した。翌年阿弥陀堂(鳳凰堂)が完成。中堂に安置されている阿弥陀仏は仏師定朝の作品であり、鳳凰堂と共に浄土教信仰の中、地上の極楽として人々の注目を集め、「極楽いぶかしくば、宇治の御寺をいやまへ」という諺を生むにいたった。
| 寝殿造り・・・10世紀の中頃に完成した貴族住宅の様式。室内には、ほとんど壁がなく、今でいうカーテンや屏風などで仕切りをしていました。夏は涼しく快適でしたが、冬は寒く、住人は重ね着をきていました。詳しく説明しますと専門的な話になりますのでここでは省略しておきます。代表的な建物は京都御所や広島の厳島神社など数多くあります。 |
六角堂と革堂の話
1004年、行円が千手観音像を本尊として建立し、寺額を三蹟の一人藤原行成が書いたのが寺町通竹屋町辺りにある天台宗の寺院「革堂」。行円は常に鹿皮を身につけ皮聖と呼ばれていたことから、この堂も革堂と称された。同じく烏丸六角にある天台宗の寺院「六角堂」。平安中期の創建で鎌倉初期には浄土真宗の開祖親鸞もこの堂に篭った。室町時代になって当寺の執行がいけ花をはじめ、これが華道池坊の祖となった。代々の家元が当寺の住職を兼務するのはこれによる。
この二つの堂は中世、上京では革堂、下京では「六角堂」が町組織の中心となり、ことあることに町衆が集まった。六波羅蜜寺と共に西国三十三箇所の札所となっている。
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| ↑革堂 | ↑六角堂 |
| 六角堂御詠歌・・・わが思ふ 心のうちは 六の角 ただ円かれと 祈るなりけり <御詠歌略註> 六の角とは六欲といって人間に6つの欲があって心に罪を造るという。六欲とは惜しい、欲しい、可哀い、憎い、喜しい、怒(はらたつ)である。六角堂によせて六の角と詠み、唯円(まる)かれと祈るとは、六角堂の観世音菩薩を念じて何卒六欲の迷いの起こらぬように角なく、只円く素直なる心になって人と争わず、現世安穏未来成仏させ給えと祈るとの歌である。 |
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京都の中心「へそ石」 本堂の敷石中央には、へそ石と呼ばれる中央に穴のあいた石がある。延暦13年(794)の平安京造営の際、六角堂が道のまん中になるため、六角堂は北に16mほど動いた。このため、このへそ石が残ったという。古くから、この石が京の都の中心とされていた。 |
八幡信仰「岩清水八幡宮」
岩清水八幡宮・・・京都府綴喜郡男山に鎮座する神社で、859年に僧行教が宇佐八幡宮を勧請し、翌年社殿を造営したのに始まる。後に八幡神が源氏の氏神となり、その後は八幡信仰として武家の間に広まった。源義家が「八幡太郎」と称したのは当社で元服してことによる。今日でも行われている岩清水祭は、賀茂祭を北祭というのに対し、南祭という。現在の社殿は3代将軍徳川家光の造営によるものである。
院政期文化「六勝寺」
六勝寺・・・京都岡崎辺りに建立された御願寺の総称。六寺とも現存しないものの、建立により白河一帯が急速な発展を遂げる重要な役割を果たした。
法勝寺・・・白河天皇の御願寺、六勝寺のはじめ。1075年に造立。後に全焼し、廃墟となる。
尊勝寺・・・堀川天皇の御願寺。鴨東にあった。1100造営が開始。後に廃絶。
最勝寺・・・鳥羽天皇の御願寺。法勝寺と尊勝寺の間にあった。1118年頃造立。
円勝寺・・・鳥羽天皇の皇后、待賢門院の御願寺。実質的には白河上皇によって造営。
成勝寺・・・崇徳天皇の御願寺。
延勝寺・・・近衛天皇の御願寺。1146年に造営。のち平忠盛により九体阿弥陀堂が造られている。