2、「朱雀・九条・京極」通りと「右京・左京」の由来
朱雀(すざく)大路
前章でもお話したように平安京の中心に幅85mの「朱雀大路」が置かれました。そして朱雀大路の北の端、つまり大内裏(宮廷)の入り口に朱雀門が置かれ、南の端、つまり平城京の入り口に羅城門が置かれました。大内裏の南に置かれた門なので四神に相応さして「朱雀」の名が付けられたのです。朱雀大路は今の千本通りにあたり朱雀門の位置は今の千本丸太町(ここが風水説で一番気の集まる場所と言われる)にあたります。もっとも朱雀大路の本来の位置はもう少し西ですので千本通りとは一致しません。
京極(きょうごく)大路
平安京の東の端を「東京極大路」、西の端を「西京極大路」と呼びます。現在、「京極」と言えば京都の繁華街を指しますが、おおよそこの辺りを「東京極大路」が通っていました。朱雀大路を対称に「西京極大路」があるのですがこちらは「京都パープルサンガ」のホームグラウンド「西京極競技場」に使われているように今も名を残しています。では北極と南極は?と言いますと現在は他に名を変えていますがしっかりと存在しています。
一条大路・九条大路
平安京の北の端を「一条大路」、南の端を「九条大路」と呼びます。この「一条大路」が「北極大路」、「九条大路」が「南極大路」にあたります。九条大路は東寺境内の南端を東西にはしる通りですが、この九条大路と朱雀大路が交ざるところが平安京の入り口で「羅城門」が置かれました。そして王城鎮護もためここに「兜跋(とばつ)毘沙門天」が安置されたのです。あとで詳しく話しますが、この羅城門周辺は都への入り口であったにもかかわらず農村化し、藍・瓜・ねぎ・なすなどの農作物を名産とするようになりました。今も「九条ねぎ」などと名を残しています。

右京・左京
かくして一条・九条・東京極・西京極の4つの大路に囲まれた平安京ができあがりました。その規模は東西4570m、南北5310mと記録されています(『延喜式』による)。そして朱雀大路の東側を東京(左京)、西側を西京(右京)と呼びました。この平安京はこれより大いに栄えるはずだったのですが、実はそうはなりませんでした。というのも、右京は湿地帯であったため栄えることができず遷都(794)よりわずか数十年後には荒廃してしまったのです。貞観4年(862)の太政官符によれば「昼は馬や牛がのさばっており、夜は盗賊の巣となっている」と記録されています。9世紀初頭、中国の都にかけ右京を「長安城」と左京を「洛陽城」と人々は呼んでいました。しかし、右京荒廃により「長安城」は消滅、左京の「洛陽城」のみが名を残すこととなりました。後に京といえば「洛陽」となり、都の内を「洛中」、外を「洛外」、京にくることを「上洛」と言うようになったのです。
右京荒廃に続き、天元3年(980)暴風雨により羅城門は転倒しさらに王城鎮護の意味をなくしました。これによりこの辺りも農村化していきます。芥川龍之介の『羅生門』(「羅城門」でないことに注意)は平安時代末期の荒廃した羅城門をモデルに書かれています。
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