4、上京・中京・下京の起こり
平安京は朱雀大路を中心に東側を東京(左京)、西側を西京(右京)というふうに左右対称に作られていたから平安時代初期には「上・下」という捉え方はまだ行われていなかったらしい。平安京のころには、今日いう上京の辺りは「北の辺(きたのべ)」などと呼ばれていました。それでは、いつ上京・下京は起こったのでしょうか。
京都でおじいさんやおばあさんの世代のあいだにはこんな会話が聞く事ができます。「どこか行かはるんですか。」、「はい、ちょっと上に」。この「上に」に見られるように何故か京都は「上」と「下」に分けられることがある。つまりそれほど上と下の観念が強いわけであるが、この「上」とはおよそ今の上京区あたりを指し、「下」とは下京区あたりを指して言っているようである。例えば右京区あたりに行くのに「はい、ちょっと右に」とは言わないから上・下は特別なことがわかる。
応仁の乱
足利幕府の八代将軍義政の後継者争いにより、応仁元年(1467)に応仁の乱が起こる。東軍16万騎の総大将は細川勝元、西軍11万騎は山名宋全を総大将とし、これより11年にわたる戦乱の世を迎えることとなる。この戦いにより、京都の町はそのほとんどが焼き尽くされ、相次ぐ狼藉に荒廃を極めた。
乱後、京の町を復興さすわけであるが、その中心となったのが町衆(ちょうしゅう)とよばれる一般民衆であった。(それまでの時代に都や大きな町を造ってきたのは、必ず天皇や時の権力者で一般民衆が町を造るなんて力は到底なかった。)のちに京都が民衆による自治地域となるのは、この町衆の力である。
ちなみにこの山名宋全の西軍本陣が置かれたのが、西陣織で有名な京都上京区の西陣である。
上京・下京・中京
この復興のもと、北は上立売室町、南は四条新町を中心に2つの大集落が形成されていった。しだいと集落を形成する者の傾向がみられはじめるようになり、上は主に公家・武家・豪商が集まり、下は商人や工人が集まるようになった。江戸時代に入ると二条通りを境に北を「上京」、南を「下京」と呼ぶようになる。これが区画の最初となるわけだが、明治・大正はこの上京と下京しかなくそれ以外の区は昭和になって制定されたものである。(右京・左京は区画ではない。右京区・左京区などができたのも昭和に入ってから。)丸太町以南、四条通以北をもって中京としたのは昭和4年であるから歴史的にはまだ浅い。
町の形成
今住所には「上京区〜町」とつくことが多いがこの「町(ちょう)」というものが作られたのも応仁の乱後の復興の中でのことである。いくつかの家が何軒か集まって形成されたものが「町(ちょう)」であり、この町がいくつも集まって「町(まち)」を形成する。例えば、河原町・木屋町・丸太町などはいくつかの「ちょう」が集まってできたものである。この「町(ちょう)」の結束力はすさまじく町同士で喧嘩があったり、また一揆がおきた時も協力して防いだわけであるからその組織力は今とは比べ物にならないくらい強いものだったのであろう。当時、法華宗などが一揆を起こしていたため10〜20ほどの町が団結して「町組(ちょうぐみ)」をつくり戦に備えた。「立売組(たちうりぐみ)」や「一条組」と呼ばれるもので普段は商業などの面で結束していた。「下立売」や「上立売」は今でも商店街として残っている。
この頃「地口銭(どのくちせん)」「矢銭(やせん)」と言われる今の町費にあたるものも支払う義務もでてきた。余談だがそれぞれの家の屋根に火事を防ぐために防火壁を作ったのだがそれを「うだつ」と言い、今でも「うだつのあがらない」などの諺に使われている。
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