5、祇園祭

 今ちょうど7月ということで『祇園祭』です。7月の一ヶ月間催されるのですが、やはり一番賑わうのが14日〜16日の宵々々山〜宵山にかけてでこの3日間に京都のカップルはほとんどここに集結してるのではというくらい恋人同士だらけになります。それに加えて観光客や地元の人やらでごったがえし、とても落ち着いて見てまわるなんていうような日ではありません。筆者は人ごみが苦手なのでこういう日に行く気にはあまりなれません。でもこんなに集まるのはさすがにすごい祭りだと思います。
 さてそんな前置きはこのくらいにして本題に入りたいのですが、祇園祭というのは歴史もあり、ゆうに一冊の本ができあがるくらいですから、この稿での話はかなり要約されたものになっています。

歴史

 現在の祇園祭の原型がほぼできあがるのは室町時代で、その前身は祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれる国家的祭礼でした。平安時代、京では疫病が流行しました。そもそも京都という土地は川が多く流れ、しかも北が高く南が低い地形になっていますので、梅雨時に雨が降ると洪水となりやすく、しかも湿気がたまりやすい。すると当然食べ物は腐り、疫病も発生するわけです。この疫病の原因は当時2つ考えられていました。一つは政争で非業の死をとげた親王や公家たちの怨霊のたたりだと考えられました。これは主に公家などの支配者層の考えです。二つ目は庶民たちの考えで疫神という悪い神がまき散らしているのだとしました。この疫神が蔓延したときは疫神たちを一箇所に集めて送ったり、流したり、焼いたりすればよいと考えられていました。疫神は賑やかな物を好むので美しく飾り立てた物や賑やかな囃子に浮かれやすいと考えられてため、山や鉾を飾り立てたのです。
 貞観11年(869)に66本(当時の国の数が66だったからそれにちなんだ)の鉾をつくり祇園社から
神泉苑(しんせんえん)に行列をしたのが祇園御霊会のはじまりと言われています。疫神を神泉苑の池に流すのが目的だったわけです。今でも巡行が終わりそれぞれの町に帰った後すぐに山や鉾を壊してしまうのは疫神が山や鉾に残っていると考えられているからです。
 現在も祇園祭の時は雨の日が多いです。こういった歴史から始まった祭りですので雨が多いのは当たり前の事なのです。(観光客の事を考えれば月を替えればいいのですが、歴史的背景があるためにかわることはおそらくないでしょう。)

祇園祭は八坂神社の祭礼なのに山鉾巡行コースに八坂神社は何故入らないのか?

 平安時代より行列は神社側が繰り出す神輿を中心とした行列とは別に八坂神社の信仰者の集団である朝廷や貴族が奉納する行列がありました。(現在の山鉾巡行はこちらの系譜をひくもの)やがて武士の世となると貴族たちは経済力がなくなり、逆に富を得てきた民衆(前章参照)の手に引き継がれるようになりました。民衆はあくまで疫病退散が目的ですので八坂神社を通る必要がないわけです。つまりこの頃から神社側の祭礼と町衆が行う民族的な思いが強い山鉾巡行とは分離してきたのです。
 『祇園執行日記』という有名な資料があり、この中の天文2年(1533)6月7日の条に「神事これなくとも山鉾渡したし」とあります。八坂神社の神事が中止になっても下京町衆の山鉾は出したい、と言っているのです。いわば神社や政府からの独立を宣言し、自治を主張したわけです。

山鉾・・・・山鉾の地図を載せておきました。見たい方はこちらをクリック⇒ 山鉾地図

長刀鉾 南観音山 北観音山

 山鉾は南北朝(1340年頃)できました。応仁の乱以前は50基余の山鉾がありましたが、応仁の乱より三十数年間は京都は廃墟となっていたため山鉾は出せませんでした。明応9年(1500)復興され、それ以後、鉾や山を出す町が決まります。鉾を出す町というのはかなりの経済力のある町でした。江戸時代には40ほどまで復活したのですが天明の大火でまた焼けてしまいます。このときは一番に「長刀(なぎなた)鉾」が復興されました。一番に復興されたので現在巡行の時は先頭になっています。南・北観音山を出す新町通りは江戸時代、三井や松坂屋という大きな商家があり経済力があったのですが、室町時代に「山を曳く町」と決まっていれば鉾には替えられないというきまりがあったので、そのため山でありながら鉾に近いものにしたのです。この南・北観音山と岩戸山の3つがそれにあたります。現在もその考えは継承されていますので鉾にかわることはありません。大火以後、順調に復興され現在は32ヵ町が出しています。
 鉾は本来女性を乗せてはならない、とされていました。理由は不明です。現在は乗せる鉾もあるのですが全てではありません。

鉾と山の違い

 鉾は天井から空に向かい「真木」が立っています(30m近いものもある)。山は人形飾りの上に「真松」が立っています。「太子山」は松のかわりに杉、「浄妙山」は柳、「蟷螂山」は榊2本、「橋弁慶」には木はありません。

ちまき

 本来は食べるものではなく一年間軒先にかけておくものです。「蘇民将来之子孫也」(蘇民将来=スサノオノミコトを助けた人物)と書いた札がないと効果がない。現在は書いてないものが多くある。

縄かけ

 釘を使わず縄で山鉾を組み立てていく方法。現在は縄の結び方が伝わりにくいため知らない人が多い。

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もう少し詳しく祇園祭を知りたい方はこちら↓をどうぞ。
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