7、五山の送り火
前回は右大文字の解説をしましたので、今回は残り4山の説明をします。
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松ヶ崎妙法送り火(左京区松ヶ崎) 鎌倉時代、ここに叡山三千坊の一つ、歓喜寺があった。永仁2年(1294)、日蓮の孫弟子で名僧の誉れ高い日像上人が同寺を訪れ、法華の説法をしたところ、住職の実眼和尚を先頭に全村民が日蓮宗に帰依したのである。送り火に「妙法」と南無妙法蓮華経のお題目の字が点火される由縁である。このことにより、寺名も「妙泉寺」と変更された。名物の題目踊の行われる涌泉寺は、大正年間に、この妙泉寺と近くの本涌寺が合併したものである。 起源・・・『洛陽名所集』(1658年刊)に記録されていることより江戸初期あたりか? 伝承・・・日像が丘陵の西山に「妙」の字を画し、末寺の下鴨大明寺の日良が東山に「法」をつくって、送り火が始まったという。 題目踊・・・8月15、16両日の夜、涌泉寺境内で行われる。この踊りは全村民が日蓮宗に改宗し、法華題目を唱え、喜びのあまり小躍りしてまわった状態から発生したと言われ、承応年間(1652〜55)には後水尾上皇が観覧に行幸あったと伝え、松ヶ崎小学校内には記念の「御幸(みゆき)の松」が残っている。近松門左衛門も伝奇小説『花洛受法記』でこの題目踊の場面を登場させている。『山城四季物語』では頭上に灯篭をいただく「灯篭踊」もあったようだが現存していない。 踊りは太鼓を打ち、円陣をつくり女は内側を右へ、男は外側を左へとお題目を唱えながらうちわを持ってまわる。 |
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船形万燈篭送り火(北区西賀茂) 伝承・・・西方寺の開祖、慈覚大師円仁が唐に留学し、帰途、再三再四、暴風雨にあったが念仏の功徳により無事帰国できた。これにより船形の送り火が始まったと伝えられる。送り火終了後この寺にて六斎念仏が行われる。 この船のへさきは西方浄土を指しているといわれている。 六斎念仏・・・お彼岸やお盆に鉦(かね)と太鼓ではやしたてながら節をつけて唱える踊り念仏をいう。動作は緩慢でショー的要素には少し乏しい。 |
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左大文字送り火(北区大北山) 起源・・・『山城四季物語』に記載があることより、やはり江戸初期あたりか? 『大』の字の説明は前章を参照。右大文字が裏返しになったのが左大文字、だから向かって左の流れが長いとされる。が、その名称がついたのはおそらく御所から見て左にあるのでその名が付いたと思われる。右大文字の近くには「銀閣寺」、左大文字の近くには「金閣寺」が存在するのも面白い。 |
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鳥居形松明送り火(右京区鳥居本) 起源・伝承ともに不詳だが、近くに化野(あだしの)とよばれる、古くは都の三大葬送地があったのと、火の神を祭る愛宕神社の影響下の地でもあることより、農民の火に対する宗教的関心は強かったと考えられ送り火を始めるには容易な風土であったと思われる。当時は神仏習合は当たり前であったので仏教的行事に鳥居を持ってきてもさほど不思議はない。 地元の地名は鳥居本であり、送り火の鳥居にその名が由来すると考える向きも多い。この地は火の神を祭っている愛宕山登り口の清滝への途次にあり、愛宕神社参道であることを示す一の鳥居が立っているので鳥居本と呼ばれるようになった。 |
| 失われた送り火 文献にはみえるが今はなき送り火を少し紹介します。 左京区市原(鞍馬街道の途中)・・・『い』の字。明治に廃絶。 鳴滝・・・『一』の字。 一乗寺(不明)・・・『竿に鈴』。おそらくは大正時代あたりに点火されていた。長田幹彦(祇園小唄の作詞家)の短編小説『送り火』の中に「・・・もう竹に鈴も皆ともったそうにおっせ」というくだりがある。 |
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この章を執筆しているのが7月28日ですのであと2週間ほどで送り火です。市内であれば見れますが五山が京都の北に全て位置していますので中京区以北あたりから見るのがよいのではないでしょうか。また鳥居は唯一市内からみることができません(ビルなどに登れば別ですが)。
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