8、平安時代の政治

 さて、しばらくぶりの掲載になりました。今回は「平安時代の政治」をテーマに進めたいと思います。あまり掘り下げて話すと受験勉強のようになってしまうので軽く流れを話し、次回の「文化」につなげようと思います。

1、桓武天皇の治世(在位781〜806)

 この桓武天皇の政治はいってみれば儒教的で農民の負担を軽減する事で体制の安定化を図った政治でした。805年に桓武天皇は藤原緒嗣(おつぐ)菅原真道(まみち)を呼んで、どうしたらいい政治がとれるかということを論議させています。それにより農民への負担軽減と軍事の強化を図っています。例えば、大化の改新の時より良民と賎民の通婚は認められていませんでしたが、それを認可しました。あと出挙(すいこ)という春に種もみを貸し付けて秋に利息とともに返済する制度があったのですが、その利息を5割から3割に軽減しています。あと雑徭(ぞうよう)という60日以内の労役が課せられていたのですが、それを30日に短縮しています。軍事面では健児制を設けて、今まで強制的だった兵役を郡司の子弟の中で弓馬に巧みな者、武術に優れた者を有志的に募りました。これにより兵士の質も向上し、農民の負担も軽減されたわけです。そして、東北経営を目的に坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、軍隊を向けています。(811年文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)という人物が東北地方を平定し、それ以後穏やかになります。)

2、嵯峨天皇の治世(在位809〜823)

 桓武天皇のあと息子の平城(へいぜい)天皇が即位しますが、まもなく病気のためその弟の嵯峨天皇が即位します。嵯峨天皇は橘逸勢と空海と並ぶ能筆家で三筆の一人です。彼は京都の治安・警察のために検非違使(けびいし)を設けました。これにより今まで警察機能を担っていた組織が一本化されたわけです。この天皇はその他今までになかった官職(令外官)を設けることに力を入れています。

3、遣唐使廃止

 894年、宇多天皇の治世において今まで交流の深かった唐へ使いを出す事をやめました。これにより平安時代独特の文化「国風文化」の発展につながることとなります。(遣唐使廃止については「特集1 京都の歴史・5、神になった右大臣菅原道真」参照)

4、摂関政治

摂関政治とは摂政、関白が政治を行うことです。この当時は藤原氏(北家)の独占で藤原道長・頼通の時(1030年の前後あたり、約60年間)が全盛期でした。彼らにより建てられた寺はその栄華さを物語るものも多く法成寺(火事で焼失)や宇治の平等院鳳凰堂などが有名です。

平等院鳳凰堂

5、武士の台頭

 権力を一手に担い華やかな生活をしだす施政者がでるとおのずと地方は乱れだしそれにより自分を守るために武装化していく者が増えます。彼らが集団化したものが武士団で当時桓武天皇を祖とする桓武平氏、清和天皇を祖とする清和源氏でニ大棟梁と呼ばれていました。これらの武士団が成長するにつれ朝廷は諸国の治安を維持するため彼らを雇うわけです。これにより武士が政治に介入するきっかけができたわけです。

6、院政

 まず「院」とは何かということですが、上皇や法皇の御所を院といいます。そして、上皇がとった政治と言う意味で院政というふうに呼んでいるのです。
 
白河上皇・・・神仏の加護を願うため熊野・高野に参詣を繰り返した上皇です。また同じ理由から六勝寺の一つ法勝寺を作っています。思いのままの政治をしましたが、次の3つだけは自分の意のままにならないと嘆いたそうです。@鴨川の水A双六のサイB山法師の3つで「天下三不如意」といいます。@は当時氾濫が多く、疫病の原因にもなっていました。Aは平安京に博打が流行していたことを示すもので社会の秩序を乱す心配があったのでしょう。Bは延暦寺の僧兵のことで(古文常識・・・山といえば延暦寺、比叡山をしめす。川といえば鴨川、寺といえば三井寺を指す。)
 院を守るために選ばれたのが摂関家に不満をもった人々で
平正盛を棟梁とする平氏でした。

 鳥羽上皇・・・この頃、清盛の父、平忠盛が重用されます。忠盛は中国の宋との貿易で利益をあげました。彼の死後、朝廷と上皇側(院側)の争いである保元の乱(1156)がおきます。その3年後の1159年、源平の戦いである平治の乱がおき、これに勝利した平清盛が絶大な力を得ることになります。「平氏でなければ人でない」といわれた治世の始まりです。

平清盛が音戸の瀬戸を一日で切り開くために、 沈む夕日を扇で招き上げたと言う伝説に因んだ像。
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