新選組、その志

 幕末―。今から150年ほど前、関が原の合戦以降続いた徳川幕府は今まさに滅びようとしていた。そのため京都は倒幕派と佐幕派の血なまぐさい争いの場であった。そんな京都の治安を守るべく幕府の警備部隊として組織されたのが新選組である。

 歴史において時代を変えた者というのは脚光を浴びますが、逆に守ろうとした者は後世において評価されにくいものです。幕末においては、竜馬・高杉・西郷といったビッグネームは全て倒幕派です。竜馬にスポットをあてて当時を描いた時、新選組は京都で「勤皇の志士」たちを殺す単なる殺人集団にとらわれがちです。しかし、彼らもまた幕府を守ろうとする志士であり、日本を愛する気持ちになんらかわりはありませんでした。

新選組結成

 文久3年(1863)、徳川幕府は江戸近郊の浪士を集め「浪士組」を結成、「将軍の上洛の警護」を名目として京都に送り込ませた。京都はその頃、攘夷(外国を日本から打ち払えと主張する思想)を叫ぶ浪士が集まった反幕府勢力の一大拠点となっており、市中では暗殺が繰り返されていた。つまり幕府のねらいは「江戸の浪士を利用して京都の浪士を制圧する」ことにあったと思われる。結局、浪士組はすぐに江戸に戻ることになるのだが、近藤勇、土方歳三らは京都の混乱を見て京都残留を決意する。彼らは京都守護職・松平容保(かたもり)に京都の治安維持を命じられ、やがて新選組を名乗ることになる。

↑松平容保

市中見回り、その名をとどろかれた池田屋事件

 かくして新選組は市中見回りという仕事をすることになる。元治3年(1864)には「新選組」の名をいちやく有名にする池田屋事件を起こす。京都三条の旅籠池田屋に集まっていた長州・土佐の尊皇攘夷派の志士たちを新選組が襲撃した事件である。これにより京都に潜伏中のおもだった尊王攘夷派の志士たちは一網打尽にされた(7人死亡、20余名が逮捕、包囲していた諸藩兵がその他に10数名を殺害または逮捕)。「明治維新が一年遅れることになった」といわれる事件であり、それだけにのちに明治政府成立後は藩閥高官から新選組は目のかたきにされることとなる。わずか30名程で斬り込んだ新撰組と尊攘派志士の激闘は約2時間にも及んだが、新選組の方の被害は死者1名、重傷者2名で大したことがなく、かえって包囲していた諸藩兵に10人近い死者が出たらしい。

新選組は暗殺部隊だったのか?

 暗殺者集団のイメージが強い新選組だが、隊士の回顧録や手記を資料に調べれば、市中見回りという仕事の中で新選組が斬り殺したことがほぼ確実なのは17名(内部抗争や喧嘩による暗殺は含まれていない)、そのうち池田屋事件の死亡者が7名であるから、新選組が活動した5年間で池田屋事件を除けば殺された者はわずかに10名ということになる。新選組は今日でいう警察組織であるから情報収集するためにも、逮捕しなければならなかったため、そう簡単に斬るわけにもいかなかったのである。池田屋事件があるため、暗殺者集団のイメージが強いが市中見回りで斬った人数は意外と少ない。(しかし、現存する資料が少ないため不明なことが多い。おそらくはもう少し多い人数のはずである。)

↑沖田総司

合理的実力主義組織

 新撰組は浪士取締りを続けながら、随時隊士を募集していた。入隊説明会に参加した者たちの名簿には、一人一人の名前の上に剣術や槍の流派がひときわ大きく書き込まれており、隊士の採用にあたっては剣の実力を最も重視したことが伺える。入隊後も徹底した実力主義で、日々剣の訓練などが行われていた。またこの頃の武士の給料は米の支給による俸禄制が普通であったが、隊士には手当てが毎月現金で支払われていた。また見回りに対する危険手当も支払われており、例えば池田屋事件に関しては、最初に斬り込んだ隊士には基本手当て10両と特別手当10両が支給され、二番手として斬り込んだ隊士には特別手当7両、見張りで斬り込んでいない隊士には5両の特別手当があり、危険の度合いによって手当てに差をつけたという。また普段の見回りにおいても先頭で斬り込む隊士を「死番」と呼び、平等をきするため毎日交替で勤めたという。このように月給制だったり、危険度に応じて手当てが支払われたりと合理的で身分を問わず平等であったことが伺える。おそらくこれには商業をやってきた者が機能していると思われ、土方歳三も商人をしていたことから、関わっていると考えられる。戦術において1対1の戦いにとらわれず、3人一組で一人の敵にあたるといった必勝戦法をとったところにもまた合理性がみられる。

武州多摩に伝わる天然理心流

 天然理心流』−。局長近藤勇をはじめ、土方歳三ら新選組幹部が学んだこの流派は、幕末に多摩地方の農民の間で広まり、農民剣法とも呼ばれる、太い木刀を使う無骨な実戦剣法であった。この地方は古来、勇猛で知られる坂東武者を育んできた土地であり、幕末にはその子孫を自負する農民たちが武芸の稽古をたえず行っていたという。多摩郡上石原村(現調布市上石原)の豪農の家に生まれた近藤勇は、15歳で天然理心流に入門し、すぐさま頭角をあらわし、やがて天然理心流の4代目の宗家を継ぐ。
 
「赤心報国―」偽りなき心をもって国のためにつ尽くす。近藤が京都にのぼった直後に多摩に送った手紙の表紙に黒々と書かれていた文字である。手紙の中には、幕府の旗本八万騎に頼れるものはいないと記されている。武士への失望と自らの気負いがあらわれている内容である。自分が農民であるが故に刀をとって戦うということに強い誇りをもっていた。新選組局中法度には「士道に背くまじき事」とある。武士の道に反することをした場合切腹してもらうという非常に厳しいものであった。長い泰平の世に堕落してしまった武士よりも自分たちのほうがはるかに武士の心を持っているのだという気概を示したように思われる。

↑近藤勇
↑土方歳三

 いかがでしたか。この特集をするにあたって人物の紹介もしたかったのですが今回は省略されてもらいました。これより新選組の思いとはうらはらに時代は明治へと突入し、「文明開化」の世を迎えることとなります。彼らは外国の文化に影響されていく日本をどのような気持ちでみていたのでしょう。日本という国を愛した精神。彼らもまた日本が生んだ志士だったのです。。

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