『忠臣蔵』〜謎多き討ち入りの真相〜

 元禄14年(1701)3月14日江戸城松の廊下にて赤穂藩主浅野内匠頭が高家吉良上野介に刃傷。これが『忠臣蔵』の発端である。去年のNHK大河ドラマで『元禄繚乱』と題して放送されていたのでこれを見ておられた方も多いことでしょう。私がこの話を知ったのは中学生だった頃、年末に読売テレビが放送していた大型時代劇『忠臣蔵』ででした。今までに数多く映画やテレビで放送されていますのでその内容は脚本によって少しずつ違うでしょう。しかしそのほとんどが浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』の影響を受けているものです。実は事実関係を示す資料は驚くほど少なく真相は謎に包まれたままなのです。

1、どうして浅野内匠頭は刃傷に及んだのか?
2、幕府は浅野方にだけ処分を言い渡して吉良方にはお咎めなしとしたのか?

 浅野内匠頭が刃傷に及んだ理由は大きく2つ考えられ一つは乱心説、もう一つは遺恨説である。前者はいわゆる発作的なもので事実内匠頭は「痞(つかえ)」という胸が苦しくなる持病を持っており、事件の4日前この症状がひどくなり医者から投薬を受けていたという。そして勅使接待役という大役で緊張が高まる中、この持病が引き金となり乱心状態になり事件を起こしたとされている。後者の遺恨はいろいろ考えられ、吉良が接待に関することを内匠頭にわざと教えずいじわるをしたことからこの事件が起こったなどと考えられている。
 理由はなんであれ、5万3500石の大名が原因を全く究明されず、充分な審議もされないでその日のうちに切腹となった。それに対し吉良側には何らお咎めなしとなったことは当時の喧嘩両成敗の原則を無視した理不尽な幕府の裁決でした。その後浅野家は取り潰しとなりました。この裁決には、おそらく吉良家や吉良家の親戚の上杉家のなんらかの政治的工作があったと考えられています。

3、大石内蔵助の真意

 赤穂城明け渡しの後(刃傷事件から約三ヶ月後)、家老大石内蔵助は京都山科、続いて京都四条寺町で日々を送っています。ここで内蔵助は内匠頭の弟浅野大学を立てて御家再興の運動を始めます。それと共に幕府に上野介の処罰を訴えました。ここで少し討ち入りまでの年表を見てみることにします。

元禄14年(1701)
 3月14日 刃傷事件
 5月19日 赤穂城明け渡し
 6月25日 大石内蔵助、赤穂を去る。京都山科へ
 9月 2日 上野介、江戸呉服橋の邸から本所の邸に移る。
10月20日 大石、亡君の墓参りを理由に江戸に向かい、11月3日江戸に到着。
12月23日 大石、江戸を発って京都に帰る。
元禄15年(1702)
 7月18日 幕府、浅野内匠頭の弟大学を広島藩浅野本家預けと決定。
        これにより御家再興はかなわぬ事と決定。
 7月28日 大石ら浪士18人、京都円山の安養寺で会合し討ち入りを決定。 
        (円山会議)
 8月12日 江戸の同士たちに円山会議の決定が伝達される。
10月 7日 大石、京都を発ち江戸へ。11月5日江戸到着。
12月 2日 赤穂浪士、深川八幡門前の料理茶屋で最後の全体会議
12月15日 赤穂浪士47士、吉良邸に討ち入り、上野介の首を挙げる。

 大石内蔵助はいつ討ち入りを決意していたのでしょう。大学を立てての御家再興の嘆願はいわば幕府へのカモフラージュで、主君内匠頭切腹の報を聞いた時にはあだ討ちを決意していたように私には思われます。当時の将軍徳川綱吉は大名潰しの名人で、一代の間に四十数家の大名を取り潰しています。大石もそれを知っていたでしょうし、御家再興がやすやす叶わぬものとわかっていたでしょう。
 浪士らに討ち入りを伝えたのは元禄15年7月28日でした。この頃江戸では、赤穂浪士が吉良邸に討ち入るという噂が絶えませんでした。幕府も浪士の動きを警戒し、監視していました。そうした中で幕府は吉良屋敷を呉服橋から郊外の本所に移す処置をとっています。浪士を監視する一方で、吉良屋敷を警備の届きにくい場所に移すという不可解な動きでした。

4、幕府の判決、「法」をとるか「義」をとるか

 元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士は吉良の首を見事挙げ高輪泉岳寺の主君の墓前に捧げました。
 討ち入りから二ヵ月後、幕府の吉良家の処断が下がりました。生き残った上野介の養子義周(よしちか)は信州諏訪に流され、吉良家は御家断絶となりました。問題は赤穂浪士への処分でした。幕府の大学頭林鳳岡(はやしほうこう)は浪士がみごと主君の仇を討ったことは「忠義」であり、武士道の鑑であるとして浪士擁護論を展開しました。これに対し儒学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)は浪士の行為は公儀の判決を否定するものであり、決して「忠義」などではない、これを認めれば天下の法は権威を失うというものでした。「法」をとるか「義」をとるか幕府はその決断をしなくてはなりませんでした。最終的に将軍綱吉は浪士全員に切腹を命じました。

 刃傷から47年後、大石内蔵助は『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之介として喝采を浴び、「忠義」の士として伝説化されることになる。最後にこの『仮名手本忠臣蔵』にまつわる話をしてこの章を終わりとしたい。

『仮名手本忠臣蔵』・・・江戸中期、浄瑠璃作者の竹田出雲の作。

 さて、「仮名手本」とは「いろは47文字を平仮名で書いた、習字の手本。転じていろは歌のこと」である。では何故「忠臣蔵」の前にいろは歌、「仮名手本」はついたのか?

 いろは47文字が赤穂浪士47士にかけられ、忠臣の手本という意味で付けられたわけである。

いろはにほへ
ちりぬるをわ
よたれそつね
らむうゐのお
やまけふこえ
あさきゆめみ
ゑひもせ

 これは周知のとおり「いろは歌」である。これを七文字づつに区切ってみた。そして一番最後の文字をそれぞれ取ってみると「とかなくてしす」となる。つまり「咎なくて死す」となるわけである。「赤穂浪士たちは咎もないのに幕府の命令で切腹になった」という幕府への批判をしてわけである。しかし、当時はご政道批判は許されておらず、こういったいわゆる言葉遊びをしたわけである。

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