風早郡小川村及び宅並山関係の歴史

 

 

大森家 松山市(旧北条市)小川 「大森家々紋 割り九曜(わりくよう)」

「大森氏系図」 清和天皇⇒盛長「彦七」(砥部10代)⇒盛頼(小川初代)⇒盛壽⇒。

 大森家の先祖は、砥部に住んでいましたが、天正10年(1582)に粟井の小川村に移ってきました。その後、江戸時代から明治にかけて約300年の間小川村の庄屋をつとめた。その間新田開発(盛信新田と言う=小川旧R196号払川南の海岸あたりと思われる)や溜池を作るなど、村の為に尽くしました。中でも、大森家11代目(小川へ来てから)の大森盛壽(おおもりもりかず)は、「粟井坂新道」を開きました、7代(小川へ来てから)大森盛信は風早郡辻村困窮の為「取り立て入リ庄屋」となる。享保11年丙午年54日松山藩主松平定英に命により入リ庄屋となり入用米100表を下賜す。

 

「屋敷跡全体」の広さは約550坪、屋敷は120坪、部屋数17、畳83枚分あったという。

 

「大森家の墓地」は屋敷跡を真下に見下ろす南岡に歴代墓石が整理されている。

得居衛先生のメモに粟井の庄屋大森家の墓地で「大森盛頼先祖の碑」は2mに余る大石碑である、この墓地の間に1字1石塔があって銘文次の通り、銘文、法華経1字1石塔、小川郷六代大森盛重、この1字1石塔は、古老の話によると、その昔小川村に伝染病が流行した時、4ヵ所に一字一石塔をたてて伝染病退散を祈願したということである、またこの尾根筋には「三つの経塚」があると伝えられ大森家の墓地近くの頂上に「中経塚」があった現在テレビのアンテナが立っている、下の墓地の頂上に「下経塚」今は墓地になっている、上の墓地の頂上に「上経塚」があって現在小竹が生えている、それぞれの場所に最近まで古松が1本ずつあったが切って、株だけが残っていたというが今はない。

 

「大森盛頼先祖の碑」は堤茂登子さんにより菩提寺の蓮福寺へ移した、後は元の場所で整理されている。 その中に小川の庄屋職にあった大森盛章(春恕・しゅんにょ)の辞世の歌が墓石の左側面に刻まれている。

 「かりものの いつつのものはもどすなり 

         はだか身で来て いぬる裸身」

 

大森盛壽の碑大森家の墓地を少し下ると大森盛壽之碑がある。碑は菩提寺である河原の蓮福寺の方角を向いて建ててあり、高さ122cm、幅61cmである。

 

新道開通記念碑」 松山市(旧北条市)小川 大師堂境内に高さ2.5m、幅1.5m、厚さ30cm板型自然石に「粟井坂新道碑」がある。明治21年時の県知事白根専一氏題字で当時の事情がよく伝えられているのでここに原文(漢文体)を普通文に書換えて挙げておく。旧国道196号線松山〜小松線、現県道347号線平田〜北条線。

余、壮歳(よそうさい)、江戸に赴(おもむ)けリ。興津(おきつ)駅に至り。将(まさ)に薩陲嶺(さつたれい「清水市東方薩陲嶺峠のこと」)々麓を踰(こ)えんとするに、沿道の官道新しく開け、車馬奔弛(ほんち)、行旅闊歩(こうりょかっぽ、「旅人」)して、また陟降 (ちょつこう)の労なし。余甚だその功を偉(い)とせり。ああ、我かねてより、粟井坂の事頗(すこぶ)る此に類(たぐい)すとなす。坂は、松山今治来応(らいおう)の孔道(こうどう)となり、風早、和気二郡、堺をここに分つ。東は山に依(よ)り、西は海に臨み、峻絶(しゅんぜつ)にして通ぜず。人、陟降に苦しみ、馬、運輸になやみ、その害(がい)甚だ大なり。これ、新道開鑿(かいさく)の挙ある所以(ゆえん)なり。新道長さ1758尺(530m)、幅12尺(3.6m)。坂麓(はんろく)を鏟治(さんち)し、かつ石を海に畳みて埋め立てし、以って波涛(はとう)を防ぐ。西北の隅に、障壁(しょうへき)を壁破(へきは)す。通の高さ45尺(約14m)、往(ゆ)きて屏中(へいちゅう)に列(ゆら)なる。また、構(こう)木をカゴ状となし、石を中に充(み)たし、海に斗出(としゅつ)すること数十歩なり。これを設くること五か所、以って潮勢を殺(そ)げりという。風早の人、大森盛壽(もりかず)、時の小川邑(むら)里正、頗る(すこぶ)才思(さいし)あり。後に郡副長に任ぜられる。つとに開鑿(かいさく)の志あり、嘗(か)って之を区長吉田格堂等に謀りて果さず。ここに於いて、始めて貯金の策を設け、数年にして、金漸く(ようや)殖(ふ)えたり。郡長門屋忠明、その議に賛し、遂に県令岩村高俊に請う。令、嘉納し(かのう)、県税金890余円を出し、以って盛壽の志を助けしむ。ここに於いて遂に就(つくり)けり。工を明治13年4月6日に始め、竣(しゅん)をその7月27日に告ぐ。日、総て113日、役夫4754人、石工285人、匠(しょう)40人、糜資(びし)2070余円なり。道既(すで)に開く。平坦、砥(と)のごとく、彎環、虹のごとし。昔時(せきじ)通ぜざりし車、今や則ち、並び弛せて轟々(ごうごう)然たり。昔時(せきじ)人捗降(かっぽ)に苦しみしも、今や則(すなわ)ち、闊歩悠々然たり。昔時、馬運輸になやみしも、今や則ち鈴声鏘々(そうそう)然たり。人として快を称せざるはなし。その功また偉なるかな。盛壽の長子盛直、将に碑を建て功を紀せんとし、来りて文を余に乞ふ。因りて薩埵(さった)の景を思ひ、推(お)して海道第1とせり。粟井、或は及ばずといえども、また大いにこれに類するものあり。ここ、興居島の小富士の峰、海面を圧するは、なほかの富岳の、玲瓏(れいろう)として天平に聳(そび)ゆるがごときなり。ここ、風早の島岐(とうき)、蜿蜒(えんえん)数里なるは、なほ三保の松林の、波涛(はとう)に映帯せるがごときなり。その風帆、浪舶、烟雲、香靄(ようあい)の間に出没し、漁唱の声、柔櫓の声と相和するは、彼是(かれこれ)みなこれあり。その景の同じくしてかつ美なるもの、盍(なん)ぞかくの如くならざる。詩客歌人、かつ行きかつ賞するのみ。その労無くして、その快を更(あらた)にする。偉功の韻事(いんじ)に及べるや、実に尠(くすな)しとなさず。これ又知らざるべからざるなり。盛直、勒(ろん)みて之を存するや宜(むべ)なり。乃ち辞せず、記して之に与ふ。

明治21年12月

松山近藤元修撰弟元弘書

愛媛県知事従五位薫六等白根専一題額』

 

「岩村高俊」宿毛に生まれる、弘化2年〜明治39年(18451906)地方長官を歴任・岩村高俊は岩村通利、林有造を兄にもつ岩村3兄弟の末弟で、戊辰の役では官軍の軍監として北越を転戦した。維新後は各県の地方長官を務め、佐賀県令のときには、兄通俊の協力をえて江藤進平率いる佐賀の乱を鎮(しずめ)めました。その後愛媛県権令・県令、(初代知事明治7年11月24日〜明治13年3月8日)、福岡、広島などの各県の知事を次々と歴任した。明治25年には貴族議員にも選ばれた。

 

「白根専一」 長門国(山口県)萩市に嘉永2年12月22日生まれた。(1850〜明治31年6月14日1898)明治時代の藩閥政治家。長州藩士(のち埼玉県令)多助の次男。明倫館、慶応義塾に学び司法省に入った。内務省に転じ木更津県、秋田県で累進、本省の庶務局長、大書記官、愛媛県知事(4代愛媛県知事明治21年2月29日〜明治22年12月26日)などを経て明治23年(1890)5月内務次官となった。 <目次へ戻る>

 

佐賀の乱」 江藤新平手配書が屏風の下張りの中から見つかる。大森家の屏風に霧を吹き一枚々剥がし乾燥さし読み取る作業の中から見つかる。「北条市ふるさと館蔵」明治7年(1874)佐賀で起った士族の反乱。前年から禄制処分に対する士族の不満、政府の改革に対する農民の不満などがつのり、朝鮮国遣使・出兵の論議も沸騰してきた。政府部内でも朝鮮政策で意見が分かれ、遣使・出兵を主張する板垣退助・西郷隆盛・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣の5参議は免官となった。いわゆる明治6年の政変である。佐賀地方では封建復帰を願う憂国党と朝鮮出兵を主張する「征韓党」とが結集して武器・弾薬を準備しつつあった。この騒ぎを鎮めようとした島義勇(憂国等)と江藤新平(征韓党)は、各首領へと担がれてしまった。政府は大久保利通が直接指揮を取り、岩村高俊佐賀県権令に軍隊をつけて鎮撫にあたらせたので、士族たちも反政府軍と政府軍の両方に分かれて激戦となった。結局政府軍が勝利を収め、江藤・島らは脱走したが捕らえられ処刑された。

この内戦は政府の謀略によるものと見る向きが強い。以下現代文に要約。

  第弐拾参号

佐賀県下で嘯集(しょうしゅう・よびあつめる)の賊のやから本月十五日夜、県庁を襲撃し、反乱を鎮めるための兵隊と戦闘になったことの報告を受けて、直ちに討伐せよとの仰せがあったことを知らせる

     明治七年二月十九日         太政大臣 三條實美

  第弐拾四号

                                使府県

佐賀県下賊徒討伐せよとの仰せ出があつた、賊徒が各方面へ逃げ延びることがあるので県下交通の重要地点は勿論、船舶の出入りの取り締まりを厳重にし、出入りの人員を確認賊徒と思われる場合は直ぐ捕まえるよう通達の事

     明治七年二月十九日         太政大臣 三條實美

右の通り公に告げ、区内漏れなく触れ回る事船舶

                           愛媛県参事 江木康直

     明治七年二月十九日

賊のかしら江藤新平外九人脱走したので捕まえるべく人相書きを添えて通報したが一層厳重に探し出すよう内務省より、特別のお達しがあったが去十五日別紙人相書きのあやしき士族風の者6人宇和島町へ来て宿泊し、翌日の夜荷物等を捨て置いたまま脱走者の荷物を改めて見たが佐賀県賊徒のものとも見え愛媛県内に潜伏しているかもわからず、津々浦々僻地に至るまで厳重に手を抜くことのないよう探して怪しい者と見受けたら捕まえて最寄りの巡回中役人、巡査又は戸長役場等へ届ける事、召し捕り申し出た者へは相当の賞与が下される、もし隠しおいた事が後日わかったらきついお咎めがあることを区内にもれなく大至急伝える旨のお達しがあった

     明治七年三月廿日           愛媛県参事 江木康直

  乾参拾弐号

県内へ、佐賀県の賊が立ち入った事について、当分の間、漁船を除く外、一般の船を出す事を差し止める。左の箇条書きの通りと心得るよう通報する。

     明治七年三月二十二日         愛媛県参事 江木康直

       右箇条書き

1、蒸気船で航行したい者は三津港は県庁、新居浜は西条出張所で鑑札を受け取り、出航の邏卒(明治時代のことば⇒巡査のこと)屯所(警察署)へ差し出して許可を得て乗り込む事

1、同上、船が着いた時は、そこの警察署へ届け一々調べを受け不信な事がなければ上陸を許可する なお他県の者は通行券を渡した上で県内を通行する事が許される

1、蒸気船の他すべて、自分、他人の船が入港した時は前と同じ手続きの事

1、漁船といえども人を乗せ、近くの島などへの渡しも例外ではない事

  坤三拾八号              各大區區戸長へ

賊のかしら江藤新平外九人が脱走したので、つかまえるようにとの通報を度々しておいたが、この度司法省検事局員直江兼重、山本守時、日向(宮崎県)から宇和島に来たので出張所官員と面談したところ過日、同所旅館において逃亡した者共江藤新平以下の者に違いなくその場に残していた荷物の内、きれいな洋服、白ケット等すべて新平が持っていた品であることははっきりしており、この上は賊徒(罪を侵した者共)が愛媛県へ来て四国中に隠れている事に間違いなく、それで官員を派遣し、士族200人余りを募集して捜索するよう一層厳重に申しつけ、近県へも同じお触れをだしおいたので各區内の人々も一層厳重にとの心得を山村、浜辺の村に至るまで手抜かりなく捜索し捕らえることをつたえる。

 捕らえた者には相当の褒美を下され、かくまった者にはきついお咎めがあることを區内の人々へ戸長以下役付きの者が巡回して各戸もれなく捜索する旨、厳重に取り計らう事を通知する。(命令するという強い口調)

    明治七年三月二十三日        愛媛県参事 江木康直

  乾二十三号

別紙の通り内務卿(内務大臣)から通達があったことを心得て知らせる事

     明治七年三月五日         愛媛県参事 江木康直

別紙

佐賀県所属の者共、政府に対して反抗をもくろんで団体を組む挙動は罪になる事は明らかで、直ちに官軍を差し向けて賊を討つことを命じた、これらの悪だくみをもつ団体の者共は、諸県内にあてもなく人目につかないようひっそりと隠れ住んでいると思われるので取り締まりは勿論、万一疑わしい者どもを隠しおき、後で分った時には厳しい処置を受けることを知らせる事

 但し、不審の者を捕らえる際、手向かうことがあれば、その場に応じた処置をとってよもよい

    明治七年二月十九日         内務卿 大久保利通

     愛媛県令参事中

 <目次へ戻る>

 

魔住ヶ窪・ますみがくぼ」 伊予郡砥部町 伊予温古録に「麻生村に有り、大洲旧記に云う。大森彦七化物に出逢たる所なり・」と彦七が松前町筒井金蓮寺で催される猿楽に行く途中のことである。矢取川にさしかかると美女が川を渡ろうとして難渋していた。それを見た彦七が自ら美女を背負って川を渡っている時、背が急に重くなり、月光に照らされ水面に映った美女は、にわかに鬼女となり、彦七を襲ったと伝えられている。ここには、地蔵堂があり、彦七の襲われた場面を想像して、地元の絵師矢野翠堂が描いた絵馬が奉納されている。(この橋が改修され橋の欄干を大森家の子孫「堤茂登子」さん方の庭にあるのがよかろうと愛媛県・砥部町の人たちが送り、それを使って庭を造る。)

 

 

 

 

金蓮寺」 伊予郡松前町 大森彦七が猿楽に招待された寺。

山号は玉松山、真言宗智山派京都智積院の末寺で、本尊は海上出現の薬師如来である。

大同3年(808)河野氏によって開創され、天安元年(857)宗祖弘法大師の法孫明実が入って寺の基礎が確立され、貞観元年(859)には、玉生八幡大神社の大別当に任ぜられた。貞応元年(1222)唐の僧明海が渡来、寛喜3年(1231)中興開基して性尋寺と号した。

同年後堀河天皇の御病気に際し弘法大師自筆の千手観音を修法したところ、たちまち病気が平癒したので御感あり、依頼、勅願道場となった。本堂は昭和50年に再建された。伝説として「大森彦七」にちなむ[大事金蓮寺]という俚言(きょうげん)がある。

 

大森彦七供養塔」 伊予郡砥部町 「太平記」に記されている大森彦七に関する遺跡の中で代表的なものの一つである。正徳2年(1712)麻生の庄屋田中権内が、彦七の功を長く称(たた)えんとして、庄屋田中治兵衛及び五本松村小助、川井村忠左衛門の協力により建立した。

 湊川の合戦で、楠正成を切腹させ豪勇をうたわれた彦七も、江戸時代後期、大日本史の南朝正統論の影響を受け、後醍醐天皇派を苦しめたとして逆賊と見なされた。 風雪にさらされ三つに折れた塔身は、彦七の末路の哀れさを無言で語っているようである。碑面には、「長盛院殿大森彦七居士神儀」と刻まれている。

 

<目次へ戻る>      <ホームへ戻る>

 

 

<前のページへ>     <次のページへ