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※交通機関 松山市(旧北条市)小川
国鉄は昭和2年(1927)4月3日高松から松山まで開通した。昭和62年(1987)からは、JR四国(四国旅客鉄道株式会社)となる。光洋台駅は昭和61年(1986)11月1日出来た。電化は平成5年(1992)3月18日にされた。光洋台駅には始は一部止まらない列車があった。
バスは昭和22年(1947)松山〜北条間開通。昭和40年ごろがバス利用多い、昭和48年(1973)ワンマンバスとなる。小川線は昭和27年(1952)に出来た、北条駅から中央線を通り粟井小学校、上和田、磯河内、小川口、小川から松山行きバスに接続していた。平成元年(1989)廃止となる。
※林関四郎翁顕彰碑 松山市(旧北条市)小川
「林関四郎翁は篤信の人にして 夙に大師堂復興に心され用地の寄贈 堂改築管理の行を積まれ 一方初代高縄城主河野通清公鎮魂のお石塔様の史跡指定への尽力 塔改築 参道の整備又公陣歿の地通稱山の神を擁する自分の持山を自力にて造成し 閑林苑として市民のいこいの場として開放するなど社会文化の進展に多大の貢献をされました ここに相詢り顕彰いたします」昭和57年5月吉日 小川部落 大師堂奉賛会 有志 とある。林関四郎氏の努力がなければ大師堂、句碑、歌碑、等の粟井坂周辺整備はこれほど出来てなかったであろう。
※林 邸 松山市(旧北条市)小川 句碑 伊予鉄バス北条行バス停付近。
いまはむかし初陣の山や草茂る 忠温
句碑の上部に「旅順の古戦場に立ちて」と刻まれている。句碑は高さ95cm、幅60cm、厚さ25cmの自然石。
こよいまた宿る家なしちゝろ虫 忠温
この句碑は関四郎氏が大洲白滝の滝壷拾ったもので高さ20cm、幅14cm、厚さ3pの小さな石ころというべき句碑で現在は中庭にあったものを裏庭の隅においてある(三平氏)。と山本孟氏の調査しているが、芳子氏は知らないとのこと。
桜井忠温 は日露戦争に参加し、旅順で重傷を負い九死に一生を得て陸軍少将で帰還後、傷を養いながら、有名な戦記「肉弾」を執筆、した。昭和40年9月17日86歳で永眠された。
死ぬるまで生きる命の長閑かな 齋月
句碑は高さ1m20cm幅60cmの岩子山の自然石で、齋月大正10年の作品半折の真筆を句碑にしたものである。なお邸内の3基句碑は林関四郎氏が自分で「のみ」をとって彫刻した。
村上霽月 俳人(1869〜1946)本名村上半太郎、今出絣(かすり)社長等農村経済振興につくした。 今出(いまず)は地名で現松山市西垣生町
※光洋台完成記念碑 松山市(旧北条市)小川 柳池の北側 磯河内出身関西設計事務所の鍋屋 健一氏より玉井進氏に話しがある。
土器類の出土は知らない。
施主西部都市開発梶A施工日本国土開発梶A世話人代表玉井 進、玉井保一、作道尚栄、玉井清一、長尾光敏、玉井幸作、玉井忠満、昭和50年9月吉日とある。昭和50年小川から光洋台として独立した。
地名「光洋台」の由来は完成当時小川の区長、長尾光敏、副区長、有田洋右から 長尾光敏の「光」と有田洋右の「洋」から光洋台となる。
小川加呂布甲392番地外165筆土地代261,349,200円本線からの侵入路23筆土地代14,496,902円含め国道まで5,000万円位と聞く。工費は20億円と聞く。2つ池があった(休三田、打越)。開発面積200,000u(60,500坪)、販売面積101,165u(30,602坪)、総区画数400区画 、開発許可番号:愛媛県開第230号および愛媛県開第137号、造成工事検査済番号:松山土木開第5号および松山土木開44号。
力石(担ぎ石) 松山市(旧北条市)小川
昭和20年代まで力自慢競争として使われた。どの石を「ひざ」まで、腹まで、肩まで、と競い合った。有田 洋右宅前にある。
※要害の話 小川上に「要害」と言う小字がある。信仰により、土に穴を掘り、そこには生きたまま人が入り、金と念仏の音がしなくなったら空気穴に蓋したとのお話がある。そこにはお墓が三基あり院号がついていた、と聞く。「要害念仏」というお念仏をしていた話も聞いた。これは、きれいな言葉では「即身成仏」と言う、が食うにも困っていたので人減らしか?その山は三浦組により鹿峰団地の地上げに使われた。
※お遍路さんの墓 竹松貞幸さん方北(旧196合線沿い)に遍路さんの墓5基、地藏さん2基、お坊さんお墓1基など8基ある。以前お墓前に野菜集荷がありその地下は防火用水の水槽になっている。水槽を掘る時に人骨が出たといわれている。現在は集荷場取り壊している。
※お梅墓 松山市(旧北条市)小川
粟井坂現在の「松山市・北条市の堺より少し松山側」にあったらしいが年寄りの人もあまり知らない、現在も不明。
話しによると、「おうめ」さんが住んでおり、海へ大蛸を取りに行き蛸の足を1本ずつ取り最後の1本をとりに行き不明になった、北条市大浦にも同じような話しがある、と聞く。
母屋→栗上平・隠居→玉江民雄・大門→有田洋右・古屋敷→有田順平・中家→二神敬二郎・はな→玉井正郎・本屋→玉井進平・お米屋→玉井重利・千人塚→山崎一夫・お菓子屋→林賢三・問屋→二神茂・石屋→岡見盛信
八木 彩霞(さいか)
粟井小学校の中央階段中程踊場に彩霞の油絵がある。彩霞は「森永ミルクキャラメルのパッケージのデザイン」そして「神奈川台場」の絵を描かれた、神奈川台場とは、横浜に愛媛県(昔の松山藩)が黒船来襲に備えて作ったそうで、今の横浜発展の、原点ともいえる重要な遺跡とのこと。忘れ去られた愛媛生まれの洋画家「八木彩霞」で、パリで活躍したレオナール・藤田の友人でもありました。彩霞の技量は「明治天皇御尊像」口絵から十分に判ります。この絵は、何時の時代か判らないが小学校卒業記念に寄付した模様です。倉庫に蔵(しま)っていたものを玉井利幸校長退職に時修復したもの。愛媛県美術館分館の萬翠壮で「横浜と松山を結ぶ彩霞展」が開催された。
久留島 武彦
粟井小学職員室に額がある。生光輝(萬物生光輝)「萬物光輝を生ず」 大宇宙の生命の中で輝かしい早春の日ざしが野辺にあふれ、大地の息吹は新芽を生む。山も野も川も海も空も光輝いている。天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐により風早郡内諸城、悉く落城し河野氏と風早は断絶した、四国征伐の際、小早川に協力した功により、野間郡の来島通総は鹿島城主、その子康親は恵良城主となる、しかし来島氏が関ケ原の戦で、反徳川の西軍に加わった関係から、豊後の森に転封となる。久留島武彦は明治7年豊後森(大分県玖珠市)に父久留島道寛、母惠喜の長子として生まれる。久留島家は森藩の末裔、明治維新後華族(子爵)となっていた。日本のアンデルセンと呼ばれ、黎明記の児童福祉文化の向上に努め、又数多くの童話を遺した。日本全国をまわって童話を読み聞かせ、わが国の児童文学史に大きな足跡を残した。童話碑が(大通寺)に建てられている。開基家遠孫久留島武彦先生は童話の大家にして、世人より童話の神様とあがめられる高階龍仙禅師より諡号せられて禅機殿誠心話徳童訓大居士と称す、その偉徳を顕彰するために豊後森京都嵐山についで伊予水軍のゆかりの当山に童話碑を建立して後代に伝えるものなり。昭和51年10月居士の17回忌に誌す、大通寺34世 大進廓明代建之、とある。池内功先生「エヒメアヤメの里」より。