欲望の卵
これは、僕の心の闇。
「ねぇ、もうやめようよ、夜天(やてん)」
そう小さな声でつぶやいたのは、学校の制服を着た少年。
年の頃は十代前半だろうか。
髪の色は蜂蜜色。ふわふわとして思わず触りたくなってしまう。
「蜜(みつ)は臆病だな。帰るなら一人で帰れよ」
夜天と呼ばれた少年は、蜜と呼ばれた少年と対照的な姿をしている。
黒をまとった少年は、からかうように蜜を見る。
「だって、シスターに見つかったら、怒られちゃうよ」
二人は夜の学校にいる。
時間は深夜。
同じ敷地内の寮で眠りについているはずの時間だ。
蜜は小さな声で訴える。
「あんなの、ただの噂でしょう?」
蜜が言っているのは、理科室の噂だ。
『理科室の薬棚には、悪魔の卵がある』
そんな噂が、ここ数ヶ月ずっと生徒の間で流れている。
しかし、昼間はシスターたちの目があって、薬棚には触れられない。
「そんなこと言って、蜜は怖いんだろ」
「そうじゃなくて・・・」
「だったら、一緒に来いよ」
そう言って、暗闇の中に、白く光る手を差し出した。
「・・・・・・」
納得がいかない、という表情をしていたが、やがて、蜜も手を出し握る。
キシリ、と床がなった。
古くからあるカトリック全寮制の学校で、校舎もかなり年期が入っている。
新校舎、というものもあるが、何故か理科室だけが旧校舎にある。
夜天はこの雰囲気のある校舎が気に入っていた。
昼下がりには磨り硝子のような光が降りそそぐ。
ふと横を見ると、不安げに前を見つめる蜜がいる。
その様子に夜天は少し微笑んだ。
夜天は理科室の扉を通り過ぎる。
「夜天、入らないの?」
「放課後は閉まってるんだ。扉」
「じゃあ、どうするの?」
「準備室に入れるところがあるんだ」
床に近い窓の鍵が1箇所だけ開いている。
そこから入ると、理科室を経由しなくても準備室に入れる。
「埃っぽい」
「我慢しろよ」
床に這って入ると、白いペンキが所々はがれた、木の薬棚が目に入る。
「これにも鍵がかかってるんじゃないの?」
蜜が言うと、夜天は唇を半月にかたどって笑った。
「ほら」
手には真鍮の鍵が握られている。
細い華奢なつくりの鍵だ。
「ぬかりはない」
「どうしたの、それ・・・?」
「今日は日直だったんだ」
「なるほど・・・」
あきれた、という風に蜜は肩をすくめた。
日直は教室の鍵を閉めて、職員室の鍵かけに掛けることになっている。
そこから夜天は失敬してきたのだ。
カチリという小気味のいい音が響いて、夜天は薬棚の扉を開ける。
「・・・あるの?」
「さぁな・・・」
しばらく棚の中を物色していたが、急に夜天は声を上げる。
「ど・・・どうしたの?」
「見てみろよ・・・」
夜天の手の中には小さな箱が握られている。
蜜の顔にはおびえが走っている。
蓋を開けると、そこには黒い卵が布に包まれ収まっていた。
「これか・・・悪魔の卵って・・・。黒曜石の卵じゃないか」
黒いから、悪魔だなんて・・・。
陳腐過ぎて、夜天は声を殺して笑った。
「なぁ、蜜。これでも怖いのか?」
振り返ると、蜜は黙ったままそこに佇んでいた。
「・・・・」
蜜の白い顔が一層青白くなっていた。
赤い唇は顔の白さでより紅い。
髪より少し深い色の、琥珀色の瞳がひたりと夜天に向けられる。
蜜は学校の生徒の中でも明るい方に入る。
物静かだが、はしゃぐときには一緒にはしゃぐし、いたずらも一緒にする。
やや引っ込み思案なところがあるが、普通、の生徒だ。
それが、どうだろう。
この瞳は、今まで一度も見たことのない虚無で満たされている。
夜天はその瞳に、自分が知っていた蜜はほんの一部分でしかないことを知る。
「それに触れないで欲しい」
蜜は黙り込んでいたその唇をようやく動かす。
「何故・・・?」
そう問いかけると、蜜は苦しげに顔をゆがめる。
「それは、僕の物だ」
「?」
そんな風に所有権を訴えてくることを、これまで蜜はあまりしなかった。
あらゆる物に。
そして、あらゆる者に。
そのことに驚き、軽い嫉妬を覚える。
――――何に・・?
夜天は自分の気持ちに戸惑う。
そんな戸惑いに気づくはずもなく、蜜はさらに言う。
「それに触れたら、君をそのまま帰すことはできない」
「どうなるんだ・・・?」
「さあ・・・、僕にも分からない」
蜜はつぶやいた。
夜天は段々苛々してくるのを感じる。
ただ、この卵が手に入れたいだけなんじゃないのか?
そんなの、ズルイ。
――――蜜が?それとも、・・・卵が?
夜天はその箱の中に手を差し入れた。
くすり、と密やかな笑い声が聞こえる。
「だから、言ったのに」
蜜は黒い卵を撫でながらにっこりと天使のように微笑む。
「もう、君は僕のモノだ。逃がしてあげない・・・」
これは、僕の独占欲、羨望、嫉妬・・・そんなもののカタマリ。
僕の心の闇。
理科室には悪魔の卵がある。
白いペンキの剥げた、木の戸棚にひっそりと。
見つけたら、絶対に触れてはいけない。
後悔しないのなら、止めはしないけど。
END
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