作者自己紹介

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背番号33が私です。草野球も「下手の横好き」程度(詳しくは本宅参照)。「球が怖い」というベースボールプレーヤとしては決定的な欠点があるため、常に「山本浩二風」のバッティングしかできません。

背番号33に深い意味はありません。決して「江藤」のつもりではありませんし、ましてや「長嶋茂雄」ファンなんてことは絶対にありません。長嶋監督と同じ背番号であることは、ユニフォームができあがってきて初めて気がつきました…。
作者近影


西暦 和暦 年齢 作者年表 カープ年表
1965 昭和40年 広島県呉市に生まれる
1972 昭和47年 小学校入学
1975 昭和50年 10 小学校4年生:カープの存在を初めて知る 初優勝
1978 昭和53年 13 小学校卒業・中学校入学
1979 昭和54年 14 中学校2年生:江夏の21球 V2・J1
1980 昭和55年 15 中学校3年生 V3・J2
1981 昭和56年 16 中学校卒業・高等学校入学、お雇いブラスバンド部員として野球部の応援をする
1982 昭和57年 17 お雇いブラスバンド部員として野球部の応援をする
1984 昭和59年 19 高等学校卒業・大学入学、J3決定時は中国語の授業中 V4・J3
1986 昭和61年 21 大学3年、日本シリーズを第8戦まで戦う V5
1988 昭和63年 23 大学卒業・大学院進学
1989 平成元年 24 10月、今の職場に就職
1990 平成2年 25 大学院修了
1991 平成3年 26 あまり記憶にない優勝、日本シリーズは西武に負ける… V6
1996 平成8年 31 岡山にて半年生活、優勝を確信し周囲に自慢するが、もろくも失速…
1997 平成9年 32 9月にホームページを立ち上げ、「広島東洋カープ背番号の歴史」を世に問う
1998 平成10年 33 アメリカに3ヶ月遊学、「全球団に負け越し」をバークレーで知る
1999 平成11年 34 誕生日を期に「歴史知鯉学」を発表する
2000 平成12年 35 2000年を期に「背番号の館」を上梓する
 

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■カープの存在を初めて知る

私がカープの存在を初めて知ったのは小学校4年生の時のことです。広島の隣町に住んでいながら本当に知らなかったのです…。初めて本物のプロ野球選手を見たのはこの年の夏、広島市民球場でのこと。初優勝に向けて広島県全体が盛り上がりつつある最中で、根が単純な私はあっという間に騒動に飲み込まれて行きました。

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■江夏の21球

幸運なことに「江夏の21球」を生で見ることができました(テレビ中継ですが)。あの日のあの時間、私は塾に居たんですが、先生の配慮により塾のテレビで見ることができました。やはり印象的なシーンベストワンです。

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■甲子園の応援

中学校3年間ブラスバンドに明け暮れていたのを買われて、野球部・夏の甲子園予選の応援団にかり出される。しかし、組み合わせにめぐまれず(いきなり有名校と当たって)、初戦敗退。甲子園とは全く無縁。これまでも、おそらくこれからも。甲子園に行ける高校がうらやましい〜。がんばれ広島県立呉宮原高等学校!!

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■J3決定時は中国語の授業中

J3決定時は中国語の授業中。隣席の友人はラジオ観戦(もちろんイヤホンで)。逐一報告を受ける私。「優勝決定セール(いわゆるタダ酒)」を目的に街に繰り出すが…。手に(口に)できたのは無料の餃子1人前のみ。さすがにJ3ともなると、キビシイものです。以降この傾向は強まり、「祝勝」よりも「商魂(便乗商法)」の割合が高くなっていきました…。強すぎるというのも考えものなのです、やはり。

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■もろくも失速…

快調に飛ばす広島カープ。「この勢いなら優勝間違いなし」と「優勝したらみんなにおごります」と教室の皆さんに約束していたのですが…。7月初めの札幌シリーズ対巨人2連戦に2連敗。これが転落の始まりでした。それからずるずると後退。長嶋監督の迷言「メイクミラクル」が実現してしまいました。結構貧乏生活していたので、ちょと安心。

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■広島東洋カープ背番号の歴史

ホームページを始めるにあたって思いついた目玉が「広島東洋カープ背番号の歴史」。構想3秒、打ち込み1週間で初版は完成。ただし、1982(昭和57年)・1983(昭和58年)は空欄のまま。というのも、この時期はちょうど受験と重なったため(年表参照)。足りない年を補完し間違いを修正して、より完成度の高いもの(決して完全版・完璧版ではありません)になるには、さらに時間がかかりました。

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