陶芸講義「電脳陶芸」
第一回「カワラケの話」・第二回「貫入の話」・第三回「器の口の話」・第四回「道具の話」
第五回「窯の話」・第六回「窯の話その2」・第七回「窯の話その3」・第八回「陶芸と水」
「電脳陶芸」の第一回「カワラケの話」
皆さんが何処ぞのデパートや陶器市でお買い求めになる陶磁器は、大抵、高温焼成という1200度以上の温度で焼かれたものが殆どです。指で軽く弾いてみて「キ〜ン」という澄んだ音がしたらば、それは間違いなく高温焼成ですから、一度、お試しになると良いでしょう。
日本に於いて、古墳時代前期あたりに大陸から持ち込まれた、この高温焼成の技術は、陶芸における最も大きな技術革新であり、それによって、陶器の硬度は飛躍的に向上し、今日に至る日本陶芸史の産声が上がったといっても過言ではないでしょう。
では、それ以前の陶器はどのようなものかと言いますと、主に600〜900度程度の「野焼き」と呼ばれる、焚き火でイモを焼くのと同じ様な方法で焼成されていました。これは、現在の「素焼き」と呼ばれる温度域で、この状態ですと、器は、腕力だけで簡単に割ることが出来ますし、少量の水ならば瞬く間に素地が吸い込んでしまいます。
今日の生活から考えれば、器というには極めて辛い状態ですが、高温焼成が広まっていた中世でも、この素焼きの器、実は非常に使用され、京都や鎌倉などの都市遺跡では数トンという単位で発掘されるそうです。この器を「カワラケ」と言います。では、何故このようなカワラケが使用されたのでしょう?
一説には、これらのカワラケは現在の紙コップのような「使い捨て容器」として貴族の間で使用されたのではないか、といわれています。素焼きの素地は表面がザラザラしており、何かをのせて汚れが付くと、その汚れは素地表面のザラザラに入り込んで取れなくなるため、使用の有無がすぐにわかり、なおかつ使用後は細かく砕く事が出来るので捨て場所も省スペースです。豪華な生活をする貴族達にとって、それは、ごく自然な行為だったのかもしれません。
なんと、もったいない。と思うかも知れませんね。私も、最初はそう思いました。しかし、インドへ行った友人の話を聞いて、私はそんなカワラケの別な側面を見ることになります。
旅好きな私の友人が話してくれたところによると、インドでは水を買うと、素焼きの器で水を渡してくれるそうです。インドの人々はその器で水を飲み、飲み終えるとそれを地面に叩き付けて割ったり、車中では惜しげもなく窓からポ〜ンと捨ててしまいます。 「一体、どうして器をそんなに粗末に扱うんだ?」と友人が訊ねるたところ、「土から生まれたものは、土の神様に返す。これが自然な事だ。」とインドの人は言ったそうです。
なるほど、神が人と共にあるインドならではの考え方です。また、こんな話もあります。 日本からインドへの贈り物として、高温焼成の出来る窯をプレゼントすることになり、日本の陶工が現地で登り窯を作ったそうです。そして何年か後、その場へ視察団が赴いたところ、その窯は見るむ無惨なほど崩れ、雑草が茂って窯の痕跡を止めていないという状態でした。「どうして、こんなに良い窯を使わずに放っておくんだ?」と質問した視察団に対し、現地の人々は、「壊れない器を、我々は必要としていない。器は壊して、神様に返すべきものだ。」といって、結局、その窯は修理されなかったということです。
現代の我々の生活では、器は壊れないのが当然です。壊れないように器を使用し、壊れると高い金を出して何とか修理しようとします。むろん、それは器に対する愛着であり、物を大切にする精神の表れなのでしょう。しかし、器は壊れる。そして、壊れるからこそ、それは自然に帰してやらなければならない。その為には、壊れる器を作らねばならないという、それもまた、真実なのかも知れません。
中世に使用された大量のカワラケ。それは、使い捨て陶器であると同時に、まだ、人間と神様とが共にいたということの証明なのかもしれません。そして、神様がどこにいるのか分からない現代の日本には、やはり、カワラケも、カワラケを使用する心も、なかなか見つけることは出来無さそうです。
それを、文明の進歩と取るか、あるいは心の退化と取るか、それは、皆様におまかせしましょう。
電脳陶芸・第二回「貫入の話」
陶芸には様々な装飾技法がありますが、そのなかでも偶然をねらう装飾効果で最も顕著なものが、貫入でしょう。
本来、貫入は失敗品であり、素地の焼き締まりがあまい土などを使用して、この貫入が発生すると、どんなに処理をしても水漏れが止まらないといった場合もあります。しかし、それでもなお、人々は貫入の美しさに魅了され、場合によっては墨や弁柄を入れて、わざと装飾性を高めたりするのは、やはり貫入の「1/fゆらぎ」的な自然が作り出す美しさによるものなのでしょう。
昨今では釉薬の研究も進み、なぜ、この貫入が入るのか、あるいは、この程度の貫入を発生させるためには、どのような事をすれば良いのかを科学的に説明できるようになりました。(無論、未だ説明できない部分もありますが)貫入には大きく分けて2つの種類があり、一つを「貫入」もう一つを「シバリング貫入」と言います。しかし、それらの貫入が起こる原因は、いずれも素地と釉薬との膨張収縮係数の差によるものです。(つまり、素地と釉薬の膨張収縮(以下、膨張と略)の度合いの違いです。)
陶磁器には、素地・釉薬ともにガラスの成分であるシリカ(純粋なものは水晶ですね)が入っており、高温焼成によりシリカがガラスとなって、指で弾くと器は硬質なガラスのような音がする陶磁器が出来上がります。このシリカが原因で、器は基本的に573度を越えると一気に膨張率が高くなり、まるで深く息を吸うように器が膨張します。窯の火を止め、冷却時期になると、膨張はとまり、逆に息を吐き出すように器は収縮しますが(まるで、深呼吸をしているようですねぇ)、この時の収縮差で貫入は発生します。また、貫入は100年かけて完成すると言われており、私の家の貫入の入った作品も、いまだに、夜、私が寝静まる頃になると「キーン、キーン」と音をたてて貫入が入っているようです。
さて、次に貫入の出来方です。先にも触れましたが貫入には「貫入」と「シバリング貫入」の二つがあり、「貫入」は皆さんが最も眼にする機会の多いもので、通常、美しいと言われて珍重される貫入の多くは、このタイプのもので、代表的なものに粟田や仁清、白薩摩があります。この貫入は素地の膨張が小さく、釉薬の膨張が大きいときに発生します。つまり、下地が伸び縮みしないのに、表面が大きく伸び縮みするために起こるわけです。(特に、縮む時に発生します。)釉薬が薄くかかっているばあいは、それほど貫入は発生しませんし、美しいというよりは、ヒビが入っているような感じですが、厚くかかると膨張が助長され、複雑な貫入が発生し、二重貫入、八重貫入などの装飾的な貫入となります。
一方、「シバリング貫入」は、先の「貫入」とまったく逆の方法によって出来る貫入です。つまり、表面の釉薬の膨張が小さく、素地の膨張が大きいために起こる貫入で、貫入が大きく、何層にも重なって見える事が特徴で、代表的なものに、氷裂文と呼ばれる貫入があります。しかし、このシバリングの「粉々に砕け散る」という意味あいからも分かるように、素地と釉薬の膨張の度合いが度を越えると、器そのものが破壊するという恐ろしい貫入です。(恐ろしいのは壊れることではなく、それで文句を言われる作り手側の感想かもしれませんけども。
「貫入」では素地が痛むことはまずありませんが、「シバリング」の場合は、素地表面が非常に痛みます。それゆえに何層にも見える装飾効果がうまれますが、少々の衝撃や、電子レンジでの加熱によって、器が割れます。私も以前、陶土に藁灰系の珪酸釉をかけてカップを作ったときに、ある日突然、湯を入れている最中にカップが真っ二つになったときがあって、自分は超能力でも使ったかと吃驚したことがあります。あとで調べて、それがシバリングだとわかりましたが、これが私でなく、購入された方の家で起こらなくて本当に良かったと旨をなで下ろしました。しかし、これほどのシバリングは、自分で土を原料からブレンドしたり、釉薬を調合しない限りは、まず起こることではありませんから、大抵は氷裂文などの貫入装飾で止まるでしょう。
まぁ、いずれにしろ、貫入は素地と釉薬との膨張によって起こります。そして、その膨張率が非常に上手くずれた時に、美しい貫入となって表れるのです。窯の中で大きく深呼吸をするかのように作品が膨張収縮し、その後に美しい貫入を100年かけて作っていく。それを思い出すとき、器は時間の中で生きているんだなぁ、ということに、私は改めて感動せずにはいられません。
電脳陶芸・第三回「器の口の話」
器を作る際に、最後のキメで難しいのが「口作り」。湯飲みや茶碗で言うところの、口を付ける部分を「器の口」と言うわけですが、この「口」の部分を、どのように処理するかという事です。
切りそろえるか、作りっぱなしにするか、厚みはどの程度にするか、角度はどうするか、皮をあてる(皮で口を拭くと、丸みのあるキメの細かい口になります)か等々、およそ、この部分だけでも1晩や2晩考えても良いくらい、器の口をどうしたら良いか?というのは、苦労の種です。
口は、器を使用する際に、最初に目が行く場所ですし、それだけに、器の印象の殆どが、この口で決まってしまうと言っても過言ではありません。勿論、作る前から、それなりに口の形も考えてはいるわけですが、今まで頭の中で漠然とできていたイメージが、実際に土で形を作り始めて、立体となって現実に表れてくると、イメージとはまた違った感想も心に沸いて来るわけで、「本当はポッテリとしていて、外に広がった口にしようと思っていたけども、なんとなく、このシルエットだと、内側に巻いた方が良いかなぁ?」などと浮気心も出てくるわけです。
で、そうした口の多様さに合わせて(かどうかは知りませんけども)、口の形には様々な名前が付いています。中には、ちょっと太めで内側を向いた「姥口(うばぐち)」、口辺に切れのある口を「ベベラ口」などという、面白い名前もあります。
ところで、こうした口は、単に器のフォルムとの関係で作られるだけなのか。というと、実は、そうでもありません。特に、口の厚みと開き加減は、中にあるお茶や白湯などを飲む際の、飲み心地に大きく依存します。場合によっては、茶の味そのものを変えるほど強さを持ちますから、作り手はどういう形で、中の物を飲んで欲しいかという事にもある程度、気にかけるようです。(私は、あんまり気にしないけどもね。)
そう気付いたのは、昔、私が口の角度や厚みの研究をしようと思って、15種類程の口の異なる茶碗を作って、お茶(といっても、安い緑茶ですけども)を飲み比べた時。特に、気になったのは、飲む際の「ズリズリ〜」という音の差です。
西洋陶器のように薄目で開いた口の場合、お茶は自分から流れ込んで着ますから、音をたてなくても器を傾ければ自然と口の中へ入ります。逆に言えば、「茶を飲むぞ」という暇を与えない速攻とでも言えるでしょうか。当然、「ズリズリ〜」という音はたたず、湯が熱い場合は、「ズリズリ」する以前に、「あつっ」と言って、カップを口から話す事になります。
逆に、厚めで内側を向いた(前記の「姥口」ですね)抹茶茶碗のような口の場合は、前者程度の器の傾け方では、お茶が口に流れ込んで来ません。それゆえ、口元まで来たお茶は、飲む人間が吸ってやらないと口の中へ入らず、結果「ズリズリ〜」という音をたてる事になります。この時は、お湯が多少熱くても、ズリズリという空気との撹拌で温度が落ちます。
おそらく、この「ズリズリ〜」差加減で、お茶の味も多少は変わるのでしょう。後に、加藤唐九朗氏の書物で「この茶碗は茶が上手い。これは、不味い。」とか批評しておられるのを読んだときに、たぶん、口の作り方はが大きな要因なんだろうなぁ。などと思ったものです。
というわけで、今回は、器の口作りの難しさと、お茶の味は器を作る作り手の苦労にも依存するかもしれない。というお話でした。
電脳陶芸・第四回「道具の話」
大抵,工芸家と呼ばれる方は,それなりのというか,分野に付随した特殊な道具というのを持っています。
陶芸に於ても,「しっぴき」とか,「柄ゴテ」とか,陶芸を知らない方が見たら,これって小さい鞭?とか,孫の手の出来損ない?なんていう,妙な格好をした道具がいくつかあったりします。
話によれば,赤松から削りだしたものとか,馬の毛を編んで作ったとか,人それぞれに素材にこだわりがあるようで,そんな道具を調べるのも,また楽しいものです。
で,陶芸を始めたばかりの方が,道具にエスカレートすると,弁慶の刀のごとく,やたらと色々な種類,色々な材質の道具を買いあさるという状況になるんですが,実は,陶芸の道具の殆どは,非常に簡単に作れるものであり,かつ,身近にある料理道具や生活用品をそのまま使用できたりします。
私が愛用している道具の多くは,そうした日常の品物に手を加えたものだったりします。壊れたビニール傘は,その中でも非常に重宝する品物で,柄は「ポンス」という穴を開ける道具に,叩いて「剣先」という土用カッターになります。骨は叩いて「輪カンナ」という土を削る道具になります。また,ビニルの部分は,作品が乾かないようにかぶせておくのに使用できます。
それから,非常に重宝するのがストッキング。
鋳込みようの石膏の表面を滑らかにする時に,ストッキングは良く使用されますが,それだけでなく,削り仕上げをした後の,土の表面にも使えますし,釉薬が垂れた部分を削るヤスリの効果もあります。また,成形途中の器(特に磁器)を重ねる時に,傷がつかないようにストッキングを間に入れてクッションにしたり,削りの際の台(シッタと言います)にかぶせて使うと,器を傷めません。
ちょっとした使い方で,日常品は,すぐに陶芸の道具になるわけですね。
もっとも,一番,使うのは,料理道具だったりするんですけども。(笑)これは,何の加工もせずに,そのまま陶芸の道具になります。
話は変わりますが普段,陶芸教室では「道具は手の延長だから,道具を使う前に,まず手で何処まで作れるか道具に頼らずにやって下さい。」と言っていたりしてるんですが,その実,私は教室の道具を沢山作る事でも有名だったりします。まるで飴と鞭なんですけども,手には手の良さが,道具には道具の良さがあるわけで,そこを理解した上で道具を使って欲しいという事は,なかなか皆さんには伝わりません。
まぁ,それは良いとして,土を削る道具。カンナの話を少ししたいとおもいます。
土の種類にも大きく依存するところはありますが,同じ土でも削る道具の材質や刃の付き方によって,表れる表情は非常に異なったものになります。陶芸を始めた初心者の方は,とかく陶芸専門店で規制の道具を買う事に生き甲斐を生み出しますが,実は,専門店で売られている道具,特にカンナは,たぶん,運搬上の問題からだとおもいますが非常に刃が甘い状態になっています。
つまり,削れない状態,刃先が極端に丸くなっている事が多いわけです。本来は,買ってきた道具は,すべてヤスリで研ぎ直して使わなければ,その効果は出ないわけですけども,どういうわけか,お店の人は,そこまで教えてくれませんね。
ちなみに私が持っている,主に削るために使用する道具は,
・磁器用の超鋼カンナ
・傘の骨を叩いて作った手製のカンナ
・板金製のカンナ
・竹のヘラ
・柘植のヘラ
で,竹のヘラは刃先の角度,刃の厚みの違いで3種類あります。
竹と柘植のヘラは既製のものですが,やはり,刃先が甘いので,ナイフで削り,ヤスリをかけています。板金製は2週間に一度はヤスリで磨く事にしています。本来は,使う前にきちんと見るべきなんでしょうが,ロクロを頻繁に使う事が少ないので,それほど神経質には考えません。
他に,赤松の木が良いという話を聞いて,一度,作った事がありますが,竹製とあまり変わらないので(私の腕が悪いという話しもありますが),止めちゃいました。版画をやっている友人から,桜の木を貰った事もありますが,これも削るのが大変で挫折。という感じです。
竹と柘植のヘラの2本を残っているのは,竹の内側のザラっとした質感と,柘
植のツルっとした質感では,かなり削った時の印象が違い,特に,砂目の多い土には,この違いが如実にでるからです。
また,金属ヘラは非常に鋭利な切れ跡で,ひげそり跡という感じでしょうか。板金製と傘の骨製の2種類あるのは,削る際の土の硬さの違いによって使い分ける事が多いですが,大抵,私は土味を生かす事が多いので,もっぱら使用するのは竹製か傘の骨製で,土が軟らかいうちに削ります。
電脳陶芸・第五回「窯の話」
陶芸と言うと、ゴウゴウと炎がうなる大きな登り窯を相手に、松の薪を投げ込んでいる陶芸家の印象が非常に強いわけなんですけども、実際、最近の陶芸家というのは、かなりの大きな窯元さんでない限り、産地でもそうした窯で陶芸をやる方は少なくなりました。
窯にも幾つかの分類というものがあって、古代式、近代式、現代式などと分けられ、登り釜や半地下式穴窯などは近代に分類されます。それ以前のものが古代式で、古代と近代との最も大きな違いは、窯が地中式か地上式(半地下式)かという、窯の制作方法により、この制作方法の違いによって、窯の内容積や熱効率を格段に上げる事に成功しました。
現代窯は、焼成に使用する熱源が薪とは異なり、灯油・ガス・電気がその熱源で、これによりハイカロリーで窯の大きさも選ばず、酸化・還元・中性など自由な焼成が出来るようになり、多くの陶芸作家はこうした現代窯を使用しています。
ところで、熱源や窯の形状が変われば、当然、それだけ複数の選択肢が生まれるわけで、同じ土、同じ釉薬を使用しても、それらの炊きあがりは全く異なります。ちょうど、ガスと電気では、米の味が変わる用に、陶芸も窯に依存するところは非常に大きいわけです。
よく、「こういう色を出したいんですけども」と、作家の器を持て来て相談されることがありますが、土や釉薬を似せる事は出来ても、窯の焼きを似せるというのはどうしようもないわけです。まして、それが古陶磁などになると、なおさらだったりします。
古代窯と現代窯の差だけでなく、同じ現代窯でも、電気とガスでは、焼上がりはやはり同じにはなりません。
電脳陶芸・第六回「窯の話その2」
前回の話の続きで、「焼きの種類」の話をさせていただこうと思います。
窯にも様々な種類があるという話は、前回いたしましたが、それらの窯のすべては大別して2つの焚き方ができるようになっており、早い話が、陶芸での「焼く」とは、この2つの焚き方をどのように調整するか。という事に始終します。
ちょっと科学的な話になりますが、物が燃える為に必要な第一条件は「酸素」があることで、どれだけの酸素を供給するかという事は、物をどのように燃やすかを調整する際に、極めて重要なポイントとなります。昔の理科の実験を思い出していただけるとありがたいんですが、木片を燃やす際に、酸素を十分に送ると白い灰になり、酸素の供給を行わないと黒い炭ができますね。陶磁器もこれと同じで、酸素の量の多少により、大きく色が変わってきます。
本当は、金属と酸素との分子レベルの結びつきという事が色を考える上では重要な事んなのですが、そこまで話をしてしまうと、非常に頭が痛くなりますので、とりあえず、酸素の量の違いで、陶磁器の色はかなり変わると覚えておいてください。
で、陶芸では酸素の供給を行う焼成方法を「酸化(OF)」、酸素の供給を行わない焼成方法を「還元(RF)」と呼んでいます。この2つが、最初にお話しした「焼きの種類」です。
大抵の場合、焼成は酸化か還元かの2つで言われますが、実際の窯焚きでは、完全な酸化や還元という焚き方は無理で、これら二つの焚き方の割合の多い方をとって、酸化や還元と言い、逆に、陶磁器に深い色合いを出す為には、通り一遍の酸化や還元といった焚き方ではなく、この2つを時間や温度域によって、微妙に変えていくのが必須条件といっても過言ではありません。
また、これら酸化や還元の酸素量の調整を「火のかかり具合」と表現しますが、陶芸家にとって、このかかり具合ほど、難しいものはありません。
特に、薪を使う古代・近代窯、ガスや灯油などの現代窯は、実際に炎を作品に当てて酸素の供給を調節しますから、窯の中の作品の大きさや置き方、作品どうしの隙間や使用している土や釉薬の種類など、その時の状態によって、炎を操作する勘は、まさに職人技といえます。
普段、何気なく使っている陶磁器ですが、その色や焼きしまりには、そうした作家の炎との葛藤があるわけです。
電脳陶芸・第七回「窯の話その3」
今回は、酸化と還元は、窯によって調節の仕方が異なるという話です。
窯の話第一回でもお話しましたが、現在では窯の熱源として、様々なものが使用されるようになりました。大別すると「炎を出すタイプ」と「炎を出さないタイプ」に分けられ、更に炎を出すタイプは「熱源が連続して供給できるもの」と「連続供給できないもの」の2つに分けられます。
炎を出さないタイプは「電気窯」で、この窯の場合、スイッチを入れると窯の温度が上昇し、何も手を加えなければ酸化焼成になります。還元を行う場合は途中からガスを注入したり、窯詰めの際に炭を作品と一緒に入れておくなどの操作が必要になります。
炎を出すタイプは、薪窯(穴窯や登り窯は、このタイプです)やガス・灯油窯などがあります。この中で、ガスや灯油窯は、熱源の連続供給が出来るもの。薪窯は、出来ないものです。
ガスや灯油は、火を入れると常に窯にカロリー供給を行い、よほどの操作をしない限り、温度は常に上昇します。また、酸化や還元は、炎と同時に混入する空気の供給量を弁で調節し、簡単に窯の雰囲気を変える事ができます。
薪窯は、放っておくと薪が燃えて火が鎮火してしまいますから、人間が常に薪を投入しなければなりません。また、薪窯では、薪を投入した直後は、薪が着火して多量の煤が生まれるために、窯は還元になり、発生した煤が燃えて炎が安定すると酸化に変わります。つまり、薪の窯では、燃料を供給する度に、還元→酸化という変化が常時起こっています。
酸化と還元の調節は、薪の投入間隔が重要なポイントになり、これが職人技と呼ばれるもので、昔は、この火の調節だけを行う「焚き師」と呼ばれる人がいたほどなのです。
更に、薪やガス・灯油の窯には煙突が付いており、この煙突から不要な熱を放出させます。窯と煙突とを結ぶ熱や煙の通り道を「煙道」と言いますが、炎を出すタイプの窯では、この煙道の開き具合を調節することも重要になります。
煙道を閉じると熱は窯の中に残り、また、窯の酸素が完全燃焼して、窯の中は酸欠状態になって還元雰囲気になります。逆に煙道を開くと、熱は逃げますが、同時に新しい酸素も供給されるので、窯の中は酸化雰囲気になります。
炎を利用する窯は、このように、熱源の供給と煙道の調節で、酸化と還元を調節します。
窯の話の最初で、焼成に使用した窯が異なると、同じ焼上がりの作品を作るのは至難の技だという話をしたのは、こうした理由があるわけです。自分が作りたい作品は、どの窯を利用すれば良いのか。その選択を行う事も、陶芸家にとっては重要な事で、薪の窯が欲しい方は、都心では作陶出来ませんし、逆に、電気やガスのような熱源を使うなら、都心で作陶を行うのが効率的です。作風によって、居住空間も変化すると言うわけです。
昔は、良い土を求めて、陶芸家は居住を考えました。宅配便によって、日本各地の、世界各国の土を購入することが出来るようになった現代においては、窯を求めて、居住区を移り住むという陶芸家も少なくありません。
電脳陶芸・第八回「陶芸と水」
かなり陶芸歴の長い方でも、水の扱いに最新の注意を払っていらっしゃる方は少ないように思います。
確かに作陶方法は千差万別、個人が好む方法でやることに間違いは無いわけですが、もし、あなたが「土の味」「土のキャラクター」という陶芸らしさを大切にするならば、あるいは、もう少し、造形に対する厳しさを欲しているならば、作陶というものの根本にある水の扱いにつて、少し、注意をしてみる必要があるでしょう。
陶芸初心者のみならず、水を使うタイミングや、水を使う量に注意を払う事の重要性が、どういうわけか、現在の陶芸では稀薄です。とりあえず綺麗な形が欲しいという理由で、むやみやたらに水を使って表面をなでる人。逆に、作品に水を付けるのも忘れてロクロを挽き、作品がねじれると嘆いていらっしゃる人などは、その良い例かもしれません。
水は、カンナやヘラ以上に、土の性格や形態のリズムを左右する「最も重要な道具」だと、私なんかは思っていたりすのですが、「土の硬さ」や「乾燥の仕方」という言葉は出てきても、その根本たる「水」については、殆ど説明がなされていません。
陶芸における水というのは、陶芸家がまず語る事のない事項であり、技術がオープンになってきた今日の陶芸においてもなお、作家の思考の中では、秘伝に属するものだと言っても差し支えないでしょう。あまりにも、当たり前にあるが故に、言葉にしない領分と言えるかもしれません。
作陶に必要な粘土を構成しているものは、大きく分けると「粘土粒子」と「水」です。当たり前ですが、粒子は固体です。そして、この粒子を繋ぎ、また動かす役目をしているのが液体の水です。潤滑剤として水が粒子に働きかけ、固体の粒子は自由に動くので、我々は、粘土を使って好みの形を作る事ができるわけです。逆に言えば、潤滑剤としての水を、どれだけ利用するかによって、我々は、作品の作り易さや、欲しい形の雰囲気というものを調節することが出来るわけです。
水が多ければ、粒子の流動性は大きくなって、なめらかなテクスチャーを得る代わりに、形は不安定な要素が強く出てきますし、反対に、水が少なければ、粒子の流動性は小さくなり、力を加えることで亀裂が生じ、形は荒々しい要素が強く出てきます。
また、水は、最終的に蒸発して無くなってしまうものですが、裏を返すと、水をどれだけ含んでいたかが、土の収縮率や密度に大きく関わってくるとも言えます。
土に水を加えれば、土は水を吸い込み、粒子間の距離が大きくなって、密度は粗になります。やがて、水が蒸発すると、無くなった水の体積分だけ形は小さくなろうとして、収縮率が大きくなります。
この時、あまりにも率が大きくなると、亀裂が生じたり、形が歪んでくるわけです。
板皿を作って、乾燥中に歪むとか、亀裂が入るという作品の原因には、皿の表面をなめらかにするために、必要以上の水を与えていたり、土練りが出来ていないために、粘土中の水分量が不均一になっている事が原因になっているものが少なくありません。
しかし、この収縮率の違いを上手く利用し、わざと、歪む事の面白さを強調した作品というものもありますから、一概に、水分が多い事が悪いわけではありせん。
面白い、あるいは土味があると言われる作品は、このように、水の使い方に工夫がこらされており、決して、上から下まで、同じ水の使い方をしているわけではありません。胴のあたりは水を少な目にして土のザラっとしたテクスチャーを生かし、口元は少し水を多く含ませて、土の軟らかさを演出するなど、一つの器の中にも、様々な水の使い方があるわけです。
現在、作陶をされている方は、もう一度、自分の水の使い方を確認してみてはいかがでしょうか。また、和食器を鑑賞するのが楽しみの方は、そういう方向から、もう一度、自分の家の食器を眺めてみるのも、楽しいかもしれませんね。
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