悪 夢〜10〜



「ん?・・・・」
 狭くなった視界の中で月が動いたような気がした。しかし服用した睡眠薬のせいか、それが確かだったかどうかは分からない。
 蛯原は深く考えずに大きく深呼吸をした。
「ママ・・・・・」
「ひっ!」
 幻視の次は幻聴か。聞き覚えのある赤ん坊の声が蛯原の耳元で聞こえた。
 蛯原はカッと目を見開き、ベッドの上に身体を起こした。間違いなく今声が聞こえた。しかも自分の耳元で。
 蛯原は恐怖に縛られた身体を無理矢理動かすように、声のした方向へ首を捻った。
 そこに・・・「それ」がいた。
「うわああああっ!」
 声の聞こえた場所には生まれたばかりの赤ん坊が横たわっていたのだ。赤ん坊の身体は赤黒く、時間と共に皮膚が醜く爛れていく。
「ひぃいいいっ!」
 まだ完成しきっていない米粒のような眼球が転がる。苦しそうに開かれた口の中から、やはり米粒のような小さな歯がボロボロと落ちる。苦しみから逃れようとすると不気味な手の動きは、着実にベッドを掴み、後ずさりする蛯原を追ってきた。
「止めろ・・・来るな!来るなよっ!」
 キィイイイイと言う虫が発するような声が響く。蛯原は後ろへと後ずさる。
 ふと奇妙な視線を感じて左側を見た。蛯原の左側は窓になっており、綺麗な満月が浮かんでいるはずだが・・・・。
 その満月を見て、蛯原は更に凍り付いた。
「あああ・・・あああああああっ!」
 先ほどの歪みが速度を増し、満月が奇妙な形へと変わっていく。中央付近に二つの割れ目が出来、その下に緩やかな山を描いた線が描かれて行く。やがてその割れ目と線はパックリと開き、その姿が明らかになった。
 それは満月ではなかった。人間の、女の顔だったのだ。
「うわあああああっ!なんなんだ、これは一体なんなんだっ!ああああっ!」
 蛯原はベッドから転がり落ちた。窓に映る満月・・・いや女の顔は蛯原を捕らえている。大きく開かれた口からはゴオオオと言う不気味は音を立て、今にも襲い掛かろうとしているのが伺える。
「あああ・・・あああ・・・助けてくれ」
 蛯原は勢い良く立ち上がると、おぼつかない足取りでドアを開き、喚き散らしながら外へと出て行った。
「だ、誰かっ!殺される・・・助けてくれ」
 もはや眠気など感じなかった。あるのは恐怖のみ。この怪奇現象そのものも恐怖だが、満月だった女の顔は見覚えがあった。
 そう。ビル作業員焼死事件で現場から飛び去った、人間の姿をした邪悪な怨念そのものだったのだ。
 蛯原は走りながら背後を振り返った。
「ひぃいいいいいいいっ!」
 走る蛯原の真後ろから女が追ってくる。しかも、あるのは顔だけ。首から下の無い頭部だけが蛯原のすぐ背後まで迫って見える。その姿は眼球に焼き付いてしまったように、その後ろにある景色が透けて見えた。
「来るな・・・来るな・・・来るなあああ」
 計り知れない恐怖が蛯原を破壊した。視線を向ける先々に、憎しみで溢れかえった女の顔が見える。思い切り瞼を閉じても決して消えず、両手で目を擦っても闇から「ぬっ!」と顔を出し、その顔が蛯原の脳裏に記憶されて行く。
「あああ・・・目が目が悪いんだ・・・そうさ、この目が悪いんだよな・・・そうさ、こんな目・・・この目が悪いんだっ!」
「蛯原さん!」
「どうしたんですか!」
「止まりなさい」
 異変に気付いた数名の看護師たちが蛯原を追って来る。蛯原は振り返り、看護師たちを見た。
「あああ・・・なんで・・・なんでだよ」
 発狂した蛯原の目には、それは看護師に映らなかった。自分の背後から全身血塗れの女が走ってくる。右手に焼き殺された赤ん坊を抱えて。
「こんな目・・・こんな目っ!」
「蛯原さんっ!」
「止めるんだっ!」
 蛯原は上へと続く階段の上で腹ばいになり、頭を後ろへ下げると、渾身の力を込めて顔面を階段の角に叩き付けた。
「ぎゃああああっ!」
 ゴンと言う鈍い音と共に、蛯原の眼球は完全に打ち砕かれた。
「この目があるから悪いんだ・・・あははは、そうさ。目のせいだ」
 かつて眼球のあった場所から大量の血がシャワーのような噴出した。
 蛯原はもう一度頭を後ろに下げ、両手を階段に着き、跪きながら再び顔面を打ち付けた。鼻の骨が折れ、グシャッ!と言う嫌な音が階段に響く。蛯原の目じりは大きく凹み、夥しい血液が階段へと流れて行く。
「止めるんだっ!」
「あああ、なんてことを!」
 駆けつけた看護師が何とか蛯原を抑えようとする。だが正気を失い、狂人と化した蛯原の力は尋常ではない。羽交い絞めにしようとする看護師たちの腕を振り解き、何度も何度も顔面を打ち付けた。
「どうだ、これでもう見えないぞ・・・あはははは、真っ暗闇だ。あひゃひゃ・・ひゃひゃ・・も、もう見えない・・あははは」
 蛯原の目から流れた大量の血液は、階段の下へと伝って行く。まるでお化け屋敷の血塗られた階段のように。
「これで・・・これで大丈夫・・・もう見えないぞ・・・ひゃひゃひゃ・・・ああ・・・あああああ・・・・・どうして・・・」

 もう見えないはずだった。
 だが蛯原は心臓が止まる瞬間に見てしまった。
 薄れ行く意識の中で、真っ暗闇から這い出てきた血塗れの女が、蛯原の頭を掴んだ。




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