悪 夢〜12〜



時刻は十七時を過ぎた。
今日はいつもより早く時間が流れたような気がする。ついさっきまで授業を受けていたのだが、その内容はまったく頭に入らず、ただただ時計と睨めっこをしていたような気がしてならない。明日までに提出しなければならない課題がいくつかあるのだが、詩織はまったく手を付けていなかった。一連の事件に関する疑惑が常に脳裏をかすめるため、勉強に集中できない。これで運動系の部活にでも所属していたら、他の部員に迷惑を掛けていただろう。どこの部活にも属していない分、その辺は救われた。
課題をやることを前提にずっと置きっぱなしになっていた教科書を鞄に詰めるが、それも無駄な事だと詩織は思った。今日はまだ終わりではないのだ。この後、市内の喫茶店で今朝知り合った沖菜と会う事になっている。学校よりもむしろ沖菜と会うことの方が今日一日のメインイベントのように思えた。
教室を後にしようとすると、数名の友人がカラオケに行かないか?と誘ってきた。詩織は適当な理由を作って、当たり障りの無い口調で断わった。友人たちは「また今度ね」と言いながら楽しそうに帰って行く。詩織はほっと胸を撫で下ろし、教室を出た。
友人たちから誘われる事は良くある。本来ならば学校が終わった後の遊びと言うのは高校生ならではの醍醐味である。こういう習慣は学生のうちにしか経験できない事だ。そういう意味では積極的に参加した方が良いのだろうが、実際のところ詩織はあまり多くの人間と騒ぐのは好きではなかった。幼い頃に父親を病気で亡くしている詩織にとって、今時の学生と言うのは自分とは異質に思えたのだ。幼少期の頃から人が死ぬと言う逃れられない悲しみを体験している詩織は、普通の女子高生と比べて少々冷めた部分もあった。逆に言えば大人びているという事にもなるのだが、他の友人のように馬鹿騒ぎをする事に楽しさは見い出せなかった。
身長百六十七センチと女にしては背の高い詩織は、整った目鼻立ちと落ち着いた雰囲気を持っているため、男子生徒からも人気があった。高校に入って既に四人の男子生徒から告白を受けている。ただ詩織の方から告白した事は一度も無く、務めて受ける側なのだが。十八歳と言う年齢を考慮しても、彼氏が出来てもおかしくないのだが、詩織は四人全ての告白を断わってきた。別に興味が無いわけでも、嫌いなわけでもない。ただどうしても男子生徒が子供に思えてしまうのだ。
この年代は特に男子と女子の精神年齢に大きな差が生じる時期だ。最近の結婚傾向を見ると、結婚する年齢は、男性は主に三十代前半に多い。一方女性はと言うと二十代前半が最も多いと言うデータが発表されている。つまり十八と言う年齢を二十代前半と言う集計結果に照らし合わせると、残りニ、三年で結婚すると言う事になるのだ。勿論、それにはそれ相応の相手が必要だが、例え独身であっても、男より女の方が早い時期から結婚を意識するという事になる。この辺が女は現実的と言われる由縁だろう。この集計データからすれば、男の十八歳など、まだまだ子供という事になる。
詩織は自分でも同い年の異性とは合わないだろうと思っていた。事実、男子生徒と話はするものの、その内容はやはり子供染みているように思えてしまう。そのため男子生徒と遊びに行く事よりも、自分だけの空間で好きな事をしていた方がよっぽど楽しかった。
学校の玄関で靴に履き替えると、詩織は小走りで正門を出た。いつもは学校に置きっぱなしの教科書が鞄にあるため、その分重く感じる。そうなると必然的に歩く速度も落ちる。詩織はやはり置いておくべきだったと後悔した。
約束の喫茶店に着くと、詩織は店の前で息を整えた。今日知り合ったばかりの男に、焦って来た事を悟られたくなかった。一呼吸をいて店のドアを開け中に入った。
約束の時間は十七時半。今日は平日で学校があるため、終わってから話そうという事になったので、この時間が約束の時間となった。まだ十七時半を回っていないにも関わらず、沖菜は既に到着しており、窓側のテーブルでマグカップを口に運んでいた。詩織の存在に気付いた沖菜は、軽く手を上げた。
「さすがに刑事さんともなると、時間は絶対厳守なんですね」
 詩織は席に着きながら言った。
「わずかな時間の遅れが事件解決の余地を消してしまう場合もあるからね。学校も同じだろ。遅刻は良くない」
「まあそうですけど。最近はルーズな人たちが多いから」
「時代が時代なら人も人って事か」
 詩織はウエイトレスに紅茶をオーダーした。
ウエイトレスは「かしこまりました」と言って笑顔で去って行った。
 オーダーした紅茶が来るまでの間、沖菜の目の前に居る詩織は運ばれてきた水を口に含んだ。少々緊張しているのだろうか、先ほどからなかなか目を合わそうとしない。詩織は店内を見渡したり、窓の外を見たり、視線が慌しく動いている。沖菜は改めて詩織を見つめた。
 肩まで伸びた黒髪が瑞々しく、凹凸のある目鼻立ちは実年齢よりも落ち着いた雰囲気を感じさせる。喋り口調も少々きつい部分はあるが、発音がはっきりしており、物腰が落ち着いている。それでいて口数は少なく、知的な雰囲気を感じさせる詩織は、どこか妹の麻衣に似ていた。そう、沖菜には妹がいた。
 沖菜の妹、麻衣の存在は、沖菜を刑事にさせるほどの大きな存在だった。麻衣の存在、そしてその死がなければ、彼は刑事にはならなかっただろう。
 今から八年前、妹の麻衣は帰宅途中に通り魔に襲われ殺害された。犯人はその場にいた数名の住民によって捕らえられ現行犯逮捕され、今も刑務所で服役中である。麻衣は学校からの帰り道、背後からナイフで心臓を刺され、ほぼ即死状態だった。指された場所があまりにも的確で、出血が少なかったほどだ。逮捕された犯人はムシャクシャして刺したと供述している。
 家族を失った沖菜家は悲観に暮れた。母親は泣き叫び、父親はあまりのショックで鬱病になってしまった。そして当の沖菜自身は、自分の無力さを本気で呪った。麻衣の搬送された病院で、何一つ出来ぬまま妹は永久の眠りに着いたのだ。自分の手の中で冷たくなっていく妹の手。あの時の感触を忘れた日は一日とて無かった。
 男として、そして兄として妹を守れなかった悲しみ。その悲しみは「二度と繰り返させない」と言う闘志に変わり、沖菜を刑事にさせる糧となった。
 当時十八歳だった麻衣は今の詩織と同い年だ。思い返せば麻衣も喋り口調が少々きつかった記憶が残っている。自我の強い妹で、一度言い出したら聞かない性格ではあったが、その分責任感が強く、己の意志を貫くたくましさを持っていた。今十八の麻衣が詩織と出会ったらさぞ仲良くなるだろう。もしかしたら親友になっていたかも知れないと沖菜は思った。
「蛯原さんはその・・・・亡くなったんですか?」
 詩織は言葉を選び控えめに切り出した。沖菜も返事をしようとしたのだが、ちょうどその時、ウエイトレスが詩織のオーダーした紅茶を運んできたため、沖菜は思わず口を閉ざした。「ごゆっくりどうぞ」と去って行くウエイトレスを眺め、沖菜は静かに喋り出した。
「ああ。ただ自殺なのか事故なのか、今のところ分かってないんだ。事件を目撃した看護師たちの証言では、蛯原さんは自分の意志でやったと言っている。これから本格的な捜査が始まるだろう。そうすればいろいろと分かってくるはずだ」
「そうですか・・・・」
 沖菜はコーヒーの入ったカップに手を伸ばした。いくら一度とは言え会った事のある人間が死んだという事実が、詩織に暗い影を落としているようだった。
「それで、単刀直入に聞くが・・・」
 沖菜がそう言うと、紅茶に手を伸ばしかけていた詩織の動作がピタリと止まった。
「君はどうしてこの事件に関心を持っているんだ?」
 沖菜の言葉に詩織はしばし口を閉ざした。本当に話してよいものかどうか判断しかねると言う表情を浮かべている。
「女子高生惨殺事件で私の親友がその犠牲になったんです」
「そのようだね。蛯原さんがそう言っていたよ」
「だけど私、納得行かないんです。どうして真理亜があんな状態で殺害されたのか。警察は精神異常者だって言っているけど、信用できない。とてもそうとは思えないんです」
「どうやらいろいろと事情があるようだね。話してくれないか?今までの経緯を」
「実は・・・・」
 そう言うと詩織は今までの事を静かに語り始めた。多少感情交じりではあったものの、沖菜は黙って詩織の話に耳を傾けた。
「その解約したはずの真理亜さんの携帯から届いた画像と言うのは?」
「これです」
 詩織は保存しておいた画像を開き、沖菜に渡した。画像を見た沖菜は意味が分からないと言った表情で困惑している。無理も無い。詩織でさえこの画像がなんなのか分かっていないのだから。
「それに、真理亜が殺された状況だっておかしい」
「と言うと?」
「だって変じゃないですか。真理亜が殺された場所は彼女の部屋なんですよ。ドアには鍵が掛かっていて密室だったって聞いてます。本当に外部から室内に侵入したなら、家族の誰もが気付かなかったなんてどう考えてもおかしい。それに警察が言うように犯人が異常者なら、一体どうやって彼女の部屋に入って内側から鍵を掛けて出て行ったんですか?外部から侵入された形跡は無いのに、どうしてそんな事が出来るの」
「しかし・・・・」
 詩織の話した事は沖菜自身が疑問に思っている部分とほぼ一致した。事件当時の状況から考えて、外部から侵入した可能性は極めて低い。にも関わらず彼女の部屋に侵入し、どうやって内側から鍵を閉めたのか。この部分は警察内部でも謎のままになっている。
 更に詩織は自分の身に起こった怪奇現象も打ち明けた。真理亜が夢の中で奇妙な事を言っていた事。真理亜の携帯電話が紛失し、その日の内に彼女の母親が解約したにも拘らず、その後も奇妙な画像付のメールが届いた事。犠牲となった真理亜が殺害される前日の夜に、ビル作業員少子事件が発生している奇妙な偶然。一度目のメール受信時間と、二度目のメール受信時間がまったく同じ時間だった事実。更にその後着信音が響き、受話器越しに悲鳴にもにた断末魔を聞いたこと。学校のトイレで「ママ」と言う声を聞き、その直後に血塗れの女を目にした事。蛯原に会いに言った際、現場から人間の姿をした怨念のようなものを目にしたという話を聞いたこと。そして交通事故を起こした田村が事故現場で血塗れの女を目撃した事実を。
 詩織は今まで閉じ込めていた感情を一気に押し流すように喋り立てた。本当は自分だって怖い。話したいけど話しても信じてもらえそうに無いと言う不安感が、ずっと詩織の心の奥にあったのだろう。
 一通り話し終わると、詩織の頬は涙で濡れていた。
 沖菜は詩織の本当の姿を見たような気がした。口調がきついのは単に性格から来るものではない。我が身に降りかかった恐怖に負けまいと、必至で自分を奮い立たせ、気丈に振舞っていただけなのではないか、と。大人びているとは言えまだ二十歳にもならぬ女子高生だ。きっと心の底から震え上がるほど怖かったに違いない。
「すいません」
「いや、気にしなくて良い。それだけの事を体験していれば誰でも辛くなる」
 ハンカチで涙を拭う詩織に沖菜は言った。
 詩織の証言によって様々な事実が明らかになってきた。詩織の体験した怪奇現象の全てを信じることは出来ないが、生前の蛯原が口にしていた「人間の姿をした怨念」と言うのがずっと引っ掛かっている。人間ではない、霊的な力が関与しているとは考えたくないが、そこに詩織の体験した心霊現象を重ねると、その可能性がゼロではないと言うざるを得ない。幽霊などと、そんな存在を信じたくは無いが、念頭に置かないわけには行かない。不可思議な何かが関わっていると思っているのは沖菜も同じだった。



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