悪 夢〜13〜



「今朝方、君と会ったときにも言ったが、この一連の事件には常識では考えられない何かが関わっているように思えてならない」
 詩織は顔からハンカチを離した。どうやら多少落ち着いたらしい。
「刑事さんでもそういうの信じるんですか」
「全て信じたわけじゃない。ただ、何かこう不穏なものを感じると言うかね・・・。それと、気になる事が実はもう一つあるんだ」
 詩織は真剣な表情で沖菜を見つめた。
「一連の事件の後、市内で交通事故が起こったのは知っているね?君が尋ねた田村と言う男だが」
「ええ、知ってます。実際に現場へ行きましたから」
「その時に同乗した田村の同僚、高野俊樹が行方不明になっていて、家族の人たちから捜索願が出されているんだ」
 初耳だった。確かに田村は同乗していた友人と連絡が付かないとは言っていたが、まさか警察に捜索願が出されるほど深刻な事態になっているは思っていなかった。
「それってどういうことなんでしょうか。事件と交通事故は何か関係があるとか・・・」
「なんとも言えないね、現段階では。ただ蛯原が死亡した事で、この事件に関与していた人物全てが死んだ事になる。田村が事故を起こしたときに見たと言う血塗れの女が、一連の事件全てに関わっているとなると・・・」
 それは恐ろしい想像だった。
「高野と言う人が行方不明になっているのも偶然ではないという事ですか?」
「あくまで仮想だがね」
「だけど事故を起こした田村さんは無事です。別におかしな様子はなかったけど」
「あくまで仮説さ。僕だって本当は信じたくないからね」
「だけどそれを言うと、私たちもですね」
「えっ?」
「この事件に私たちは関わっているじゃないですか。現に私は血塗れの女を見てしまっている。血塗れの女が共通点だとするなら、この先どうなるか・・・・」
 沖菜の顔は真っ青になり、血の気が引いていくのが分かった・・・。

車のエンジンを切ると、今日一日の疲れが津波のように押し寄せる。深々と座った座席に頭を寄り掛け、しばらく目を閉じた。マンションに備え付けてある駐車場は建物の中にあり、エンジンを切ると五月蝿いほどの静寂が広がった。立て続けに起こる事件の追われ、家に帰るのは三日ぶりになる。沖菜は目を開くと、助手席に置いたコンビニの袋を手に取り、外に出た。
 時刻は既に二十三時を回っている。秩父市の郊外に位置する沖菜のマンションは、この時間になると不気味なほど静まり返る。住んでいる住民たちは高齢者が多く、そのほとんどは早い時間に寝てしまう。そのため夜になると、昼間のように足音を気にせず歩く事はマナー違反だった。とりわけヒールの高い女性の靴などは、静寂にけたたましい騒音をかき鳴らす事になる。このマンションの住む人たちは「夜は静かに歩く」と言うのが暗黙のルールとなっていた。
 疲れ切った動作で鍵を開けると、崩れるように中へ入った。広さ2DKと言うこの部屋は一人暮らしの人間には十分すぎるほどの広さだ。本来ならばワンルームなどのアパートでも良かったのだが、そう言った部屋は全て学生や一人暮らしの老人で埋まっていた。それなりの広さを誇り、家賃もまずまずの部屋。男の一人暮らしらしい質素な城だったが、沖菜はそれなりに気に入っていた。
 電気のスイッチを入れ、テーブルの上に鍵とコンビニの袋を置く。冷蔵庫から清涼飲料水を取り出しマグカップに注ぐと、沖菜はそれを一気に飲み干した。つつましいながらもやはり我が家は落ち着くものだ。
 テーブルに備え付けられている椅子に座りテレビを着けた。時間的にほとんどのチャンネルがニュース番組だった。某有名局に回すと、一連の事件に対する特集番組が流れており、所々で見知った場所が映し出された。数名のキャスターが伝える事実は、ほとんど新聞などで伝えられているものばかりだった。それもそのはずだ。事件に進展は無い。それは刑事と言う職業を持つ沖菜が一番分かっている事だった。
 ニュースを着けたまま袋の中から買ってきた弁当と缶ビールを取り出す。弁当は温めてもらったが、かなり時間が経過しているため、生温くなっている。改めて温め直そうかと思ったが、止めた。もう動く事さえ億劫になっている。缶ビールを開け、温くなった弁当を頬張った。
 決して美味しいとは言えない弁当を食べながら、沖菜は昼間会っていた詩織の事を思い出す。今時の女子高生と比べるとかなり大人びている印象を持つ詩織の姿は、どうしても今は亡き妹の麻衣と重なって映った。今頃彼女は何を思っているのだろうか。決して強靭ではない精神力で想像を絶する体験をたった一人で味わってきたのだ。ましてやその事実を誰にも話せず、ずっと胸のうちに仕舞っておいた。昼間、詩織が言っていた言葉を思い出した。
「この先どうなるのか・・・・・」
 まさかその血塗れの女に呪い殺されるとでも言うのだろうか。そもそも事件の主犯は本当に霊的なものなのか。その有無さえまだ不透明なままだ。かと言って異常者と言う説はもっと薄い。
 職業上、沖菜は常に危険と隣り合わせで生きているが、彼女は、詩織はそれではない。まだあどけなさの残る高校生だ。詩織が妹の麻衣と重なってしまう以上、沖菜はどうにも放って置けない感情に駆られた。万が一の事を考えると、麻衣のときと同じ悲しみはもう嫌だった。
 疲れていたせいか激しい酔いが回った。あまり酒に強い方ではなかったが、缶ビール一本くらいで酔う自分ではない。しかし、三日ぶりの帰宅と言う緊張感の途切れが、沖菜の身体に疲労の重圧を加えていた。まだ風呂にも入っていない。寝るにはまだ早いのだが、沖菜はたまらずテーブルに伏せた。心地良い眠りの誘惑が浸透した。
 ふと気付くと誰かの気配を感じ、沖菜は顔を上げた。そこは何の変哲もない我が家。気のせいかと思い、周囲を見渡すと、部屋の隅に誰かが立っていた。沖菜に背を向けているため顔までは分からないが、それが妹の麻衣である事に沖菜はすぐに気付いた。
「麻衣、麻衣なのか・・・」
 沖菜は立ち上がって麻衣に近づいた。だが歩き出した瞬間、周囲を照らしていた明かりが全て消え、漆黒の闇が訪れる。それでも麻衣が立っている場所だけはスポットライトを浴びているように明るく輝いている。
「麻衣・・・・・」
 沖菜がそう言いながら更に近づいた。背を向けている麻衣は次第に動き出し、沖菜の方へ振り返ろうとしている。その動作は酷く鈍く、スローモーションのような映像だった。
 しかし麻衣の身体は突然ピタリと動きを止めた。
「麻衣」
 再び沖菜が声を掛けると、今度は麻衣の首だけが静かに動き始めた。
「あ・・・あああ・・・・・」
 首から下は一向に動かない。しかし首だけがゆっくりと沖菜の方へ振り返ろうとしている。それは有り得ない現象だった。首だけがまるで骨を失ったように180度回転しようとしているのだ。
「お兄ちゃん・・・・」
 機械を通した低い声と共に、麻衣の首だけが沖菜へ振り返った。
「あああ・・・ま、麻衣・・・」
 その顔は沖菜の知っている麻衣ではなかった。顔は血塗れで所々が酷く歪んでいる。眼光は鋭く、凄まじい憎しみに溢れかえった形相で沖菜を睨み付けたのだ。
「う、うわああああああっ!」
 飛び跳ねるように目が覚めると、沖菜の心臓はとんでもない鼓動を打っていた。それはいつもの風景。見慣れた我が家だった。
「ゆ、夢か・・・・・」
 なんという悪夢だろう。時間にすれば短時間だったのだろうが、沖菜の身体は汗で濡れていた。
「勘弁してくれよ・・・」
 沖菜は髪の毛を掻き揚げ、気分が落ち着くのを待った。
 その時、沖菜のいる部屋の隣・・・寝室でゴトンと言う音が響いた。
 沖菜は咄嗟に立ち上がった。そして身体に緊張が走る。帰宅した刑事に警棒や銃は無い。あるのはこの肉体のみ。沖菜は万が一の場合、すぐに攻撃できるよう、右拳を強く握り締め、寝室へと忍び寄った。
 職業上の経験から人の気配はない。だが明らかに人為的な音がしたのは事実である。寝室の入り口は襖によって仕切られている。二枚ある襖は閉められており、入り口はここしかない。誰かいるとすれば沖菜が帰ってくる前に侵入したという事になる。
 沖菜は右手を前に伸ばし、襖に手を掛けた。そして勢い良く開いた。
「これは・・・・・」
 寝室の中には誰もいなかった。それまで人がいた気配さえ感じられない。部屋に変わった様子は無かったが、ただ一つ観音開きの鏡が大きく開いているのが見えた。鏡を開いたまま家を出た記憶は無い。間違いなく閉めたはずだ。
 だが驚いたのは鏡が開かれている事ではなかった。沖菜の目には鏡に映し出されたとんでもない映像が映っている。沖菜はあまりの恐怖に声が出なかった。
 静かに中へと歩み寄る。観音開きの鏡はほぼ全開になっており、そこに信じられないものが刻まれている。
「どうして、こんな事が・・・・・」
 開かれた鏡に刻まれていたもの。
 それは血文字で書かれた「死」と言う文字だった。書かれてまだ間もないのだろう。死と言う漢字の端々から真っ赤な血が下へと伝って行く。それはまるで恐怖映画に登場するワンシーンのようだった。
「夢じゃ・・・・なかったのか・・・」
 明らかに何者かが書いたとしか判断が付かない。しかし、部屋に侵入した形跡など残っていない。では一体この現象は・・・・。
 ちょうどその時、沖菜の携帯電話が場違いなほどの明るい着信音を響かせた。凍り付いていた沖菜の身体は、呪縛を解かれたようにぎこちない動きで携帯を手に取った。
 モニターには朝丘詩織と表示されていた。
「もしもし」
「あ、詩織です。今大丈夫ですか?」
「ああ、平気だよ。どうした?」
 詩織の声は少々興奮気味だった。何かあったのだろうか。
「また携帯に写メが送られてきたんです」
「またか。やっぱり真理亜さんの携帯?」
「ええ。たった今です。時計を見てください。やっぱり二十一時四十分なんです」
 沖菜はリビングにある柱時計を見た。時刻は二十時四十三分を示している。おそらく詩織は送られてきた写メを確認してすぐに電話したのだろう。そのロスを考慮すると、ちょうど四十分頃となる。
「送られてきた画像はどんな感じだ?」
「前の二回と同じで意味不明な画像です。ただ、見て気付いたんだけど、この三枚の画像って同じ場所で撮影されたんじゃないかなって思うんです」
「同じ場所?」
「うん。三枚とも似たような景色が映っているんです。ずっと気付かなかったんだけど」
 同じ場所で撮影された三枚の画像。それが意味するものは一体何なのか。そこに意図的なものがあるのか、単なる偶然なのか。いずれにしても解約したはずの真理亜の携帯からメールが届くなど、まず有り得ない事だ。その有り得ない事が起こっている。詩織にも、そしてとうとう沖菜にも起こり始めた。
「分かった。明日は何か予定あるかい?」
「いえ、特にありませんけど」
「それじゃ会って話そう。そっちの方が早いしね」
「何かあったんですか?」
 詩織の声は不安げだった。
「ああ、たった今ね。自分でも驚いたほどだ。直接会って話したい。それに君と一緒に調べたい事もあるんだ」
「分かりました」
「また何かあったらすぐに連絡をくれ。事と次第によっては駆けつける」
「ありがとう」
 幾分安心した詩織の声を聞き、沖菜は通話を終えた。



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