悪 夢〜7〜
十月の中ごろから後半に入ると、そろそろ紅葉の時期を迎える。ここ秩父市でも紅葉の名所がいくつか存在するが、とりわけ奥秩父北東部に位置する中津峡は秩父最大の紅葉ポイントとして有名である。中津峡にはサッカーグラウンドやキャンプ場、日帰り温泉などの施設が充実しており、本格的な紅葉の時期である十一月中頃には観光客でごった返す。そのため秩父市では今の時期から観光客を迎える準備が始まる。民宿やホテルなどには予約の電話が殺到し、限られた部屋数とどのようにやり繰りするか、そして訪れた観光客にどのようなサービスを提供するかで頭を悩ます時期だ。住民よりも訪れる観光客の方が多い秩父市にとって、これからの季節はまさに書入れ時だった。 そんな浮かれた街並みには似つかわしくない忙しさに追われるのが警察である。観光客が多く訪れるこの時期は交通整備や巡回などの仕事が爆発的に増える。外回りが多くなれば必然的にデスクには膨大な書類が溜まり、明けても暮れても残業の繰り返しになる。特に観光客の間で起こる交通事故に関しては実況見分などの配備があるため、こぞって時間を取られてしまう。 ご多分に漏れず、沖菜もその一人だった。本当ならあの後すぐにビル作業員焼死事件で生き残った蛯原と言う男に会いに行く予定だったのだが、事件後に市内で起こった交通事故の発生で長い足止めを食らってしまった。交通事故の後処理と言うのは実に面倒で、事故の規模にも寄るが、今回のように被害者が出なくても運転手に過失がある場合、それは刑事責任に問われる。電柱と言う公共の施設を破壊すると、そこには大きな損害と加害者に対する高額の罰金が請求される。その請求手順や方法などは全てマニュアル化されており、おいそれと片付けられる事ではないのだ。今回の事故に限って言えば、全ての後始末が終わるまで二日から三日は掛かってしまう。沖菜は出来るだけ短縮して行なったつもりだが、結局二日も掛かってしまった。 結果的に今日まで蛯原の訪問は出来ず終いだった。災いが災いを呼ぶとはこの事である。今日で四日も家に帰っていない。風呂に関しては署内に設置されているシャワーを使っているが、着ている安物のジャケットの代えは持っていない。さすがにこのままの格好で蛯原に会うのは憚れると判断し、沖菜は一度家に戻り着替えを済ませて病院へ向かった。 蛯原が入院している病院は秩父市では最も大きな病院である。都心のようにオフィスビルや住宅が密集する事がないため、駐車場や敷地内の広さはまさにどこかの城を思わせるほどだ。沖菜は車を止めるとナースステーションで身分を明かし、蛯原のいる病室を教えてもらった。彼のいる部屋は504号室だった。エレベーターを使う事も出来たのだが、沖菜は躊躇った。いくら外回りがメインの刑事でも、それで運動が足りているかどうかなんて分からないものだ。ひょっとしたら使っている筋肉はどうでも良い部分かも知れない。そう思った沖菜は思い切って階段を選び、歩き出した。 蛯原友喜、四十三歳。秩父市内で妻と三人の子供を持つ建設作業員。勤務先は市内でも有名な建設会社「トートリック」で、ビル作業の指揮を取っていた大林と言う男の片腕的存在だった。何故彼だけが生き残ったかについて、調書には「事件当時、自分は別の場所で作業をしていた」と書かれている。事件後、関係者に問い合わせてみたところ、確かに彼は事件当時現場から少し離れた場所で作業していた事が明らかになっている。作業内容としてはビルの建設に必要なセメントをダンプカーで運び込んでおり、タンクの中で混ぜ合わせる作業を現場から離れた駐車場で行なっていたとの事である。事件現場からは約五百メートルほど離れた場所で作業をしており、彼がこの事件に関わりがあるとは思えなかった。蛯原は事件を知り、警察が来るまでの間一人で消火活動を行なっていたが、その際に重度の火傷を負っており、現在も入院中である。 沖菜は頭の中で蛯原のデータをまとめながら、彼の部屋をノックした。 「はい、どうぞ」 と言う声が聞こえた。沖菜はドアを開け中に入った。 「お休み中申し訳ありません。秩父警察署の沖菜と申します」 「刑事さんですか」 「はい。今日はニ、三お聞きしたいことがありましてお伺いさせていただきました」 蛯原の下にやって来ている刑事は沖菜だけではない。なにせ彼はあの事件で生き残ったただ一人の生存者だ。これまでに何度も警察から事情聴取を受けているであろう事が予想された。案の定蛯原は沖菜が身分を明かしても動ずる事はなく、言葉も落ち着いていた。 「どうぞ、座ってください」 「失礼します」 沖菜はそう言うと一瞥し、蛯原の指定した椅子に座った。 「その後、容態はどうですか?」 「ええ、まあそれなりと言うか・・・」 「あまりお元気が無いようですね」 「ええ、あんな事件の後ですから」 「お気持ちお察しします。本当にお気の毒でした」 蛯原の顔は少々やつれていた。当然だろう。あのビル建設に関わっていた人間全てが焼死し、自分だけが生き残ったのだ。その衝撃は想像するに余りある。 「それで、何のご用でしょう?事件の事なら全てお話しましたが」 「既にご存知かと思いますが、あのビル作業員焼死事件以降、立て続けに残忍な事件が二件も起こりました。その犠牲者はまだ若い女子高生と、生後間もない幼児たちです」 「ええ、テレビで知りました。なんと残忍な事件かと思ってましたが・・・しかし、あの二つの事件とビルの事件は無関係では?」 「確かに一見すると無関係のようにも思えます。女子高生惨殺事件と乳幼児焼死事件についは同一犯の可能性が強いと見てますが、自分としてはあまりにも偶然過ぎないかと思っているのです」 「と言いますと?」 「一連の事件を個別にすると三つに分散されますが、その分散された三つの事件が連続して、立て続けに起こるのはまさに前代未聞です。ビル作業員の事件が起こって次に女子高生が惨殺され、更にその翌日に幼児たちが謎の焼死を遂げた。とてもじゃないがこれを偶然の一致と判断する事は出来ません」 「しかし警察では関連があるとは見ていないと聞きましたが」 「ええ、警察ではあくまで女子高生惨殺事件と乳幼児焼死事件のみを共通する事件と見ており、その犯人像は精神的異常者と判断してますが、僕はそう判断するには早すぎると思ってます。ですから今日、もう一度事件当時の詳しい詳細をお聞きしようと思って来たのです」 「詳しい詳細と言われても、私は消化するのに精一杯で我を忘れてましたからね」 「どんな些細な事でも結構です。もう一度思い出してもらえませんか?」 沖菜の言葉に蛯原は俯いた。何かを考えるような感じでもあれば、話そうかどうか迷っているような雰囲気も感じられる。 「こんな事を言うと、バカだと思われそうだが・・・」 「何かあったんですか?」 沖菜は少々興奮し、身を乗り出した。 「信じてもらえるかどうか分からなかったので、ずっと黙っていたのですが、実は事件現場に駆け付けたとき、赤ん坊の泣き声がしたんです」 「赤ん坊?」 「ええ、はっきり聞こえました。まだ生後間もない赤ん坊の泣き声でした。今でも耳の奥に声がこびり付いているほどです。その後、急いで消化に当たったんですけど、その時に現場から何かが飛び去っていくのが見えたんです」 想像もしなかった証言が明らかになった。蛯原の顔にはすっかり光が消え、何かに怯えるような表情に変っている。とても嘘を付いているようには見えない。にわかには信じがたい事実だが、確かに警察にこんな事を言っても信じれもらえないだろう。その辺を考慮すると黙っていたという蛯原の行動を咎める事は出来ない。何せ沖菜自身も受け入れがたい事実である事に変わりは無いのだから。 「赤ん坊の泣き声・・・何かが飛び去る」 まるでうわ言のように沖菜は囁いた。蛯原は一体何を見たと言うのだろう。 「それは飛び散った火の粉とかではありませんか?例えば引火した木材とか」 「火の引火した木材が飛び去るでしょうか。あれは・・・あれは間違いなく人間でした」 「に、人間がっ!」 「正確に言うと人間の形をした・・・何か表現し難い邪悪な念のようなもの・・・とでお言うのでしょうか」 「そ、そんな事が・・・」 現実的な考えの下で行動する警察にとって、このような話はガセネタに等しい。人間の姿をした邪悪な念が飛び去るなど、馬鹿げているにも程がある。 しかし、絶対に有り得ない話かどうかについては別だ。信じる信じないは別としても、沖菜自身この事件には人為的なもの以外の何かを感じ取っている。これは否定しようの無い事実だ。いきなりこんな話を信じるのは困難だが、「不可解な力が関わっている」と考えると、この一連の事件は不可能が可能に変わる。勿論、彼の話を本当に信用すればの話だが・・・。 「すいません、きっと私の見間違えだったんだと思います。今の話は忘れてください」 「あ、いやそんな事は・・・」 恐らく沖菜は相当に難しい顔をしていたのだろう。蛯原はやっぱりと言う表情で断りを入れた。 「それにしても、この事件はいろいろな人が調べているんですね」 当然の発言に沖菜は驚いた。 「調べているのは警察だけだと思いますが」 「いえ、昨日刑事さんと同じような事を聞きにきた女子高生がいたんですよ」 「女子高生?」 「ええ、制服を着てましたからね。確か・・朝丘詩織さん・・・とか言ったかな」 「彼女はなんと?」 「内容は刑事さんと同じような事でした。あの時変わったことはありませんでしたか?とか」 「女子高生がどうして事件の事を・・・・」 秩父警察署に勤務してずいぶん経つが、女子高生が事件を調べているという話は聞いたことが無かった。本来なら犠牲となっているのが同じ女子高生と言う事で警戒し、厳重な体制で過ごしそうなものだが、逆に事件を調べているとはどう言う事か。 「彼女の話に寄れば、なんでも女子高生惨殺事件で友達が犠牲になったとか。あまりにも事件当時の事を突っ込んで尋ねてくるので、何故そこまでと聞いてみたんです。そしたら、犠牲になった友達の死に納得が行かないと言ってました。なんだか可哀想なくらい鬼気迫るような感じでしたけど、気の毒に。友達が犠牲になったなんてあまりにも辛すぎます」 これは想定外の事実であった。まさか警察以外に事件に不審を抱いている人間がいるなど誰が考えるだろう。ましてや相手は女子高生と来ている。友人が被害者になったとあれば、何か知っている可能性がある。 「今日はいろいろとすみませんでした。ご協力感謝します」 沖菜は立ち上がり礼を言って頭を下げた。 「一日も早く事件が解決すると良いですね」 帰り際に蛯原が言った言葉が背中に突き刺さった。 沖菜は蛯原の部屋のから出ると、警察手帳を取り出し、朝丘詩織、女子高生とメモを取った。一度彼女に直接会って話を聞く必要がある。 沖菜は一度署に戻り、名前と住民票を確かめる事にした。 |