悪 夢〜最終章〜
人間がその場所から去った後、その場にしばらく残る人体のエネルギーのような塊を背後で感じる。言葉では表現できないほどの、酷い憎しみに溢れかえった邪気のようなエネルギーが田村の背後で放出されていた。 冷たい汗が額、顔、腕、背中から流れ落ちる。暑くもないのに流れる汗は、汗とは似つかわしくないほどの震えを伴った。まるで痙攣するように身体が震える。冷たいプールに入ったように歯の上下がガチガチと音を鳴らした。 「ママ・・・・」 「あああ・・・ああああああ・・・・」 今度の声はまるで機械掛かったように低く、そして鈍い声だった。 更に邪気の塊は田村の肩を静かに掴んだ。 「ひいぃっ!」 もはや逃げ場は無かった。 田村はカラカラに渇いた唇を舐め、静かに、そして怯えながらゆっくりと背後に振り返った。 「あああ・・ああああ、ああああああっ!」 「ママ・・・・」 そこに・・・「それ」がいた。 「うわああああああっ!」 「クソッ!こんな時に」 秩父署を出た沖菜だったが、署の駐車場に止めてある車は何故か動かなかった。外に出てボンネットを開けてみると、エンジンが完全にショートしており、白い煙が立ち込めた。沖菜は持っている知識をフル回転させ、応急処置を施したのだが、それでもエンジンはビクともしない。湧き上がる苛立ちを抑えようとするのだが、抑えようとすればするほど手元が狂い、トチってしまう。 「駄目だ、完全にイカれやがった」 こんな時に付いてない。沖菜は思わず自分の車のタイヤを蹴っ飛ばした。だがイラついている場合ではない。一刻も早く詩織の元へ急がねば。 署の前にある国号に出ると、タクシーを探した。しかし運の悪いときと言うのは重なるもので、こう言うときに限って一台も通らない。バス停に駆け寄り時刻表を見るが、やはり生憎と都合の良い時間が無い。次にやってくるバスは二十五分後だった。これではあまりにも遅すぎる。 「どいつもこいつも!」 仕方なく沖菜は走った。署から詩織の家までそう離れていない。タクシーに乗るために反対方向にある駅へ行くより、いっその事走った方が速いだろう。そう判断したのだ。 沖菜は走りながらポケットから携帯電話を取り出し、少しだけ速度を緩めながら詩織のアドレスを表示させた。そして通話ボタンを押す。祈るような気持ちで耳元に意識を集中させた。 本当の事実など知る由も無い詩織の携帯電話が鳴り響いた。ちょうど両親が仕事に出かけていくのを見送ったばかりの状態で、携帯がなっている事にすぐには気付かなかった。 詩織は急いで自室に戻ると携帯電話を手に取った。画面には沖菜と表示されている。こんな時間に電話が来るなど珍しかった。 「もしもし」 「俺だ。良かった、繋がった」 「そりゃいるよ。これから学校だから」 相手は沖菜だが、どうも様子が変だった。規則正しいノイズと風を切る音が聞こえる。まるで走りながら喋っているような息遣いである。 「なにか変わったことは無いか?」 「特に無いよ。どうかしたの?」 「良いか、絶対に家から出るな」 「ええ?そんなの無理よ。これから学校行くんだし」 「駄目だ、家から出るな!今日は休むんだ。今そっちに向かってる」 「えっ?どういうこと?」 「落ち着いて聞いてくれ。結論から言うとこの一件はまだ終わってないんだ」 「終わってない・・・?・・・」 詩織の身体に緊張が走った。 「さっき気付いたんだ。君と一緒にビル作業員焼死事件の現場に行った事は覚えているよな?」 「え、ええ。勿論」 「そこで祠のようなものを見つけただろ?あの時、あの祠は二十年前に殺害された陣内美月を弔うために立っていたと判断したが、それじゃつじつまが合わないんだ」 「つじつまが合わない?」 「ああ、だってそうだろ?君が発見した陣内美月の物と思われる頭部は、未開発地区で発見したんだ。もしあの頭部が陣内美月の物なら、祠は未開発地区のあの場所に立っているのが普通だろ」 「そ、そう言われてみれば・・・確かに」 「だろ?だけどあの祠はビル作業員焼死事件の現場にあった。つまりあの祠は陣内美月のものじゃないって事なんだ」 「じゃ、じゃああれは一体・・・」 携帯を握る手が汗で滲む。詩織の喉は徐々に渇いて行った。 「そのことに付いてなんだが、さっき署で一連の事件で犠牲になった人たちが発見された場所を地図で見ていたんだ。そしたらとんでもない事が分かった」 沖菜はそこで話を切ると、呼吸を整えて再び話し始めた。 「犠牲者になった人たちが発見された場所を点と点で結んでいったら、一つの文字が浮かび上がってきた。ループだよ、8を横にした文字のあれだ!」 「なっ!ど、どうして・・・・」 「厳密に言うとループの文字はまだ繋がっていない。一つだけ足りない場所があるんだが、思い出してくれ。一連の事件ではもう一つ奇妙な事件があっただろ。乳幼児焼死事件と言う不可解な事件が」 「え、ええ。確かにあったよね」 「女子高生が惨殺されたのは、二十年前に殺害された陣内美月の怨念が蘇り、犯行に及んだと解釈できる。その手口もかつて自分がされた手段と同じ手段だった。下腹部を切り裂いて子宮を取り出すという手口だ。だけどそれはあくまで女子高生惨殺事件についてだけで、乳幼児焼死事件の事じゃない。じゃあどうして乳幼児が犠牲になったのか。二十年前、陣内美月は君の親友の真理亜さんと同じように妊娠していた。つまり赤ちゃんがいたんだ。その赤ちゃんも犠牲になっているが、どこで精神異常者に食われたのかについては不明のままになっている。思うに、あの祠は陣内美月の赤ちゃんを弔うために立てられたのではないかと思うんだ。君が聞いたママと言う声は、おそらくそれが関わっていると思う。ここまで話せばもう分かるだろ?」 「ええ、考えたくないけど。つまり、陣内美月のお腹にいた赤ん坊の霊はまだ・・・」 「そうだ。まだ浄化されていない。ママと言う言葉も、おそらく母親を探しているからママと言ったんだろう。君が陣内美月の頭部を発見した事で、陣内美月の怨念は浄化したかもしれない。だが、その赤ん坊の霊はまだ野放しのままになっているんだ!」 もう聞きたくなかった。じわりじわりとかつてない恐怖が登ってくるようだった。 「君の携帯に奇妙なメールが届いたのはいつも二十一時四十分だったよな。その時間の示す意味は、二十年前に陣内美月が殺害された時間と一致する」 全ての謎が解けていく。その反面何かが音を立てて壊れていくような感触が詩織を包んだ。 「さっき話したループの文字だが、一つだけ足りない部分があると言っただろ?」 「うん・・・」 「その場所、何処だと思う?」 「まさか・・・・」 「そのまさかだよ。君の家なんだ!」 目の前が真っ暗になった。 ちょうどその時、一階から階段を誰かが登ってくるような音が静かに響いた。 だが詩織は沖菜との話しに気を取られ、その音に気付かない。 「そして今日は十月二十八日。二十年前、陣内美月が殺された命日だ。良いか、絶対に家から出るな。まだ浄化されていない水子の霊は君を狙ってる。このループが意味するものは、ループの完成を持って母親を見つけ出す事なんだ。つまり、母親を失った陣内美月の水子の霊が、君を連れて行くと言う事だ」 「そんなのって・・・そんな・・そんな」 「落ち着け、今そっちに向かってる。もうすぐ着くから」 電話の向こうではやはり沖菜は走っているのだろう。その息遣いが激しく乱れているのが聞こえた。 「今家に誰かいるか?」 「居ないわ。親は仕事に行っちゃったから」 「クソッ!こんな時に」 一階から上がってきた足音は、詩織のいる部屋の前でピタリと止まった。ドアは閉ざされているが鍵は掛かっていない。 「沖菜さん・・・どうすれば・・・・」 「大丈夫、もうすぐ着くから、そこでじっとしているんだ」 「怖い・・・怖いよ・・。死にたくない」 「詩織、落ち着け。電話は切るなよ、絶対にだ」 「うん・・・・」 携帯電話を耳に当てたままの沖菜は、詩織の家の数百メートル先まで来ていた。まだ肉眼で家を確認する事は出来ないが、もう目と鼻の先である。 詩織の啜り泣きが聞こえる。これは傷付いたときの泣き声ではない。恐怖そのものだ。目の前に迫った恐怖に対する悪夢。それが啜り泣きへと変わり、暗い絶望を与える。 憎悪の塊は部屋の奥で誰かが泣いている事を明確に捉えていた。そして黒く焦げた影は、不気味な動きを見せ、ドアノブを視界に捕らえた。 ガチャッと言う鈍い音が響いた。 「沖菜さん、ドアが・・・ドアが勝手に」 「なんだとっ?何がどうしたって?」 啜り泣きに混じった声だったせいで、沖菜は詩織の言葉を上手く聞き取れなかった。 「おい、詩織!どうしたんだ、詩織!」 詩織からの返事は無かった。 ただ何かが床に落ちる音が受話器越しに響く。そして・・・・。 「・・・ママ・・・」 ゆっくりとドアが開かれた向こう側に 「それ」がいた・・・・。 「沖菜・・・さん・・・・」 「詩織!詩織!」 ゴトンと言う鈍い音が再び響いた。 詩織からの返事は無い。通話は繋がっているようだが、どうやら携帯電話が床に落ちてしまっているのだろう。何も聞こえて来なかった。詩織の身に何かが起こったとしか思えなかった。 「クソッ!」 ちょうどその時、沖菜は詩織の家に到着した。沖菜は玄関の扉を開け、靴も脱がずに二階へと駆け上る。 「詩織!詩織!」 二階へと続くわずかな階段がやけに長く感じられる。 見上げると二階にある部屋のドアは開かれており、中から朝の光が漏れていた。 転びそうな身体でバランスを保ち、沖菜は詩織の部屋の前に立ちはだかった。 「詩織!」 沖菜の叫びは、届かなかった・・・。 それはあまりにも滑稽な姿で、あまりにも無惨な光景だった。 「そんな・・・・そんな・・・・詩織・・」 そこに・・・無惨な犠牲が転がっていた。 「ママ・・・」 「詩織・・・詩織・・・ああああああっ!」 絶望の悲鳴を上げる沖菜の背後で、漆黒の闇に包まれた「それ」は、振り上げた狂気を沖菜目掛けて振り下ろした・・・。 悪夢の感染は、決して終わらない・・・。 了 |