ヒキズリ
それはとても不快な音だと東海林 焔(とうかいりん ほむら)は感じていた。 何か布のような音を畳にこすり付けているような それで居て自分の意志を持って音を発しているような、そんな感触が耳の奥で残っている。 焔がこのアパートに越して来たのが1週間前。 この1週間、不快な音が耳に残っていない朝は未だ迎えていなかった。 都心から離れた地域にあるこのアパートは、3階建ての築30年を越す年期の入った物件だった。 いくら都心から離れているとは言え、最寄の駅は目の前で日当たりも良い。 ユニットバスとは言え、ちゃんと入浴できるだけの設備は整っている。 アパートの管理人も目と鼻の先に住居を構えており、万が一の時はすぐに話が繋がる様になっている。 高級マンションのようにエレベーター付きのオートロックとまでは行かないが 築30年の割には造りがしっかりとしている。 家賃は月4万5千円。一人暮らし要のワンルームであったが、焔はこの場所が気に入っていた。 駅から近いのに何故ここまで家賃が低いのか、当初はその事に疑問を抱いたが 築30年と言う数字を見れば、どことなく家賃が低い理由も頷けた。 焔以外の住居者もいるが、ほとんどが学生か独身の男性であり 焔の入った304号室の両脇には現在誰も住んでいない。 このアパートに住んでいる住人は1階と2階に集中しており 同じ3階に住んでいるのは焔と一番隅に住んでいる学生だけだった。 その日、残業に追われていた焔はいつもより帰宅するのが遅くなってしまった。 焔が部屋のドアを開いたのは深夜零時過ぎ。 同じアパートの住民も既に寝ている人がいるらしく、部屋の電気が消えている部屋もあった。 心身共に疲れ果てた焔は引きっ放しの布団に転がった。 今日一日の疲れが津波のように押し寄せ、風呂へ入ろうと言う気持ちを萎えさせる。 「せめて着替えくらいは・・・」と思った矢先、焔の意識は途切れてしまった。 それが耳障りな音だと鼓膜が認識するには、それほど時間を要しなかった。 またである。今夜もあの深いな音が自分の周囲で発せられており、焔の眠りを妨げている。 「一体なんなんだ・・・・」 焔は寝返りを打ちながら心で呟いた。 その瞬間・・・・ 「ん?・・・」 気のせいだろうか?たった今自分の目の前を何かが通り過ぎたような気がする。 通り過ぎたというよりは這って行ったと言うべきか。 驚いた焔は体制を元に戻し、眼を開いた。 「ズルズル・・・ズル・・・ズルズルズルルル・・・・」 その音は開いた視界の先にある天井からではなく、どうやら自分の周りから聞こえてくるようだった。 何かをひきずるような音は焔の左側と右側、更には真上と真下から聞こえてくる。 焔がこのアパートに越して以来、このような何かを引きずる音を幾度と無く耳にしたが それは焔の目が覚めると消えてしまうのが常だった今までと比べ 今日は焔が目を覚ましても奇妙な音が鳴り響いている。 「何だ、この音は・・・・」 ようやく暗闇に目が慣れてきた焔の目に、不気味なシルエットが浮かび上がった。 それは焔のちょうど真下辺り。ぼんやりと何かが立っているような気配がする。 まだ完全に目が慣れていないので、それが何なのかは分からないが 明らかに本来あるはずもないものがそこに存在している。 徐々に目が慣れてくるにつれ、その正体が明らかになった。 「に、人間・・・!?」 それは戦時中の軍人のような格好をしている人間だった。 軍服を身にまとい、微動だにせずただ真正面に向かって敬礼をしていたのだ。 「ひっ!?」 恐怖・・・・焔の身体に戦慄が走る。立ち尽くしている軍人の目は淀んでおり 何かを訴えるでもなく、ただ呆然と前方を見つめている。 生きているのか死んでいるのかさえも分からないような、無を感じさせる目をしている。 「ズルズル・・・・ズルル・・・・ズルズルルル・・・・」 依然焔の身の回りでは奇怪な音が鳴り響いている。 視界の片隅で何かが通り過ぎて行く姿がわずかに映ると、焔は意を決し、恐怖で縛られた身体に 渾身の力を込めて首を曲げ、視線を真横へと移した。 何かを引きずるような音の正体・・・・ その一部始終を目にした焔の目は大きく見開き 次の瞬間、完全に意識を失った・・・ 意識を失った焔の真横で、敬礼をしている軍人と同じように 軍服を身に纏った数人の日本兵士たちが、鬼気迫る表情でほふく前進をしていた。 彼らの着ている軍服と畳が擦れ合い 「ズルズル・・・ズルルル・・・」と言う不気味な音が静かに流れている・・・・。 それはまるで焔への子守唄のように。 しばらくすると立ち尽くしていた軍人が敬礼を止めると 焔の横でほふく前進をしていた日本兵士たちがその場に立ち上がった。 そして意識を失った焔へ向かって再び敬礼をし、やがて消えて行った・・・。 部屋の壁に飾ってあるその日破りのカレンダーが一枚、ヒラリヒラリと宙を舞う。 紙切れは焔の横に落ち、日時の数字が不気味に輝いた。 既に日付の変わった今日は「8月15日」 奇しくも、「終戦記念日」であった・・・・。 END |