再生のお守り
「ずいぶんシンプルな部屋だな、派手でもないし地味でもない」 「そりゃゲンさんは今年で68歳だったんだぜ。今頃派手な暮らしをするわけねぇだろうよ」 「まあそうだよな。それにしても天涯孤独だったとは、なんだかやり切れんぜ」 「まったくだな。良い人だっただけに余計だ」 「おい、見ろよ。こんなにたくさん長寿守があるぜ」 「すげぇな。ざっと見ただけでも20はある」 「この数だけ人を救ってきたって事か。ゲンさん、あんたは俺らの間じゃ英雄だったぜ」 小林達也(こばやし たつや)と紺野将太(こんの しょうた)はテーブルの上に無造作に置かれた長寿守を手に取った。 実際の重みは大した事はないが、このお守りに人の命が救われていると思うと なんだかとてつもなく大事な物に触れているような感じがした。 主を失った部屋は、まるでつい先ほどまで人が生活していた感触がまだ残っている。 生きた人間が身体から発する気のようなものが、そこかしこに残っているのだ。 この部屋でしばらく待っていれば、ドアを開けて「ただいま」と帰って来そうなほど 部屋の生活臭は真新しいものだった。 「ゲンさん、多くの人を救ってきたあんたが死んでどうするんだよ。このお守りたちが泣いてるぜ」 天涯孤独だったゲンさんの部屋を整理していた小林の目から涙がこぼれた。 小林と紺野が言う「ゲンさん」とは、二人の同僚の高倉源一郎(たかくら げんいちろう)の別名である。 高倉は持ち前の優しさと「笑うとくしゃくしゃになる笑顔」が大きな愛嬌を生んでおり いつの間にか「ゲンさん」と言うあだ名が付いていた。 「ゲンさん、なんで逝っちまったんだよ・・・・」 主の失った部屋に、二人の悲しい慟哭が響いた・・・。 東京から電車に揺られる事およそ3時間。 山梨県富士河口湖町、鳴沢村に付いた大村竜彦(おおむら たつひこ)の目は虚ろだった。 東京駅に居たころよりも更に目の輝きは失われ、今では生気そのものが退化しつつある。 生ける屍と言う言葉があるが、今の大村はまさにその代表例とも呼べる存在と化していた。 東京から離れたこの場所に来たのには訳がある。 一つはこの鳴沢村は大村の故郷だと言う事。今では住居は東京であるが、大村は二十歳までこの鳴沢村で生活していた。 だが今回やって来た目的は「里帰り」ではない。 それがもう一つの理由「自殺するため」だった。 大村は自殺するために故郷へ戻ってきたのだ。 大村は今年で58歳になるいわゆる「団塊世代」である。 勤務先は都内の大手企業で、今でこそ「経理」だが 自分がメインステージに立っていた当時は部長と言う地位を与えられていた。 仕事はバリバリこなす。それでいて妻もあり子供もいた。 仕事と家庭の両立は難しいものではあったが、大村は出来うる限りの生を尽くし、会社にも家庭にも貢献してきた。 団塊世代の人間にとって、仕事とは叩き上げの概念が強く とりわけ営業などは「説教されてナンボ」「いじられて味が出る」と言う生粋の仕事人であった。 入社当時から部長の座に君臨するまでの間、「我が社に大村あり」と言わしめるほど 大村はその実力一つでのし上がった数少ない実力者だった。 だがそんな名誉は二千年と言う新世紀を迎えるまでの間しか通用しなかった。 団塊世代が辣腕と呼ばれていたのは九十年代後半までである。 それまで実現しなかったデジタルの向上と、よりグローバルな思想を目指す人々の登場によって 日本の企業は大きな変化を遂げた。とりわけブロードバンドの導入により それまで不可能とされてきた事が可能となり、日本は団結の時代から個人の時代へと移行して行った。 一昔前までは考えられなかった発想が、今ではたった一人でも可能になるほど 日本のテクノロジーは日々変化し、人々の生活に大きな影響を与えた。 しかし、そのテクノロジーは団塊世代の人々にとっては致命的なダメージとなった。 もはや団塊世代の黄金時代のような考え方は通用しない時代を迎えつつある。 それだけ世代交代も激しく、今では二十代や三十代が絶対的な地位を確保するまでになった。 九十年代後半まであれだけ脂の乗っていた大村もとうとう着いて行けなくなった。 パソコンをメインとしたIT企業がぞくぞくと登場し、大村の勤める企業も インターネットの大手ポータルサイトの傘下として買収され、本格的な人事異動が始まった。 大村がその対象になったことは言うまでも無い。 当時は部長として多くの社員を部下にしていた彼は、いつしか係長になり、気が付けば平に戻り いつのまにか「窓際族」と称される経理の隅っこに着くようになってしまった。 それでも大村は腐らなかった。長年務めてきた会社である。恩義がある以上働く事は当然と言う考えで 大村は必至で努力し頑張った。 だが現実は大村が考える以上に厳しく、そして無情なものだった。 「大村君、明日からもう来なくて良いから」 自分より一回り以上も年下の上司からそう言われたとき、大村の中で何かが崩れた。 もはや自分の居場所などないのだと、大村はその時痛感した。 リストラになったことは当然家族には話せなかった。 それまで社内では辣腕として第一線に立って働いてきたプライドが 自分がリストラにあったと言う事実を拒絶したのだ。 だがいつまでも嘘を通せるはずも無い。ある日大村は観念して事実を打ち明けた。 自分の夫がリストラされたと言う事実を突き付けられた妻の美佐江は酷く狼狽した。 団塊世代の妻には団塊世代の妻としての心得と言うものがあり、その心得の法則は絶対である。 特にこれまで何のハードルにもぶち当たらずに過ごしてきた大村だ。 その傍らに居た美佐江のショックは相当なものだった。 過去に夫が窮地に陥ると言う経験があればまだ違ったのかも知れないが 突然負って沸いた災難に、打ち勝つ経験が無かったのである。 大村のリストラは一家を巨大な不安の渦に落とし入れ、それは離婚と言う最悪の結末によって解決された。 仕事を失い家族を失った大村は信じられないほど衰えてしまった。 全てにおいて無気力になり、虚無感に襲われる日々が続き、大村はとうとう生きる気力を失ったのだ。 「この苦しみから解放されたい」そう思ったとき、頭に浮かんだのが「自殺」と言う二文字だった。 気が付けば大村は生まれ育ったこの山梨県富士河口湖町の鳴沢村に来ていた。 この鳴沢には自殺の名所と呼ばれる青木ケ原樹海がある。 大村は幼い頃、青木ケ原樹海の遊歩道で良く遊んでいた。 大村が幼い頃はまだ自殺の名所とは呼ばれておらず、大自然が織り成す神秘の樹海として地元の観光地となっていた。 それがいつしか自殺の名所と呼ばれるようになり、こうして大村も樹海へと向かっていた。 時間が夜と言うこともあり、駅前のロータリーには多くのタクシーが停車していた。 最も東京の都心部のように何十台ものタクシーがいるわけではなく 個人のタクシーが目立った。鳴沢村のような小さな村には大きなタクシー会社なない。 そのためほとんどのタクシーが個人のものだった。 大村は駅の階段を降りると、フラフラした足取りでタクシー乗り場へと向かった。 タクシー待ちの客はおらず、大村はすぐに乗ることが出来た。 「何処行きますか?」 タクシーに乗ると、しっかりした発音で運転手が尋ねた。声はかなり年期が入っている。 「あの・・・樹海のそばまでお願いします」 「樹海って言うと、青木ケ原樹海ですかい?」 「はい」 どうやら運転手は大村の目的地に不審を持ったらしい。 「失礼かとは思いますが、こんな時間に樹海とは穏やかじゃないですな」 地元の人間は青木ケ原樹海が自殺の名所である事は知っている。 昼間で連れの人間が居るならまだしも、深夜に、しかも一人で樹海に行くとはどう考えても奇妙である。 おそらく運転手はよからぬ想像を浮かべたに違いない。 最も、そのよからぬ事をするために大村は向かっているわけだが・・・。 「近くに友達が住んでいるんです」 大村は咄嗟に嘘を付いた。出来るだけ明るい声で言ったつもりだが、どうしてもトーンは下がってしまう。 「そうですか、分りました」 いぶかしげな表情を浮かべながらも運転手は車を発進させた。 自殺を見抜かれただろうか?大村は何処と無く疑ったが、車は樹海へと向かっている。 運転手も特に詮索する事無く運転している。ひとまず大丈夫だろう。 そう思いながら大村は窓の外を眺めた。 ここ鳴沢村は都会の喧騒とは無縁だ。多くの自然に囲まれた憩いの場所とも言うべき場所だった。 時間帯が夜で、街頭も少ない事から、あまり夜の景色を楽しむことは出来ないが それでも小高い丘などに登ると美しい夜景に出会うことが出来る。大村はそんな鳴沢村が好きだった。 今考えれば東京に出て行ったのがそもそもの間違いだったのかも知れない。 自分のようにこじんまりとした性格の人間は大都会には向かなかったのかも知れない。 「東京に出て一発当ててやる」そんなささやかな夢を持って上京した当時がとても懐かしく思えた。 東京で出会った妻も、結局は自分から離れてしまった。 「頂くものはきっちり頂きますからね」夫の存在も結局は金あってのものであった事を痛感した妻のセリフが 大村の胸に静かに突き刺さっていた。 そんな事を思っていたとき、タクシーの運転手はラジオのスイッチを入れた。 どこかで聞き覚えるのあるDJの声が流れる。本来、タクシーではラジオなど流さないのが主流なのだが・・・。 しばらくすると曲の紹介になり、昔大村がまだ学生だった頃に良く聴いていた曲が流れ始めた。 エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」である。 この曲は大村が大学の頃、当時付き合っていた女の子と一緒に部屋で聴いていた曲だった。 あの頃大村は女にモテた。今思うと人生で一番の輝きを放っていた時期だったかも知れない。 「良い曲ですよね、これ。プレスリーの中で一番好きな曲なんですわ」 突然運転手が大村に話し掛けた。 「私も好きでした。ちょうど大学に通っていた当時良く聴いてましたから」 「おお、そうですか。他にもドント・ビー・クルーエルとか良いですよ」 「その曲なら私も知ってます。レコードが擦り切れるくらい聴きました」 妙な気分だった。これから死ぬと言うのに、その直前に好きな音楽を聴くとは。 更にその曲を好きな者同士で会話までする事になるとは、なんとも皮肉な運命である。 「音楽は良い。どんな状況でも変わらず流れる。人はそれを聴いて元気を出したり、涙を流したりするんだ」 運転手は楽しそうに話し始めた。だが大村はとても楽しめる気分ではなかった。 大村は何も言わず黙ったまま俯いた。 「昔ね、どっかの国のアーティストがこんな事を言ったんですよ。音楽は絶望を希望に返る力があるって」 「絶望を・・・希望に・・?」 大村は絶望と言う言葉に反応してしまった。まるで今の自分の心境を見抜かれたようだった。 「私も最初は言葉の意味が分らなかったんですがね。60を過ぎた今となっては本当にそうだなって思うわけです」 大村は無性にイラついた。音楽を聴いただけで救われるのであれば苦労は無い。 「だけど音楽を聴いただけじゃ現実は変わりませんよ」 大村は運転手の言葉を突っぱねた。 「そりゃそうです。生きるって事自体が苦労の連続です。むしろ楽しいことの方が少ないでしょう。それは事実ですが・・」 自殺する前に人生を悟ったようなご高説など聞きたくも無かった。だが頭ではそう思っても、心は何故か興味を示している。 「辛い事の連続で楽しいことの方が少ないのは事実ですが、そんな中でも唯一誰にでも訪れる希望がある」 「誰にでも訪れる希望・・・ですか?」 「ええ。なんだか分りますか?」 「いや・・・・」 「それはね、出会いですよ」 「出会い?」 「人との出会いです。人間は生きていると誰だって人と出会う。たった一人で生きることは出来ませんから。 その出会いによって考え方が変わったり、運命めいたものを感じる場合もある。私やあなたがプレスリーと出会って 音楽を好きになったのと同じように、人との出会いは、自分の好きなものへと繋がる架け橋になるときがあるんですよ。 それはやはり絶望ではなくて希望です」 何故か説得力のある説明だと思った。頭では聞くことを拒絶しても、心の何処かでそれを受け入れている節があった。 「私はプレスリーが好きです。そしてあなたもプレスリーが好きだ。 ほら、ここに列記とした繋がりが生まれているじゃありませんか。ついさっきまで他人だったと言うのに 好みが共通していると何故か親近感が沸く。その親近感こそ希望なんですよ」 運転手は尚も続けた。 「どれだけ窮地に陥ったとしても、どんなに絶望しても、生きている限り人との出会いは無限にある。 つまり希望は無限にあると言う事ですな。何もかも失っても生きている限り人は人と出会う。 出会いがある限り希望は消えない」 奇妙な気分だった。眼球の奥がやたらと熱を帯びている。アンバランスに組み立てられていたブロックが 音を立てて崩れるように、体中に脱力感が走った。 「お客さん、あなた自殺を考えてましたね?」 運転手はズバリ見抜いた。だが当然と言えば当然である。こんな時間に樹海に行けなど言う人間は自殺志願者くらいだ。 そのため見抜かれても大村は驚かなかった。 「良く分りましたね」 それでも大村は驚いたように相槌を打った。 「分りますとも。私はこの道30年ですからね。時間帯と目的地、そして何よりお客の表情である程度分るものです」 「そうですか、だったらもう詳しく説明する必要も無い。樹海まで急いでください」 「ええ、それは結構ですが・・・多分あなたは死に切れないでしょうな」 「なに?」 どうもこの運転手の発言は癇に障る。いちいちイラつくのである。 「死に切れないってどういうことです?私が死を恐れているとでも思うのですか?」 大村は挑発的に言った。 「いやいや、そうじゃありませんよ。そうではなく、人間の心理と経験と言うヤツですかね」 「どういうことです?」 「あなたは死ねない。死ぬ事を望んでいないのです」 「バカな!私はもう疲れたんです。人生に絶望したのですよ。死にたくて仕方ないんです」 大村は感情的になった。久しぶりに言葉に熱がこもった。 「いいえ、あなたは死ねません。断言できますよ」 「一体何を根拠にこんな事が言えるんだ!失礼じゃないか」 大村の中に怒りが沸いて来た。怒るという感情も実に久しぶりだった。 「根拠ならありますよ。ちゃんとした根拠がね」 「ほう、それは興味深い。説明してもらおうか」 「タクシーです」 「タクシー?それがどんな根拠だと言うんだ」 「私はこれまで何人も死にたいと思っている人たちを乗せてきましたが、その中で誰一人自殺を実行に移した人は居ません。 皆さん最終的には思い止まるんですよ」 「ふん!それはつまり自分が説得に成功したという自慢話じゃないか」 「いえ、それも違います。タクシーに乗った時点で生きる望みを失っていないと言うことなんです」 大村には意味が分らなかった。そして運転手は続けた。 「考えてもみて下さい。これから死のうと思っているのに、わざわざ自殺しに行く事を証明するような目的地を タクシーと言う密室で告げることが賢い自殺の仕方だと思いますか?深夜に樹海へ行くと告げたら ほとんどの運転手は自殺の二文字が浮かぶでしょう。そうなれば何が何でも説得しようとするであろうことは 自殺志願者だって分るはずです。そうなっては後々厄介な事になる。本当に自殺を考えている人たちは 自殺の直前にタクシーなど乗りません。歩いて行くでしょう。少しでも人との関わりを避けようとしますからね。 だけどあなたは運転手と言う私の存在がいるにも関わらずタクシーに乗った。 人との関わりを避ける事無くね。それはあなた自身がまだ人との出会いを捨てていないと言うこと。 私は先ほど人との出会いは希望そのものと言いましたね。つまりあなたはまだ希望を捨てていないと言うことです」 もはや何も言えなかった。いや、言葉などもう必要なかった。 大村の目から熱いものが止め処なく流れた。それが全ての答えであるように・・・。 ハンマーで頭を殴られたような感触だけが心に突き刺さった。 「人間、悲観に暮れると出会いなどどうでも良く思えてしまうものです。今のあなたがそうだ。 だけど私とあなたには共通点があった。プレスリーと言う共通点がね。自分が好きだと思うものを やはり自分と同じように好きだと思っている人が居る。それを好きなのは自分だけじゃない。他にもたくさん居るんです。 どうです?例え辛い現実があってもそう考えると決して一人じゃないんです。分りますか?」 声にならない嗚咽が響いた。今まで塞き止めていたものが解放され津波のように押し寄せる。 その津波はそれまで自分を必至で気丈に見せていた強がりまでも流し、幼き姿へと変貌させる。 子供のように泣きじゃくる大村の姿はまさにそんな姿だった。 「あなたはまだ何も捨ててない。タクシーに乗ったのがその証拠です。自殺を考えているはずなのに 運転手と言う私との出会いは拒絶しなかった。人との出会いを拒絶しない人は、決して全てを諦めないのです」 運転手の声は優しかった。まるで何かに守られているように。 「私は・・・私は辛かったんです・・・悲しくて、寂しかった・・・ 会社をクビになり、妻と子供にも逃げられて・・・ただそれだけだったんです・・・」 大村は初めて「泣き言」と呼ばれる弱音を吐いた。と同時に心から深い闇が消えていくのが分った。 「さあ、帰りましょう。駅前に今からでも泊まれる小さなビジネスホテルがあります。 今日はそこでゆっくり休んで、明日からまた生きてください」 「はい・・・・」 タクシーは静かな排気音が響かせながら、今来た道を戻り、駅へと向かって行った。 駅に戻ってきた。相変わらずロータリーには多くのタクシーが停車している。 大村はタクシー代を払おうと思ったが、運転手は何故かそれを拒んだ。 「御代は結構ですよ。あなたが生きていてくれればね」 「しかし、それでは私の気持ちが納まりません。何が何でも受け取ってもらわないと・・」 「良いんです、お納めください。そうだ!もし良かったらこれを受け取ってもらえませんか」 そう言うと運転手は助手席に手を伸ばし何かを掴み、それを大村に渡した。 暗がりなのでなんて書いてあるのか分からなかったが、どうやらお守りのようである。 「二つあるんですが片方は私が持ってます。そっちはあなたが持っていてください。 これは今日あなたと私が出会った証拠です。希望の証拠とでも言いますかね。 プレスリーが好きなもの同士として持っていてください」 お守りを渡すと運転手は足早にエンジンを掛けた。 「あの!せめてお名前を!お名前を教えていただけませんか?」 こんな事なら乗っているときにネームプレートを見て置けば良かった。 既に車の外に出ている大村には夜の闇が邪魔をして運転手のネームプレートが確認できなかった。 「いやいや、そんな大層な名前じゃありませんゆえ、これで失礼させていただきます」 「し、しかし・・・」 「それでは、どうかお元気で」 タクシーはロータリーでUターンし、駅とは別の方角へと走って行った。 「ありがとうございました」 その日、大村はタクシーの姿が消えるまで何度も声に出して頭を下げた・・・。 翌日、大村は目が覚めると昨日運転手から貰ったお守りを握り締めた。 お守りは長寿守で、自殺をしようとしていた自分とは正反対に位置するようなお守りだった。 昨夜はぐっすりと眠ったが、どうしても心がくすぶっている。 東京へ戻る前に、もう一度あの運転手に会ってお礼が言いたい。 大村は急いで荷造りをすると、ホテルを後にし、駅へと向かった。 早朝と言う事もあってタクシーの姿はまばらだった。 台数こそ少なかったが、どれも個人のタクシーで大村はすぐにあの運転手を探した。 しかし、どういうわけかあの運転手の姿は無かった。 ひょっとしたらこの時間は家に居るのかもしれないと思い、他の運転手に聞いてみる事にした。 大村が声を掛けた運転手は小林達也と言う男だった。胸にネームプレートが付いている。 大村が身振り手振りで昨夜の運転手の事を話すと、まるで驚愕したような表情でこう言った。 「そりゃゲンさんだな。ウチらの間じゃ再生のゲンさんて呼ばれててよ。多くの自殺志願者を説得してきたんだ」 「自殺志願者を説得・・・やっぱり・・・」 大村も昨日そのゲンさんに説得された一人である。 「だけどあんたが見たのはきっと幻だよ」 「えっ!そ、そんな事はありません。私は昨日そのゲンさんにお会いして自殺を思い止まらせてもらったのです。 これが証拠です。このお守りをゲンさんから貰ったんです」 大村と小林のやり取りに興味を持ったのか、後ろに停車してあったタクシーから運転手がやって来た。 胸には紺野将太と書かれたネームプレートが付いている。 小林と紺野は狐に摘ままれたような表情で互いの顔を見合った。 「不思議なことがあるもんだな」 「ゲンさん、きっと心配になって戻ってきたんだろう」 「ああ、そうだ。そうにちげぇねぇ」 「どう言う事ですか?」 小林と紺野のやり取りは意味が分らなかった。一体何があると言うのだろう。 「あんたがゲンさんに会ったのは昨日って言ったよな?」 「ええ、昨日の深夜です。確かにお会いしてタクシーに乗ったんです」 「それは有り得ねぇよ。何故ならゲンさんは三日前に死んだんだ」 「なっ!そ、そんな!」 大村の身体に電流が走った。あの運転手、ゲンさんが三日も前に死んでいたとは。 では昨日大村があったあのゲンさんは一体・・・。 「ちょっとお守りを見せていただけませんか?」 紺野が大村に言った。大村はお守りを渡した。 「これはゲンさんがいつも立ち直らせた自殺志願者に渡していたお守りだ。間違いないよ」 紺野が小林に言った。 「ゲンさん、あんた死んでもまだ心配で降りてきたのか」 小林が唸った。 そして言葉にならない切なさだけが大村たちの心に残った・・・。 帰りの電車の中で、大村はゲンさんから貰ったお守りを眺めた。 帰り際、小林と紺野が 「あんたが会ったのは間違いなくゲンさんだ。ゲンさんはきっとあんたのことが心配であの世から降りて来たんだろう。 そのお守りが何よりの証拠だ。あんたはゲンさんよりも若い。ゲンさんの分も残り余生を生きてくれ」 と言われた言葉が胸に染みた。 大村はお守りを握り締めると目を閉じた。思いは複雑ではあったが、東京に着くまで良い夢が見れそうだった。 例え夢でも幻でも良い。 人との出会いが希望そのものだというゲンさんの教えを、今度は私が受け継ごう。 生きなきゃならない。最後まで。 ゲンさんのように・・・。 END |