産声に桜は散る
会員制創作小説サークルsphere「vol、23参加作品」
怖い夢を見た。 背筋が凍り付くような怖い夢だった気がする。まるで綺麗に咲き誇る花が、音も無く枯れ果ててしまうような、そんな悪夢だった。だけどそれでも、生きて行かなきゃいけないんだ。 開け放たれた窓から、春を告げる暖かな風が吹く。その風は人々に優しさを運ぶように、静かにそっと吹き抜けた。小さなベッドで寝ていた僕の頬にも春の訪れを感じる優しい風が当たった。 静かに目を開くと、僕が目覚めるのを持っていたかのように、シベリアンハスキーのネネが駆け寄り、ベビーベッドの柵に両手を掛けて、僕を覗き込む。その目は何処か悲しげで涙に濡れているようにも見えた。 静まり返った部屋に何処からか吹き込む風の音が響いた。春を感じさせる暖かな風で、身を任せているだけで気分が向上するような風。怖いものさえ連れて行ってくれそうな優しい感触が身体を包み込む。 怖いもの? そう、確か僕は怖い夢を見ていたような気がする。それがどんな夢だったのか、記憶には無いけれど、深い悲しみが胸の奥から這い上がって来るような悲しみを感じた。その悲しみに我を忘れそうになり、無理矢理目を覚ましたんだ。 ネネが僕を心配そうに見つめる中で、僕は自分が何者なのか考える。僕の名前は優斗。僕が決めたんじゃない。僕をこの世に誕生させた二人が考えた名前。産まれた当時、二人は僕を抱き寄せ「優しい人になるんだよ」と、とても暖かい手で撫でてくれた。優しい人になる事。その意味を込めて優斗と名付けたらしい。僕は優斗と言う名前が気に入っていた。こんな僕のために二人は必至になって素敵な名前を付けてくれたんだ。だから二人が僕を呼ぶたびに、ニッコリと微笑む事が出来た。名前を呼ばれる事が嬉しくて。これから始まる僕の人生に二人がいる事が嬉しくてたまらなかった。産まれて良かった。この二人が僕の親で良かったと、何度も思いながら日々を過ごした。 だけど楽しい事ばかりでは無かった。お母さんは言っていた。「あの子にもっとマシな服を着せてあげたい」って。僕の着ている服は所々がよれている赤いベビー服だった。その服が洗濯に出されているときは、同じように色違いのベビー服を着せられ、僕の記憶している限りではこの二着しかなかったように思う。僕はこの服がとても気に入っていたけど、お母さんがあんな事を言うって事は、他の家の子供たちは、もっと沢山の服を持っていて、毎日別の服を着るんだろうな。 僕が寝た後、お父さんとお母さんは汚い言葉で言い争う事が多かった。僕が産まれた当時はそれほどでもなかったけれど、しばらくすると争う夜が増えた。 僕には難し過ぎてよく分からなかったけど、お父さんは家に帰ってくる度に頭を抱えて何かを考えていた。「借金が・・・」と言う言葉がわずかに僕の耳に届いたけど、それが何を意味するのか分かるはずも無くて、目を覚ましてしまった僕の視界には、いつも泣き崩れるお母さんしか映らなかった。 どうして泣いているんだろう・・・。お母さんが泣くと僕も悲しくなる。そんな時は夜泣きのフリをして大声で泣き叫んだ。そうすればお母さんが僕のところに来てくれるから。僕はお母さんの泣き顔が見たくなくて、夜泣きフリを繰り返した。僕を抱っこしているときのお母さんはとても優しい顔をするから。 仕事から帰ってきたお父さんは、時折僕を見下ろして「強く生きるんだぞ」と優しく言った。僕を撫でる手はゴツゴツしていたけど、僕はこの人に守られているんだと実感した。僕は嬉しかったけど、お父さんの顔は何処か辛そうだった。 僕は多くを望んだわけじゃない。他の家の子のように毎日違う服を着なくたって良いんだ。いつも同じ服でも構わない。僕はただ、僕を産んでくれた二人と一緒にこれからも仲良く過ごして行きたいだけ。例え質素でつましい生活でも、毎日笑って過ごせるような、そんな生活を望んだだけなんだ。だから二人にはいつも笑っていて欲しい。 けれど僕がそう思うのとは裏腹に、お母さんは僕を見て泣く事が多くなった。お母さんが僕のおしめを変えているとき、「こんなものしかなくてごめんね」と穴の開いた靴下を僕に履かせた。右足の親指だけがひょっこりと顔を出している。僕はそれがとても面白くて、何度も右足の親指を動かした。他の指は見えないのに、親指だけは丸出しなんて、笑ってしまう。僕がお母さんを見ながら微笑むと、お母さんは僕に「ありがとう」と言って頬にキスをしてくれた。きっとお母さんには僕の笑顔が「大丈夫だよ」と言っているように見えたんだろうな。 大丈夫・・・。だけど現実はそう簡単じゃなかった。 この時期を堺に、家の物が少しずつ無くなって行った。一番最初に無くなったのは大きな食器棚。作業服を来た男の人たちがやって来て、中の物を取り出して持って行ってしまった。その時お母さんはその男の人たちからお金を貰っていた。お母さんは持って行かれる食器棚を寂しげに見つめ、トラックが去るまで見送っていた。玄関のドアを閉めると、お母さんは貰ったお金を握り締め泣き崩れた。またお母さんが泣いている。そして僕も泣き出す。お母さんの泣き顔なんて見たくないから。 僕を抱っこしたお母さんは「優斗はお母さんの子なんだから、強くならなきゃね」と言った。お母さんの顔はもう泣いてなかったけど、泣きたい気持ちを抑えているだけなんだと、その時初めて知った。 それからの事は良く覚えていない。いや、本当は覚えているんだろう。僕が思い出したくないだけなのかも知れない。あまりにも悲し過ぎて、辛すぎて、思い出さないように必至で我慢しているのかも知れない。毎日のように見たお母さんの泣き顔。毎晩のように続いた二人の口論。憔悴し切った二人の顔。笑顔の消えた家庭。日増しに貧しくなっていく食卓。そしてその頃から、お父さんは仕事に出掛ける事が無くなり、毎日家にいた。 再び目を覚ますと、まだネネが僕を心配そうに見下ろしていた。クーン、クーンと鼻を僕の顔に押し付けて、寂しさを精一杯表現している。夕方になったのだろう。部屋の中は薄闇が広がっており、空気が冷え切っている。わずかに灯る豆電球の光が部屋を照らしているが、その光は頼り無かった。 ネネが僕に起きるように身体を突く。それが何を意味するのか僕にはもう分かっていた。僕はベッドの上に起き上がった。まだヨチヨチ歩きの僕は身体を起こすだけでも大変だが、今となってはもう、泣いても誰も来てくれない。そんな気がしたんだ。 ベッドの下には割れたコップが転がっており、入っていた水が床で水溜りを作っている。棚に置かれていた家族三人が映った写真立てのガラスはヒビが入り、まるで蜘蛛の巣のような絵柄になっている。 僕が起き上がったのを確認すると、ネネは隣の部屋に走って行った。そして部屋の一点で立ち止まると、上を向きながら激しく吠え始めた。僕のいる場所からもその部屋の様子は見えるようになっている。ドアは完全に開け放たれており、障害物は何も無い。 僕はそこに何があるのか、分かっていながらも目を逸らす事は出来なかった。 きっと二人は限界だったのだろう。どうしようもない現実が、二人の人生にブレーキを掛け、そして完全に止まってしまった。もう楽しかった日々は返って来ない。いつかこんな日が来るんじゃないかと、夢の中でいつも思っていたんだ。 僕を置き去りにして、二人が去って逝ってしまう夢。それが僕の見た悪夢だった。 自ら命を絶った事実を理解できるようになったら、僕はあなたたちを許せるのだろうか。置き去りにされた憎しみを抱えたまま、僕は生きられるのだろうか。 そんな疑問が頭に浮かんだとき、僕はあの時お母さんが言った言葉を思い出した。 「優斗はお母さんの子なんだから、強くならなきゃね」 そしてお父さんが言っていた言葉。 「強く生きるんだぞ」 二人のあの日の言葉は、僕に対する誓いだったのかも知れない。 それを僕は思い出した。 ベッドの脇にあるテーブルには、小さなメモが置かれていた。そこには今にも消えてしまいそうな弱々しい文字で「ごめんね」とだけ綴られていた。 悲しかった。もう誰も来てくれないと分かっていながら僕は泣き叫んだ。 開かれた窓から入った桜の花びらは、まるでこの先の道を示すように点々と床に散った。 怖い夢を見た。 背筋が凍り付くような怖い夢だった気がする。まるで綺麗に咲き誇る花が、音も無く枯れ果ててしまうような、そんな悪夢だった。だけどそれでも、生きて行かなきゃいけないんだ。 桜舞い散る小春日和と、終わりを告げる僕の叫び声・・・・。 |