ジョージ・ワシントン
ージョージ・ワシントンと母ー

(この写真はFounders of America.Org より拝借しました。)
www.foundersofamerica.org
実母に対しては、ワシントン大統領、イヤに素っ気なかったようです。ジェファーソンもそうでしたが、母親に対する愛情をしたためる日誌や手紙が残されていないのです。メリー・ボールは金の無心をかなり息子であるジョージ・ワシントンにしたようですが、それ以外にも人前でタバコをふかす、当たり構わぬ品の無い言動が、貴族的暮らしを幼い頃から夢見ていたワシントンには我慢出来なかったのかも知れません。因みにメリーの母は、当時、奴隷ほどではありませんでしたが、ステイタスの低い年季奉公人だったと言われています。
ただ、体裁を気にしていたという理由だけで母メリーとの間に距離を置いたわけでもなさそうで、大志を抱いた少年、ワシントンは何度かメリーに気を挫かれる体験をしているのです。
例えば、異母兄、ローレンスの計らいで英国海軍の少尉候補生となる機会を与えられたのにも拘らず、軍艦が出航する寸前になって乗船を禁止されてしまったり、という具合に。ローレンスの士官服姿を憧れの目で眺めていた少年にとって、その時の落胆は計り知れないものがあったのかも知れません。
ジョージはマーサとの結婚式にさえも母を招待していない上、マウント・バーノンで新所帯を持ってからも、妹のベティの屋敷ケンモア・プランテーション(現在もフレデリックスバーグに残っていて一般公開されてます)が、母メリーの住むフェリー・ファームに近いこともあって妹に任せっきり。
後年、未亡人になって煩雑なプランテーションや創立した学校経営で手が回らなくなった妹ベティに代わり母との同居を迫られる事を案じたジョージは、弟のジョンにその役を押し付けようとし、念には念を入れ、母自身の気を挫こうと手紙をしたためてさえいます。
「お迎えしたいのはやまやまですが、我が家はご存知のように常時来客で溢れています。同居していただくとなると、先ず服装や振る舞いに気を使って頂かなければならず、それでは、お母さまがご不自由でしょう。かと言って自由にして頂くのはお客の手前もありますし − 。従って、お嫌やでも来客中はお部屋に閉じ篭って頂くという制約が必要になると思われますが・・・」
(First Lady of Liberty より一部の内容を訳させて頂きました。) − MarthaWashington by HelenBryan,
John Wiley and Sons ,2002
それでも宜しければ、と婉曲的に拒絶をしているのです。そこで母は弟の屋敷、ブッシュフィールドに引き取られることに一旦話が決まるのですが、その直前、ジョンが亡くなってしまいます。1987年でした。
結局、母メリーはジョージが用意した住宅に独居生活を強いられ、生涯を閉じることになります。この住まいはそれまで彼女が住んでいたフェリー・ファームよりさらに妹ベティの屋敷、ケンモアに近くそれこそ目と鼻の先、徒歩で数分という距離内にあります。現在もフレデリクスバーグに現存し小さな市内観光バスが止まります。1789年、4月に大統領に選出されたジョージは、合衆国首府となったニューヨークに発つ前に母に挨拶に行きますが、乳がんを患っていたメリーにとってはこれが最後の親子の対面となり同年九月に息を引き取っています。

ワシントンが幼少年時代を過ごしたフェリー・ファーム
さて、ローレンスは農園、リトル・ハンティング・クリークを相続後、カリブ海で当時戦われていた英スペイン戦争に司令官として出陣しました。帰国した彼は、この戦いで活躍した尊敬する提督の名バーノンをとって、自分の屋敷をマウント・バーノンと改名したのです。そして彼は玉の輿のような結婚をすることになります。よりエリート、より裕福な家系と婚姻を結ぶのはワシントン家の先代たちが、−故意にかどうか− 行なって来た伝統、とも見受けられます。
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