パトリック・ヘンリー
その1
パトリック・ヘンリーって誰?という方に − 印紙条例を発令するなど圧制を植民地にかけていた英国に対し、バージニア議会で 「(英国議会への)代表なくして課税なし」 と名文句を唱え対英抵抗に拍車をかけ、さらにバージニア州都リッチモンドのダウンタウンに現存する聖ジョン教会で 「自由を、さもなければ死を与えよ」 と演説をぶち植民地人たちを独立運動へと奮い立たせた中心人物です。

(聖ジョン教会)
パトリックはリッチモンド市の近郊ハノーバー郡に1736年に誕生。同市を軸にハノーバー郡は北側、筆者の住むヘンライコ郡は西にそれぞれ隣接しています。
パトリックはワシントン同様、正式な学校教育を受けていません。スコットランドで大学教育を受けてから移住して来て同郡に小規模な農園を持った父親が読み書きやラテン語を教えましたが学問に興味も進歩をみせぬ息子の将来を案じ店舗をもたせます。
しかし、裕福な農園主たちは、川沿いのプランテーションに設けた私有の桟橋からタバコを英国に出荷し帰路その船はオーダーした必需品や贅沢品を大量に積み帰る、といった調子で地元の小さな商店から買い寄せる必要はありません。客はといえば暮らしに四苦八苦している小さな農業を営む農民たち。ツケでした買い物の代金を回収したくとも日照りや洪水で収穫もままならぬ彼らから取り立てることは不可能とあって、間もなく店は廃業となってしまいます。
幼い息子に読み書きを教えるのに手こずった父親が他にもいます。九章でご紹介しますが、28代目大統領ウッドロー・ウィルソンの父です。ウッドローは10歳まで読み書きが出来なかったとか。ディスレクシア (読み書き障害児) だったという説もあります。代わりに彼は速記 (耳で聞いた音を記号に書き留める) やタイプライターを使用したそうです。
脱線してしまいましたが −。 1754年、19歳という若さで、16才のサラ・シェルトンと結婚しますが、新妻の持参した600エーカーあったタバコ農園は干ばつの被害にあいしかも続いて翌年長子が誕生し暮らしは困窮する一方。その上1757年には住まいを火災で焼失してしまうのです。そこでパトリックは妻の持参した6人の奴隷を売り払い再び店を開くのですが、又もや営業不振で店を畳んでしまいます。

(1771−1778年、パトリック・ヘンリーが妻サラと6人の子供たちと住んでいた スコッチタウンと呼ばれたプランテーション。スコッチタウンは四代目大統領夫人ドリー・マディソンの育った家でもあります。ドリーの父方の祖母とパトリックの母は姉妹でした。)
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