トーマス・ジェファーソン


−サリー・ヘミングスとのスキャンダル−


  ジェファーソンとサリーの関係が初めて世間一般に公表されたのは、18世紀の初め、ジェイムス・カレンダーというジャーナリストによってでした。

このカレンダーという人は、スコットランド人。もともと政治記者でしたが1793年に治安妨害の罪に問われ、大西洋を渡りフィラデルフィアに逃避して来た彼を、トーマス・ジェファーソンの属するリパブリカン党は英国の敵とみて歓迎します。

そんなある日上下院は英国との交易維持を支持していたフェデラリスト党の指導者的存在であったアレキサンダー・ハミルトンが賄賂を使ったことを嗅ぎつけ調査を開始し出します。これに対しハミルトンは、「ある男の脅迫を受けそれに応じて金を支払ったまでだ」、と弁明します。実はそのある男性とは、密通を重ねていた女性の夫でした。

ハミルトン自身の弁明によりいったん調査は打ち切られ影を潜めたかのようにみえましたが、その調査書類を何とカレンダー入手、世間に発表。 お陰で消えかけていたこのたハミルトン汚職事件、再浮上することになってしまいました。その結果またしてもカレンダーは治安妨害の罪に問われそうになり今度はジェファーソンやリパブリカン派の支援を得てバージニア州に無事に避難します。

ところがその避難先バージニアでもカレンダーは懲りずにフェデラリストを攻撃する記事を書きまくっています。 こうして同党リーダー格のジョン・アダムスに非難が及んだとき、遂に投獄されてしまうのです。 モンティチェロに流れるジェファーソンとその奴隷女の噂をたっぷり聞いたのはこの9ヶ月に及ぶリッチモンドの獄中であったと云われます。彼はジェファーソンに懇願していたポスト −リッチモンドの郵便局長の役職− を蹴られたことから、怨念を果たすべく出獄するや早速ジェファーソンとサリーとの流言を記事にして暴露したというわけです。

こうして世の知るところとなったジェファーソンの醜聞は、当人が生前中一言の弁明 − 否認も肯定もせず、「ノーコメント」 で通したことから、話題の種となり続けてきたようです。DNA検査の結果、「サリーの息子の一人エストンがジェファーソンの息子である」、と判明しても、なお、ジェファーソンの白人側の子孫たちの多くは、「サリーを愛妾としていたのはジェファーソンではなく彼の弟や甥たち」 であるとそのいずれに濡れ衣を被せたがっているように見受けられます。

保守的な人たちの多い白人子孫の中で、例外はルチア・プレスコット氏 (という名だったと思います)。 もう5−6年前のことになりますが、アメリカでは大人気のトーク・ショー・ホステス、オプラー・ウィンフリーとの対談で、ジェファーソンとサリーとの間に子供がいたことを完全に受け入れ、エストンの子孫 (外見は殆どが白人と見分けも付かないほど) とご先祖さまトーマス・ジェファーソンを共有している喜びを語ったのが筆者の印象に強く残っています。

さて、サリーにとってこのエストンは末っ子。そのほかに、長男ビバリー、長女ハリエット、次男マディソンなどがいましたが、ジェファーソンとの間に誕生した子供たちは総計八人。フランス帰国後に誕生したといわれる第一子の出生は記録されたいないようで、トーマス・ウッドソンを長男とする説もあるのですがこれも確かとはいえないようです。

次に誕生したハリエットは誕生後間もなく死亡。 続くビバリーとハリエット (死亡した長女と同名) の間にもうひとり女児が生まれていますが矢張り幼くして亡くなっています。公僕として長期間家を留守にすることが多かったジェファーソンが久々にモンティチェロに帰郷し暫く滞在し再び旅立っていった九ヶ月後にいずれも誕生しているのです、この八名全員が、です。

この点が先ず証拠の一つとして挙げられます。

そしてムラトーでもいくらか浅黒いマディソンを除いて、全員白人と見分けが付かないくらいの色白だったこと。なかでも、ビバリーの事だと思いますが、食事時、ジェファーソンの後ろに立つ給仕がジェファーソンに生き写しだったと、客のひとりが供述しています。ハリエットの方も肌の色が白く美しい娘だった、 −奴隷仲間の供述が記録されています− ということです。

こうした証言も状況証拠ではありますが、うなずけるものがあります。この二人はそれぞれ23歳と20歳のとき、突然、モンティチェロから姿を消してしまっています。 ジェファーソンのお膳立てで、誰にも知られないままワシントンDCの白人社会に溶け込んでいったようです。後年、弟のマディソンがその日を最後に兄姉に再会することはなかった、と語っています。

ジェファーソンは結局、サリーを奴隷として拘束したまま亡くなります。ジェファーソンの死後、遺書により自由を得たマディソンと末弟エストンは、ジェファーソンの娘マーサによって非公式に自由を与えられた母サリーを引き取りモンティチェロのある町、シャーロッツビル −ジェファーソンが創立するバージニア大学のある町−  に住んでいました。1773年に生まれたサリーは1835年、ジェファーソンと暮らしたモンティチェロのふもとで、息子たち二人に見届けられて静かに息を引き取るのです。

1805年生まれのマディソンはその後、奴隷自由州のオハイオに引っ越します。1878年に亡くなるまで、大工としての腕もたった彼は、商いをしたり、畑地も所有するようになっていました。彼は1873年、新聞のインタビューに応じ、母のサリーは長年ジェファーソンの愛妾であったこと、そして彼ら四人の兄弟たちは両人の子供である、と語っています。

1808年に誕生したエストンの方は、マディソン同様、オハイオで暫く大工仕事をして暮らしましたが、その後、矢張り自由州であるウィスコンシン州に移り1853年に他界しました。

ジェファーソンが父親であるという話しは、この二人の子孫の間に代々語り継がれて来たのです。

参考文献:Thomas Jefferson and Sally Hemings, An American Controversy

by Annette Gordon-Reed, University Press of Virginia, 1997

Thomas Jefferson, An Intimate History

by Fawn M. Brodie

Bantam Books、1974






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