ウッドロー・ウィルソン大統領と妻たち
−その1−
二十世紀の偉人には触れるつもりはなかったのですが・・・
再婚相手がポカホンタスの血縁という事もありますので、ご紹介します。
写真は以下のウエブサイトより拝借しました。
http://members.tripod.com
トーマスが本名のウッドロー・ウィルソン。1856年に長老派教会の牧師の父と、同じく長老派牧師の孫である母の間に誕生しました。大学入学前に、幼少の頃の愛らしいニックネーム、トミーから改名しています。ウッドローは母の結婚前の姓でした。また彼はディスレクシア、読み書き障害があったようで10歳まで文字を覚えなかったそうです。この短所を補おううと父は息子に人前での演説出来るよう指導したと言われます。
教養があり教育熱心でもあった両親に育てられたトミー (当時はまだそう呼ばれていました) は、先ずカロライナ州の(現在は名門、小説家パトリシア・コーンウェルも卒業している)デイビッドソン大学からプリンストンへ、そしてトーマス・ジェファーソンが創立したバージニアの名門、バージニア州立大学を経て、さらにジョンズ・ホプキンス大学などを卒業しました。
生誕地のスターントンは、トーマス・ジェファーソンのモンティチェロからさらに西に車で向かって45分程走ったシャナンドア渓谷にあります。この町には彼の記念館もありますが、同敷地内に保存されている生家には一才くらいまでしか住んでいません。父がジョージア州のオーガスタに移転したからです。その後再びサウス・カロライナに引っ越しますが、この間、南北戦争で北軍に敗れ焼け落ちた南部の町を肌で感じながら成長しています。
また、南部連合国の大統領であったジェファーソン・デイビスが捕らえられ鎖で繋がれ町中を歩かされているのを8歳の頃目撃するなど戦争の悲惨さを体験もしていることから、1912年に28代目合衆国大統領に選出されてからも平和主義を通したのはこの頃の記憶が鮮明に残っていたからに相違ありません。
ドイツ軍潜水艦に四隻も撃沈される迄は中立を貫いていた合衆国も、遂に1917年に宣戦布告せざるを得なくなります。そして終戦の年、1918年には平和維持の目標を掲げウィルソンは渡仏。国際連合設立の基礎固めに活躍しました。
このため翌年はノーベル賞を受賞。帰国後、議会にベルサイユ講和条約を提示しますが上院の支持を受けられないまま1920年に大統領としての二期目を終えます。この間、彼は幼年労働禁止令を発行したり、鉄道作業員の労働時間を八時間以内に規制する法令を出したり活躍。また母の日を五月の第二週日曜日に設定したのもウッドロー・ウィルソンでした。
定年となってからもさらにベルサイユ条約を国民に直接訴えようと精力的に各地を講演旅行をしていたウィルソン、コロラド州プエブロで演説中に脳出血で倒れます。半身不随の身となった彼は1924年に逝去。
ヘンリー・キッシンジャーは、ウィルソンの外交政策は二十世紀の合衆国の基礎を固めた、と称えています。
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