武田二十四将に数えられる軍師。

山本勘助は、近世において武田二十四将に含められて、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が広く知られるようになった戦国時代の武将である。『甲陽軍鑑』においては勘介と名乗り、諱を晴幸と呼んでいる。出家した後は道鬼斎を称している。しかし、これは文書上からは確認できず。「山本勘助」は軍鑑の影響下にある近世の編纂物に登場する人物像であるので確実な文書からは一切の存在が確認できないために実在については疑問視されている部分が多い。さらに近年では「山本勘助」に比定される可能性のある「山本菅助」の存在が複数の文書上から確認されている。

武者修行の旅へと勘助は行く。

勘助は26歳、もしくは20歳のときに武者修行の旅に出るのだった。武功雑記という書物によれば、剣豪上泉秀綱が弟子の虎伯と牛窪の牧野氏を訪ねた時に、若き勘助と虎伯が立会い、その場において虎伯が一本取り、続いて勘助が一本を取るのであった。さらに10年の間は、中国、四国、九州などの諸国を遍歴して京流兵法を会得するのだった。城取りや陣取りを極めて、その後に勘助が武田信玄に仕えるのである。永禄4年には、謙信は1万3000の兵を率いて川中島へと出陣する。その後に妻女山に入り、海津城を脅かす、一方の信玄も2万の兵を率いて甲府を発向して、海津城へと入るのだった。数日、両軍は対峙して、軍議の席において武田家の重臣などは決戦を決意するが、信玄は意外や慎重な考えを示す。そして、勘助と馬場信春に謙信を打ち破る作戦を立案を命じ、軍勢を二手に分けることで大規模な別働隊を夜陰に乗じ、密に妻女山へと接近させておき、夜明けと共に一気に攻めるという方法も用いる。これに驚いた上杉勢が妻女山を下るが殲滅する作戦を献策し、これは啄木鳥が嘴で木を叩くことで、驚いた虫が飛び出てくるので、そこを狙うということから「啄木鳥戦法」と呼ばれるようになる。