新居浜喧嘩祭りの歴史
ホーム 上へ

 

平成13年川東リポート
平成12年川東リポート
平成11年川東リポート
平成12年新調
平成11年新調
太鼓台ビデオの評価
山端太鼓台喧嘩の歴史
新居浜喧嘩祭りの歴史
人気の縫師
分裂前夜
愛媛祭り紀行
山端写真集
太鼓祭りリンク
更新情報

新居浜喧嘩祭りの歴史

新居浜太鼓祭りはその激しい鉢合わせから”喧嘩祭り”とも言われる。その歴史を追ってみたいと思う。

もともと御輿のお供に過ぎなかった太鼓台。明治時代を迎えるあたりから巨大化し、現在のようなサイズになったらしい。いわゆる”蒲団(ふとん)太鼓”と呼ばれる物は、瀬戸内沿岸に広く分布し、特に新居浜と似た形状を持つ物は愛媛県東部から香川県西部にかけて見られる。

昭和30年代あたりまでは、そのどれもが喧嘩をしていた。その原因は漁場争いであったり、水の権利などを争っていたと言われている。これが現代の喧嘩の原因にあてはまらないことは分かると思う。漁師で生計を立ててる自体が減っているだろうし、水は上水道や灌漑用水が引かれているのだから。

ちなみに、新居浜の太鼓台は”新居浜型”と呼ばれる。○○型と呼ばれるぐらいだから、他の市町村にも“新居浜型”の太鼓台が存在する。その多くが、新調した新居浜の太鼓台を下取りとして受け入れることから普及することが多い。新居浜型は近隣の蒲団太鼓の中でももっとも巨大で、もっとも豪華絢爛で知られる。その金額は最近では平均5,000万円程度だと言われ、すべてが地元の寄付によって作られている。新居浜では中古を買うことはほとんどない。が、最近は著名な縫師に制作を依頼するのではなく、自治会員の手作りも増えている<人件費がかからないので安くできる。特に今まで太鼓台を所有していなかったところがこの手法で作ることが多い。逆に、伝統ある太鼓台所有自治会は意地の張り合いで、有名縫師制作によって、6,000万、7,000万という制作費と5年近い歳月を要して新調するところも多い。

その昔は中古を買った自治会同士の仲が悪いと、買われていった先で喧嘩をすることもあったそうだ。

昭和40年代に入ると、各地で喧嘩をしなくなる。過疎化、時代の移り変わり、そして警察の締め付け強化などが原因と言われる。その中で、新居浜はピークを迎える。特に新調直前は“喧嘩時”で、そして新調はブームがある。つまり多くの太鼓台が新調直前=ラストナイトフィーバー状態ですな(笑)毎年のように繰り返される喧嘩。その根底には“祭りの間は無礼講”という市民の意識がある。よく、収穫を祝い、神に感謝するはずの祭りで喧嘩をするのは何事か!などという声も聞くが、新居浜の神様は喧嘩が好きらしい(笑)神様はお供の太鼓台が騒げば騒ぐほど(つまり喧嘩)喜んだ とも言われる。

しかし、それも昭和46年 3地区の喧嘩を最後に一時幕を閉じることになる。

新居浜も昭和40年代に入って喧嘩を抑えるべく、いろいろ手を尽くしている。それまで3地区が別々の日に行っていたのを昭和41年に現在のように3地区合同3日間に統一。これにより外人部隊が各地に出張するのを抑える。そして、喧嘩した太鼓台はその年残りの日程、及び翌年の運行自粛(運行停止)。後は新居浜祭りの観光化。各地の催し物に出張したり、四国3大祭りの阿波踊り、よさこい祭りとの交流を深めたりして事実上、外部から視線をそそがれることにより、新居浜の祭りは観光資源だから、安全を考えなければならないという意識を植え付けたと思われる。

これらの施策はほぼ成功し、昭和50年代に入るころから小競り合いを除き喧嘩はほぼ一掃された。

観光客も増え、人口わずか13万の観光など何もない地方都市に一時は3日間で35万人もの見物客が訪れるようになった。

しかし、昭和最後の年の63年川東地区河川敷で町と宇高がちょっとした諍いから喧嘩に発展。会場がタイヤを付けたままの入場ということもあり、久々のタイヤを付けた喧嘩になった。この喧嘩自体は偶発ということもあって、あとに遺恨を残すことなく穏便に終結。だが、これがきっかけとなり、新居浜に喧嘩が復活してしまった…

翌年年号が変わって平成元年。川東地区阿島太鼓台が本郷太鼓台を挑発。結果的に本郷が切れる形で喧嘩に発展。ちなみにσ(^O^)も本郷とは組んでいて入りやすかったので、参戦(笑)。阿島は事前に青年団が喧嘩を仕掛ける話し合いが出来てたらしい…。噂ではそれに合わせて外人部隊も意図的に招き入れていたようだ。ただ、喧嘩を売った相手はうちの地区じゃ喧嘩太鼓と言われるところ・・・ま、相手が悪かったね(^^;

さらに翌年の平成2年はもう雰囲気が異様、、、当時タイヤを付けて喧嘩をしていたのは川東地区だけということもあり、外人部隊が大挙押し寄せてもう一触即発状態。早速17日の河川敷で楠崎と澤津が激突。その後もあと何台が喧嘩するかわからないような状態。運営委員会でも喧嘩を抑えられないという意見が出て、統一行動をボイコットする太鼓台(今の川東西部地区)も出てきた。最終的には運営委員会の分裂を条件に一部の太鼓台が統一行動を拒否。13台中6台のみが最後の宮入をした。そして翌年運営委員会の分裂により川東の喧嘩は一旦終結。

σ(^O^)も最終日は喧嘩を目前に緊張と浮き浮き気分で自治会館に向かったんですけどね(笑)あえなく解体の憂き目にあいました…<自治会館の中で喧嘩する、しないでかなり揉めました、、、やりゃぁよかったのに〜ヽ(´―`)

平成4年、今度は川西地区で喧嘩が始まる。川西地区は常に挑発行為を繰り返していたが、タイヤを付けての喧嘩にはなかなか至らなかった。しかし、この年の大江対中須賀をきっかけに年々激化。

平成5年の東町対西町 喧嘩装備で奇襲をかけられ敗北した西町が、リターンマッチを仕掛けに行ったが、すでに東町は解体済み。西町太鼓台は怒りのやり場を東町自治会館破壊に向けたようだ(^^; 

平成6年にはついにかき夫から死者が出る。大江対中須賀が強度に武装を施し激突。足を切断した物や、指を飛ばしたものもいるという話…。この喧嘩が原因でそれまで1年だった運行停止処分が内容によっては複数年もありうると変更。

平成6年にはほとんど喧嘩をしない上部地区で、たぶん史上初じゃないかな?4対4の喧嘩が起きた。数年後の新調を目指し、とりあえず引退して個人の手に渡っていた古い飾り幕をつけての出場だった喜光地が、長野に”ぼろ”と言われて切れたため、校区対抗戦。

川西の喧嘩は大江、東町、西町、中須賀の4台によって進められてきたが、平成9年になり久保田が参戦。前年に江口と西原の挑発に切れたようだが、その切れた場所というのが、新居浜市制60周年記念市内統一寄せの会場(^^; 普段は交流のない3地区が市制60周年の記念行事として一ヶ所に集まり、かき比べを行うはずが…なんと12万人の観客の中に裸で喧嘩装備までして登場(笑)結果的に相手の江口はタイヤを裂かれ、動きが鈍くなり、四本柱を折られ(今では珍しく木の四本柱だった<最近はほとんどがステンレス製…もちろん喧嘩に備えて(笑))重が落下。

翌日にも西町対東町の喧嘩が。仕掛けた久保田と西町は初めての足かけ3年の運行自粛。

平成3年以降、分裂して接点のなかった川東地区と川東西部地区だが、やはり台数が多い方が盛り上がるのは必然。ということで、平成8年八幡神社宮入を合同で…と言っても、タイヤが付いている間はお互いの顔が合わないようにして神社前まで行くようにして、なんとかうまくいった。んで、翌年の平成9年は拡張して同じ手法で多喜浜駅前も合同でやったのだが…挑発行動があり、川東地区は宮入を断念(八幡神社は川東西部地区にある)しかし、松神子が運営委員会を無視する形で八幡神社前に進行。これに宇高が激怒して一旦引き上げた松神子に対して挑発。これに対して松神子は楠崎、白浜、阿島を引き連れて再び八幡前に裸で進行。

最終的に宇高対松神子の喧嘩で松神子の指揮者の婚約者で隣接市から見物に来てた二十歳の女性が宇高のかき棒により頭を打って死亡。なんでも見物客から死亡者が出たのは初めてとかなんとか…

この喧嘩は今までのすべての喧嘩と違うところがある。それは今まではすべて自治会同士の喧嘩であり、複数台になることがあっても、それは“組んでる”ことから複数台になっただけだった。ところがこの喧嘩は史上初の運営委員会の喧嘩。本来なら喧嘩を止める役目の運営委員会が喧嘩するぞ!と言い出す始末・・・川東が分裂した後に出来て、本来この喧嘩には関係無いはずの浮島なども“運営委員会の号令のもと”参戦準備(^^;

平成11年の八幡神社内のいざこざもその延長線上にあります。

川西地区は昔も今もそれほど対戦相手が変わってないと思われる

大江、東町、久保田 対 中須賀、西町、江口、西原

特に近年は大江 対 中須賀  東町 対 西町が激しく喧嘩してる

 

上部はあまり喧嘩しない

昭和40年代中頃まで 中筋 対 北内 他は不明

平成6年 喜光地が長野に”ぼろ”と言われて切れたため、校区対抗戦

船木校区(長野、池田、元船木、高祖) 対 角野校区(喜光地、中筋、北内、角野新田)

が、これも一過性で、やはりほとんど喧嘩は無い

 

川東地区

昭和46年以前

山端、本郷 対 澤津、町

宇高、田の上 対 松神子、楠崎

 

平成元年以降

川東西部地区垣生校区(山端、本郷、町) 対 川東地区多喜浜校区(白浜、阿島、東浜)

川東地区神郷(こうざと)校区(松神子、楠崎、田の上?) 対 川東西部地区高津校区(澤津、宇高)

川東は校区ごとにまとまってきている。原因はσ(^O^)が小学生の頃始まった、初日に行われる小学校のお祭り集会ではないかと言われる。校区ごとに集まって交流を深めるうちに…って感じ。

しかし、川東は昨日の友は今日の敵、昨日の敵は今日の友って状態です(^^;

 

喧嘩の見方について

平成9年に見物客の女性が死亡しましたが、その後アンケートが市の主導でありました。市内100、市外100のサンプル数。解答率は8割ぐらいだったかな?安全に対する項目で、市外の6割の人が「安全は主催者が用意するべき」と答えたのに対し、市内の4割以上は「安全は自分で守るべき」という回答でした。日本の常識、世界の非常識なんて言いますが、新居浜の常識は市外の非常識ですね(笑)ま、これは穏やかな言い回しで、本当は「祭りで怪我するのは怪我したやつが悪い!」ってことを言ってます(ぉ

喧嘩を見るにはくれぐれも喧嘩場で注意して回る人のことをよ〜く聞いて見て下さい。そうすれば死なずにすみます(笑)

 

最後に喧嘩装備について…

喧嘩には破壊力を増す、あるいは防御力を高めるためにいろいろ装備を施すことがあります。まずは鎧 これは太鼓(叩く方ね)を守るために丸太を組んだ物、あるいは鉄板などを太鼓の前に置くことをいいます。

昔は四本柱を折られない為にワイヤーで補強することもあったそうです。

あとはやっぱり鉄車輪。普段は中空タイヤを使ってますが、喧嘩時には裂かれる可能性があります。そういうときは鉄車輪(笑)<かなりやばいらしいけどね…

破壊力を増すためによく使われるのがかき棒を前にオフセットして付ける。それと横棒を増やす。結構お手軽なのでよくやってます。あるいは、かき棒の先端に被せ物をする。特に先が刃物状になったものは破壊力大ですね。

最近はかき棒の長さが決まってるため使われることがないようですが、昔は喧嘩用に極太、極長のかき棒を用意してた所もあるようです。例えばうちのように(^^;

 

何故喧嘩をするのか、あるいは喧嘩を続けているのか…これというのは難しいですが、仲が悪いところがあるから(^^;ってのも多いですよ。ようは連綿と続く因縁ってやつです。祭りは発散の場だって言う人もいますし。喧嘩するのが当たり前になってるっていうか…

やってておもしろいってのも事実ですし、また興奮もします。ビデオにもありますけど、麻薬と一緒ですよ(^^;